背に腹は代えられない⑥
空から降って湧いたように、派手な水しぶきと共にイリキが現れて。
望んだ相手がやってきた喜びで駆け寄ろうとして、うんざりと、怒りのこもった目を向けられて、本能的に逃げだしそうになる身体を縫いとめた。
たしかに、さっきの音と水しぶきからいって、かなり痛そうだったけど。
もしかして、必死に“頼み”すぎた、かも・・・?
ちょっと冷や汗をかきつつ、それでもイリキに近づいて、状況を説明したのだけど、イリキは良く分からない、という困惑顔になっただけだった。
時間が惜しくて、話が通じないイリキをもどかしく思いながら、襟首を掴んで腕の力だけでなく体重をかけて引き寄せる。
本来なら、この名を他者に教えていいはずがないのだけど。
非常事態に、つべこべ言っている暇はない。
“口”なら“彼女”の名を聞けば、“彼女”が何者か感じ取れるはず。
そう思って“彼女”の名前を教えると、イリキはなぜかひどく疲れきったような、あきれきったような目を向けてきた。
それでもイリキは探す手助けをしてくれる気になったのか、コマから少し離れた場所で、“場”を構築している。
何度見ても、鮮やかな手並みだ。
コマが同じ“言”を使ったところで、こうはならない。
多少は“場”を整えることは出来るかもしれないけど、ここまで静寂をもたらすことは出来ない。
まるで、前に街で見た演劇の、幕が上がる前の一瞬のようだ。
視線は釘付け、耳を澄まして、息を潜める。
イリキが構築する“場”は、あの感じによく似ている。
“場”を整える“言”がコマにも作用したのか、焦りと恐怖でぐちゃぐちゃだった頭の中が、少し落ち着きを取り戻す。
その流れに身を任せて、焦る気持ちを耳だけに意識を集中させることで、なだめる。
心が、凪ぐ。
聞きたいものだけに、その音だけを拾うべく集中する。
コマは目を閉じて頭を下げ、どんないらえも聞き逃すまいと、意識を研ぎ澄ます。
整えられた“場”に、清浄な声が響く。
“言”の力だけではない、神聖で厳かで清らかな声。
その場にひれ伏してしまいたくなるような声に、コマはちいさく息を飲むことで耐えた。
集中しているのに、意識を持っていかれそうになるなんて。
本当に、反則みたいな美声だ。
イリキが放った彼女の“真名”は、この泉の、湖の全体に響き渡っていく。
・・・数瞬の静寂。
―・・・テ―
聞こえた!
かすかに、だけど、確かに聞こえた。
鼓膜ではなく、心を揺さぶり聞こえてくる“声”。
求めるその声を聞き取ったコマは、それだけにさらに意識を集中させて、その“声”がどこから響いてくるのかを探した。
それが失敗だった。
―ニゲテ!―
突如、鮮明に響いた“声”に、コマはとっさに反応が出来なかった。
「『ミナカミノ・・・』っ!?」
異変を感じて目を開けた瞬間、イリキとコマの足元から真っ黒い物体が飛び出して来た。