背に腹は代えられない⑯
“彼女”に名を呼ばれた瞬間、身体が硬直し、血の気が引いたのが自分でも分かった。
「イリキ、さっきから様子がおかしいけど、どうかした?」
心配そうに聞いてくるコマに、胡乱な目を向ける。
目の前に、この泉の守護者がいなければ、コマの首を絞めて、そのまま絞め落としながら怒鳴り散らしているところだ。
例えば。
自分の過去も秘密も弱点も何もかもが書かれた手帳があるとする。
本来ならば、自分以外の誰にも見られることのないその手帳が、“彼女”の手に握られ、自分自身さえも読むことの出来ない部分まで読み取られているような、丸裸にされたような気恥ずかしさと心もとなさ。
冷や汗が、一筋流れた。
本来、精霊は人よりも高みにある存在。それも人によって神格化された守護精霊は、そのさらに上を行く。人と動物ほどに、知識においても力においても埋めようがない差があった。
自分よりも高みにある存在に“真名”を知られ、呼ばれるということは、存在そのものを暴かれ、縛られることでもある。身体の中の核とも言うべき何かをつかまれたような、命を握られた感覚に、イリキは青ざめるしかなかった。
引きつった表情のまま、コマをしっかりと睨みつける。
いったい、後でどれくらいコマを締め上げてやればいいだろう?
不穏な気配を察知したのか、コマが怯えたような顔で一歩後ずさった。
「そ、そういえば、いつから“穢れ”がこんな場所に出るようになったの? なんだか、変な感じがする“穢れ”だったけど」
コマは慌てたようにイリキから“彼女”に視線を移して、話しかけている。
逃げたな。
しかし、あの異様な“穢れ”については、イリキも疑問に思っていたもの。
黙って同じように“彼女”の青い瞳に視線を向ける。
二つの視線を向けられた泉の守護者は小さく首をかしげた。
「私にもあの“穢れ”に似たものが何であるのか、分かりません。ただ、以前コマ様がいらっしゃった後、しばらくして何者かがあれを撒き散らしたのです」
ただ話をしているだけだというのに、鈴が鳴るかの様に、響く声。
“彼女”はその時のことを思い出してか、美しい柳眉をひそめた。
「清めても清めても、次から次へと増殖してきて、払いきれず、侵食を受けてしまったのです。その時は、かろうじてそれ以上の浸食を阻みましたが、身に受けてしまった分を清めるため、本性に身を変えて泉の源に身を潜めていました」
「水が、足りなかったからだね」
コマが後悔をにじませた声で言うと、“彼女”はその白い手で慰めるようにコマの手をとった。
「ここ最近、この一帯ではまとまった雨が降りませんでしたから」
もともと水量が少なくなっていたところを“穢れ”に襲われ、清めることが出来ず泉の奥深くに身を隠した。
「それならばなぜ、“穢れ”が増殖したのですか?」
普通、“穢れ”が増殖するには、宿主がいなければ成り立たない。
宿主なしに“穢れ”が増殖したというならば、その媒体は何だったのか。
それを問うと、“彼女”は小さく首を横に振った。
「分かりません。ただ、あの“穢れ”は、目的を持って動いているように感じました」
「ミコトを探しているみたいに見えたけど」
コマが口元に手を当てて、いや、とつぶやく。
「ミコトを探す、って言うよりも、ミコトだけを、宿主にしようとしていたみたいだったんだ」
確かに、あの蔦もどきの“穢れ”は、この場に潜む“目に見えぬもの”たちには、全く反応を示さなかった。イリキたちには見えなかったが、確かにその存在を感じ取れていたというのに、だ。
「“穢れ”が対象をえり好みする、か」
奇妙な話だ。
少なくとも、これまで“穢れ”が特定の宿主だけに寄生しようとするなんて話は、聞いたことがない。
「それに、“穢れ”を撒き散らしていった“誰か”がいるんでしょう?」
「あるいは、その“誰か”が宿主だったのか」
「“誰か”か・・・」
イリキの言葉に、コマは口元に手を当てたまま、聞き取れないほど、小さな声で何かをつぶやきながら、思考に沈んでいく。
この小さな言術士は時折こうして自分の考えに沈み込むと、しばらくは戻ってこない。
その間に、勢い良くあふれ出している泉と、いまや満々と水を湛えている湖に視線を向ける。
遠くで夕日を受けて輝く大きな魚が跳ねた。
そこに、“穢れ”が潜む気配はない。
「もう、大丈夫なのですね」
「はい。今の私に、払えぬ“穢れ”はありません」
“彼女”は小さく頷き、力強く肯定する。
自信にあふれる“彼女”の青い瞳は、この陽を反射する泉のそれと同じように煌めいて見えた。