聞いてないよ ④
「あのさー、もしかして、イリキって時々周りが見えなくなる人?」
どっぷりと落ち込んでいる気配がひしひしと伝わってきて、正直ちょっと声がかけにくかったけど、こういうときこそあえて軽く声をかけてみる。下手に溜め込まれるより、ちょっと突っついて小出しに吐き出したほうがいいときもあるっていうし。
コマの少し前を歩いていたイリキは、深々とため息をついて、片手を頭に当てた。
「……いや、周りがみえなくなるわけじゃない」
「……えー、でもさ」
暗い声にちょっとひるみつつ、反論しようとすると、また、大きなため息が聞こえた。
「それしか、見えなくなるんだ」
本当は言いたくないことを無理に言わされているような、どこか苦々しさが入り混じった声でいうと、イリキはさらに暗い雰囲気をまとって黙り込んでしまった。
周りが見えなくなるんじゃなくて、それしか見えなくなる。
コマはイリキが言った微妙な言葉の違いに気づいて、落ち込んで少し丸くなった背中を凝視した。
それしか見えなくなる。
それは、その周りに存在するものがある、ということさえ排除してしまうということ。
だとすれば、まだ周りが見えなくなるほうがましかも。
周りに存在するものが見えなくなったとしても、存在していることは無意識のうちに理解しているということだから。
そこまで考えて、思わず、コマの足が止まった。
「えーっと、それは、つまり……さっきは財布のことしか考えてなかったってこと?」
周りの存在を忘れ。
ただひとつの目的を確実に達成するために、“口”の膨大な知識の中から引き出される“言”。
もし、あのままその“言”が紡がれていたら。
あの“場”に集まってきたものたちの気配を思い出して、背筋に冷たい汗が流れた。
「それってさ、“口”としては致命的なんじゃ……」
なんの“言”を使おうとしたのかはわからないけど。
けれど、なんていうか、こういうときの自分の勘は残念だけどよく当たることをコマは知っている。
「わかってる、わかってるから、言わないでくれ……」
こんなときにも揺るがない美声も、さすがに落ち込んだ音をまとっていたけど。
そもそも、“口”はしっかりと“言”を発声するために、ある程度感情をコントロールして、常に冷静であるように訓練されているはずだ。
コマでさえ、“言術士”の資格を取るときに、状況下試験と呼ばれる、さまざまな突発的な状況に冷静に対応する試験を受けている。正直あまり冷静に対処できなくて、首の皮一枚で合格、という状態だったけど、“口”の試験はもっと厳しいと聞いたことがある。
ましてや、イリキはセイラン出身の“口”だ。
どんな状況でも、自分の持つ“言”を最大限に生かすための努力を惜しまない。
それがセイラン出身の“口”たちの特長とも言える共通点、のはず、なんだけど。
さっきイリキが使おうとしたであろう“言”は、発声される前からコマに冷や汗を流させるだけの威力の強い“言”。
それが、イリキほどの“口”が集中して本気で発声しようものなら……。
コマは空を見上げて、大きなため息をついた。
「聞いてないよ……」
シュルとシュリスンにつられて、同行を同意してしまった自分を思い出し、コマは本気で過去の自分を諌めてあげたい気分に陥った。