背に腹は代えられない④
(どうして、私がこんな目にっ!?)
コマに“真名”を教えたことを後悔する暇もなく、坂道を駆け下りたその勢いのまま、足を止める事も出来ずに湖の中にまで突っ込んでいく。
「ちょっ、ちょっと待てっ」
自分の意思で動かしているとは思えない勢いで湖に突っ込み、中島に身体をぶつけてやっと止まれたと思ったのも束の間、襟首を持ち上げて投げ捨てる様に中島のなかの泉に投げ入れられた。
上手く着水出来ず、バチンっという嫌な音とともに水しぶきが起きる。
痛い、これはかなり痛い。
こんな目に合うのは、成人してからは初めてだ。
ある意味、懐かしい・・・。
もう自分を無理矢理動かそうとする力がなくなったことを確認すると、イリキは泉に足をつけて起き上がった。
取り合えず足がつく程度の深さだったのは不幸中の幸いだ。
「イリキ!」
驚いたような声に濡れた髪をかきあげて見れば、コマが心底驚いたような顔で胸まで水に浸かりながらこちらを見ていた。
たった今、人を水に叩き付けたようには見えない。
だが今さっきイリキの“真名”を呼んだのは、間違いなくコマだった。
「コマ。後でゆっくり話し合わせてもらうとして、だ。何をやっているんだ?」
それはもう、一から十までじっくりと話し合わせてもらうとして。
イリキの黒い気配を敏感に感じ取ったらしいコマはビクリと一瞬怯えたように縮こまったが、思い直したようにイリキのすぐそばまで水をかき分けながら近づいて来た。
「イリキお願い! 彼女を探して!」
「彼女?」
話が見えなくて聞き返す。
「そうだよ、何度も呼んでいるのに、返事がないんだ! 今までこんなことなかったのに」
「ちょっと待て、コマ。君は一体誰を探しているんだ?」
こんな水の中で?
「だから、彼女だよ!」
相当混乱している様子のコマは、これで会話が成立していると思っているらしい。
コマはパニックになると話が通じなくなるのか。
どうしたものか、と考えているうちに、コマはイリキ襟首を掴んで強く引き寄せる。
コマの黒い瞳のなかに、驚いた表情を浮かべた自分の顔と、何かが見えた気がした。それを確かめる間もなく、コマの必死の叫びにかき消される。
「彼女の名前は『ミナカミノミコト』!」
“言”となりうる“真名”。
その名を耳にした瞬間、コマの探す“彼女”が何者なのかを理解して、一瞬、頭の中が真っ白になった。次いで激しく鼓動が響き、体中に血液が運ばれていく音さえ聞こえはじめる。
ひきはがすようにしてコマをみると泣きそうな顔でこちらを見上げていたが、イリキの方が混乱で泣きたくなった。
「お願い、彼女を探して!」
必死なその姿にイリキは大きくため息をつくと、額に手をあてた。
この子供は、本当に、一度常識というものを叩き込む必要がありそうだ。
いや、ある。
間違いなく、ある。
今後の自分の心臓のためにも、なにがなんでも叩き込んでやる!
そう、心に硬く決心したイリキは、自分の中に熱く息づくその“言”に意識を向ける。
『ミナカミノミコト』。
それは、神格化された守護精霊の“真名”だった。