背に腹は代えられない⑩
突然足元の地面から現れた黒い物体は、その勢いのままコマを一瞬持ち上げたかと思うと、コマの全身を覆いつくす。
(なに、これっ!?)
ねっとりとした、泥沼のような黒い物体に足の先から頭の上まで覆われてしまって、息も出来ない。
慌てて手足をばたつかせて黒い物体から抜け出ようとすると、何か薄い膜のようなものに当たる。爪を立てようとしても、柔軟性があるのか、少しも引っかかるところがない。
もがいているうちに、全身のいたるところから皮膚を通して何かが進入してくるような、あの気持ち悪さが沸きあがってきて、どんどん力が抜けていってしまう。
(き、気持ち悪いっ)
さっきはとっさにイリキを突き飛ばしたけど、どうせなら、体当たりにするんだった。そうすれば、こんな状況にならなかったのに!
激しく後悔しつつも、せめて頭だけでも抜け出そうと、薄い膜に頭突きをした途端、コマの全身を包む黒い物体にものすごい力で締め付けられる。
ごぼり、といやな音をたててコマの口から空気が逃げた。
(し、しまったっ!)
慌てて口に手を当てようとしても、黒い物体からの圧迫感で腕が全く動かせない。
特に首と胴体辺りの締め付けが強く、無理やり血液の流れを妨げられて、耳鳴りが聞こえ始めた。
(これ、本当に、まずいっ)
心臓が大きな音をたてている。
手足が痺れ、肺が、喉が、呼気を求めて内側から広がろうと震える。
外からの圧迫と中からの圧迫とで、身体が軋む。
音が、遠のく。
(し、んじゃ、うかも・・・)
どこかぼんやりと死の予感を感じながら、身体から力が抜けて気が遠くなりかけた時。
泡が、はじける音がした。
それと同時に、全身を蝕んでいた気持ち悪さが、引いてゆく。
―『コマ』!―
突然響いた、横っ面のひっぱたくような激しい声に、コマが思わず目を開けると、黒い物体を弾き飛ばすような、心地よい、澄んだ水に包み込まれていた。
(ミコト!?)
全身を覆っていた嫌悪感がきれいに洗い流される。
泉の水だ、と気付いたのは、勢い良く黒い物体から引き剥がされ、泉に落とされたあとだった。
水面に叩きつけられるだけでなく、そのままの勢いで水底にも叩きつけられた二重の衝撃に、肺にかろうじて残っていた息をすべて吐き出してしまう。
今日一日で、何度死にそうな目にあっているんだろう。
水底に沈んで横たわったまま浮き上がらない身体に、“言”でごまかすにも限界があるんだ、ということを初めて知った。
(それでも、泉で水死するのだけは絶対にいやだ)
残った力を振り絞って、水底を両手で押して立ち上がる。
空気を求めて、激しく咳き込みながら頭を上げると、信じられないものが目に入ってきた。
「ミコトっ!!」
コマの悲鳴と、声にならない苦しげな悲鳴が重なり、あたりに響き渡る。
そこには、黒い蔦もどきにその身を絡め取られ、徐々に黒く染まっていく、“彼女”の姿があった。