背に腹は代えられない⑬
(あの、馬鹿!)
イリキは動くな、という言葉を残して苦しげに暴れる灰色の大蛇に向かって駆け出していった小さな言術士に驚くのを通り越して、瞬時に怒りが湧いた。
あの大蛇が本当にこの地の守護者である“彼女”だとするなら、コマを庇って“穢れ”に捕らわれてしまったのは、とても危険な状態だといえる。
“穢れ”を受けて、“彼女”が苦しげな声を上げるたびに、この地の“人ならざるもの”たちまでが狂気に染まっていく。
風は刃となり、木々を倒し、大地を抉る。
かろうじて防いでいるが、結界がなければ自分もコマもただではすまないだろう。
それさえも、まだ彼らほんの一部の力でしかないと分かるだけに、“彼女”が狂気に染まりきったときに何が起きてしまうのか、予想もつかない。
小さな言術士は泉の水と清めの力を結びつけて“穢れ”を少しでも払おうとしたが、胴回りだけで軽く森の大木を凌ぐ太さをもつ大蛇は、あまりにも大きすぎ、そして泉の水はあまりにも少なくなりすぎていた。
(だからといって、闇雲に突っ込んでいってどうする!?)
食に関すること以外は、全く計画性がなく行き当たりばったりの行動をとるコマを知っているだけに、イリキはコマを引き戻すための“言”を発しようと口を開けたとき。
いまや漆黒に染まりきってしまった大蛇の大きく開いた口の中に、コマが頭っから突っ込んでいった。
大蛇が口を閉じて、不自然に膨らんだ喉をさらす。
頭が、真っ白になった。
「・・・コマ?」
“口”であるはずの自分から出てきたのは、小さな言術士の名前だけで。
どくり、と心臓が大きく、ゆっくりと音をたてる。
全身が総毛立つ。
耳鳴りと共に、意識が薄くなっていく。
一瞬が、永遠にも近い時へと変わる。
(だめだ)
変化していく感覚を、止められない。
昔、一度だけ感じたことがあるこの制御できない感覚の変化に、イリキは無表情で固まったまま、激しい焦燥を感じた。
あと少しで何かが完全に変化してしまう、その直前。
首の一部を膨らませた大蛇が、突然激しくもがきだした。
まるでゆっくりと膨らんでいく皮袋のように、コマを飲み込んだ首の辺りだけでなく、全身が膨張していく。
苦しげに暴れようとするが、激しく動いているのは、湖のほうに落ちていた尾だけで、頭と胴体はほとんど動かず、どんどん膨らんでいく。
かっと目を見開いて、天に向かって裂けんばかりに大きく口を開けたかと思うと、大量の水を吐き出した。
「コマ!」
噴水のように勢い良く、天高く吐き出される水が辺り一面に降り注いでくる中、呑みこまれたはずのコマも吐き飛ばされるのが見えた。
間違いなく中島にたたきつけられる位置に落ちてきたコマを、ずぶぬれになりながら受け止めると、激しく咳き込みながら、ぐったりと身体を預けてきた。
今日という一日で、一体何度死にそうな目にあっているんだ、こいつは。
先ほどまでの自分でも止められない感覚が遠ざかったことと、とりあえず生きている様子のコマに安堵する。
大蛇のほうは、激しく苦しみながら、滝のような大量の水を吐き出しつづけ、泉はあふれ、湖へと流れ込んでいく。
「“穢れ”が、はらわれていく・・・」
黒く染まっていた泉の水が吐き出された水と混じり、透き通った色へと変化する。
それだけではない。
“穢れ”で真っ黒に変化していた大蛇の身体が、溢れ出る水で洗い流されるように、黒から灰色へ、灰色から白へと本来の色を取り戻していく。
「『水月を護りしミコト』」
腕の中のコマが、つぶやくように何かの“言”をつむぐ。
「『源を受け取りたまえ』」
コマは、まっすぐに大蛇だけを見つめていた。