運がいいときほど気を抜くな
今日は、なんてついてる日なんだろう。
コマはつい緩みがちになる口元を自覚しつつ、空腹を埋めるべく昼でもやっている食堂に向かって歩いていた。
思わぬ幸運だ。
もちろん、金銭のことではない。
あの時、“口”が何人かいるのを分かっていながら、あえて“耳”を傾けたのは、“彼ら”がささやきかけてきた言葉が、決して聞き逃すわけにはいかないものだったからだ。“耳寄り所”の職員に教えたものは、ずっと前に入手していたものに過ぎない。
“彼ら”がささやき与えてくれたものは、コマにとって何よりも大切なもののひとかけら。
その言葉は、コマの中で暖かく力強く存在している。
もう、今夜屋台でご飯を食べたら、次の町に行こう。そうだ、昨日の言葉屋の隣に出ていた甘味も試さなくちゃ。ああ、鳥肉を揚げたやつも食べて。さっきまではそっぽを向いていたイルンバの街が手まねきしている気がする!
風さえも好意的に葉を鳴らし、日の光が降り注ぐ音は、
「『音葉っ!』」
突然。
無防備な耳元で膨らませた袋をたたき割られたような衝撃。
上機嫌であらゆる音に耳を澄ませて楽しい想像をしていたコマは、響いたその衝撃に思わず耳を押さえてうめいた。
視界がゆがみ、世界が激しく揺れる。
心臓が踊り狂い、音にならない音の余韻が耳の奥深くで暴れ狂う。
「おい、どうした? 大丈夫か?」
「……大丈夫……っなわけあるかぁっ!」
耐え切れなくなってしゃがみこんだコマの肩に乗せられた手を、逆にしっかりと握り締めて、コマはそのままの勢いで相手の顔も姿も見ずに勢いよく頭突きをお見舞いした。
ゴッ、という実にいい音と痛みがコマの頭に走る。
かすむ瞳で相手を見ると、あごを押さえて悶えているようだ。
「な、何するんだ」
「だまらっしゃい! あんた、“口”でしょうがっ!? 何の制御もなく力込めて叫びやがって僕に何の恨みがあるっていうのさ!?」
音にならない音が耳の中で木霊している。さっきの反撃と怒鳴り返すのとで気力と体力を使い果たしたコマは耳を押さえたまま地面に座り込んだ。
視界が回って、気持ちが悪い。
耳が、頭が痛い。
もうしばらくは立ち上がれそうもない。
完全に油断していた自分が悪いのはわかってるけど、こんな往来でまさか“口”の大音声を聞く羽目になるとは思いもしなかった。よりによって耳を澄ましているときになんて大声出しやがるんだ、と内心悪態をつきつつ、やっぱり自分の油断が原因か、と後悔と反省をしていると、荒れ狂う耳鳴りの音がふっと消える。
代わりに、柔らかく包み込むような心地よい音が染み込んでくる。
『静まれ音色、我が声にこたえてなじめ』
やさしい音に、自然と耳に意識が集まってしまう。
時間にしてわずか数秒。
意識が全部持っていかれた。
(これが、人の声?)
驚いて目を瞬いていると、紺色の瞳が目の前に下りてきた。
「もう立てるだろう?」
言われて自分の体を見下ろす。
さっきまでしていたひどい耳鳴りも、めまいも、きれいに治まっている。そっと立ち上がって全身の音に耳を傾けるが、一箇所を除いて、どこも悲鳴をあげているところはない。
「……あー。とりあえず、そこの食堂でなにか食べながらでも話を聞いてくれないかな?」
盛大になった腹の音に顔を真っ赤にしながらにらむと、紺色の瞳の男は口元をゆがめつつ、視線をそらして食堂に誘った。
即断ろうと口を開くよりも早く、また腹が悲鳴をあげた。
これ以上赤くなれないというほど、真っ赤になってうつむいたコマは、食事代は全部盛大に笑っているこの男に支払わせてやる、と心に決めたのだった。