背に腹は代えられない⑫
大きな水飛沫を上げながら、身体を泉に叩きつけるようにして絡みつく黒い物体を引き剥がそうとする“彼女”の動きに、泉にかろうじて残っていた水が、どんどん湖のほうへとあふれ出していく。
その分、彼女の身体にかかる水がどんどん少なくなってしまう。
「ミコト! 水を弾いちゃ駄目だ、水に浸かって!」
次第にモヤのような黒い物体がどんどん彼女の身体に付着し、絡みついた部分からその黒さが溶け込んでいくように、黒く染まっていく。
「ミコトっ、駄目だったら!」
絶叫を上げながら、苦しげに泉の水で黒く侵食してくるものを落とそうとしているのに、暴れれば暴れるほど水はどんどん少なくなっていってしまう。
必死に叫ぶコマの声は届かないのか、ミコトの大きな身体は水に浸かることはなく、真っ黒な部分がどんどん増えていく。
「ミコトっ!」
「本当に、あれが“彼女”なわけか。厄介だな」
落ち着いた、だけどどこか呆然としたような美声に、コマが振り向くと、いつの間にかイリキがコマの腕を取って、彼女から遠ざけるように中島に引き上げる。
「イリキ!?」
「落ち着け。あれは『穢れ』だ。今の“彼女”に声は届かない」
「け、『穢れ』!? そ、そんなことを聞いて落ち着けるかぁっ!」
黒いモヤが張り付くように、“穢れ”が、彼女に寄生していくのを目の当たりにして、落ち着いていられるわけがない。
コマは、イリキの腕を振り払うと、泉の水に両手を浸す。
「『清き水、流し清めよ』」
コマの“言”を発すると、泉の水に触れた“穢れ”が消滅し、代わりに水がにごる。
しかし、すぐにまたどこからともなくモヤが集まり、蔦のような“穢れ”に戻ってしまう。
どうしよう。
“彼女”の身体に触れている水の量が圧倒的に足りないんだ。
苦しむ“彼女”の悲鳴が泉に、中島に、湖に響き渡る。
“彼女”の肌に黒い“穢れ”が増えるのと比例して、あたりに不穏な気配が立ち込め始める。“彼女”の苦しげな叫びに呼応するように、目に見えぬものたちが、その爪と牙をむき出しにし始める。
周囲で木々や地面がえぐられ、風が吹き荒れる。
「・・・まずいな」
荒れ狂う気配の正体をイリキは感じ取ったのか、青ざめながら、物理的な衝撃を防ぐ“言”を紡ぐ。
彼女が支配するこの“場”で、それでも“言”の効果を発揮できるなんて、本当に“セイランの口”は常識外れもいいところだ。
イリキなら、泉の水にもっと“清め”の力を持たせることが出来るかもしれない。
だけど、例えできたとしても、泉の水じゃ足りない。
コマは思わず頭を抱え込む。
(どうしよう。どうすればいい!?)
時として、“穢れ”は宿主の本質さえも変化させてしまうことがある。
これ以上“穢れ”が進めば、“ミコト”も“穢れ”に変質させられてしまうかもしれない。
「そんなの、いやだ」
なんとかしなきゃ、何とか・・・。
彼女に、コマの声は届かない。
水が足りないから、“穢れ”を落とせない。
コマは頭を抱え込んでいた手を、口元に当てて、思考に沈む。
「“穢れ”は清められる。清めとは水。水は穢れを洗い流し、流れの源は・・・。あ。ああっ!? 何をやってるんだ、僕は!?」
思わず絶叫すると、ほとんど真っ黒になってしまった“ミコト”の目がこちらを向く。ひどく苦しげで、荒れた瞳に、コマはぎゅっと唇を噛んだ。
「イリキ」
「なんだ」
すぐ傍に立っているイリキに小声で呼びかけると、すぐに返事が返ってくる。
こんなときに一人じゃなくて本当に良かった、と思いながら、コマはまっすぐにイリキを見た。
イリキは、黒く染まっていく彼女を冷静な目で見ながら、何かを考えているようだった。
「僕に考えがあるんだ。これから僕が何をしても、何があっても、動かないで」
「何をする気・・・おいっ、コマ!」
真剣な声で言えば、イリキがいぶかしげにこちらを見たが、その視線と美声を無視して、コマは内側のポケットにしまっていた玉を握り締めると、彼女めがけて駆け出した。
正気を失い、怒りと痛みと苦しみとで荒れ狂う“ミコト”が、真っ赤な口を大きく開けてコマめがけて飛びかかってくる。
白い牙さえはっきりと見て取りながら、コマは避けることもせず、走る勢いそのままに地面を蹴った。
「『清き水、流し清めよ』!」
大声で叫ぶように“言”を発すると同時に、コマは真っ赤な口に頭から丸呑みにされた。