聞いてないよ ③
古物屋のテントで古い書物を興味深そうに見ていたイリキは、店の売り子と交渉を始めた。
そのやりとりを傍らで聞いていたコマは、深い、深いため息をついた。
自分が売り子のときには絶対来て欲しくない客だなぁ。
あっという間に半額以下。結局、3分の1まで値切って交渉成立。
泣きそうな顔の、イリキより少し年下くらいの売り子が気の毒になってくる。あとで店の主人に叱られたりしなきゃいいんだけど。
イリキは満足げに交渉を終えると、支払いのために財布をとりだそうとして、一瞬動きを止め、怪訝な顔をしてポケットやかばんを探し始めた。
「あれ、おかしいな。確かにここに入れておいたはずなんだが……」
イリキはいつも上着の内ポケットの中に財布を入れている。さっき宿で支払いを済ませたときは、いつもの通りしまっていたと思ったのだけど、見つからないみたいだ。
「落っことしちゃったんじゃない?」
青ざめながら、鞄やポケットをあさるイリキに、コマはのんびり声をかける。
「そんなはず無い。落とさないように、ちゃんと紐で……っ!?」
手繰り寄せた紐の先は、明らかに刃物で切断されていた。
「……すられたね」
今日から始まった市場のせいか、昔来たときの何倍もの人であふれかえっている大通り。
みんな市場を目的にやってきているのだから、それなりにお金も持っているだろう。それにあわせて、一稼ぎしようとする悪党も当然いるわけで。
そういえば、さっきイリキに子供がぶつかってたっけ。
「なんてことだ! あれには旅の資金が全部入っていたのに・・・・・・」
この世の終わりのような顔で呆然とつぶやくイリキがさすがに哀れになって、コマは軽く肩を叩きながら慰める。
「ま、良かったじゃない。刃物で刺されなくてお財布だけで済んだんだから」
売り子もどこかほっとしたような顔で、ほかのお客にいい笑顔で接客を始めていた。
実際、宿はもう支払いを済ませているし、朝ごはんはたらふく食べたし、お弁当も作ってもらったから昼ご飯も確保されている。コマにとっては、それで十分だ。
が、呆然としていたイリキが小さく口にした言葉に、風ではない何かが揺れ動く気配に、今度はコマが蒼白になった。
青い瞳が虚空を見つめ、周囲の喧騒が消える。
“言”を発する前の“口”がもたらす、静寂。
己が声だけを響かせるために構築される“場”。
「『欲深く、』」
冴え冴えと響く声。
それを聞きつけ、続く“言”に耳を澄ませているものたちの気配。
コマは、ぎゅっと目をつぶって、小さく息を呑む。
「『望み多きヴィシ』っぐふっ!」
回転をかけたコマ自慢の丈夫な足がイリキのウエストに深くめり込んだ。
高い音を立てて、“場”が壊れ。
同時に、集まっていたものたちの気配が消える。
ほっとして詰めていた息を吐き出すと、思っていた以上に深い呼吸になった。
額に浮かんでいた冷や汗をぬぐう。
うめき声を上げているイリキを見ると、鍛えているようだとはいえ、さすがに全体重をのせた不意打ちの蹴りに耐え切れず、腹を押さえてその場にしゃがみこんでいた。
「な、なにをするんだ……」
「何するんだ、じゃっなあいっ!! あんた、今何を呼び出そうとしてたのさっ!?」
苦しそうに咳き込みながら抗議をするイリキをにらみつけ、胸倉を掴んで揺すぶると、青い瞳に困惑の色が浮かぶ。
「だから、とられた財布を取り戻そうとだな、」
「だからって、あきらかにやりすぎでしょうがっ! 下手したら巻き添えで死人がでるってのっ!」
二人のやり取りを驚いたように遠巻きに見ている市場の人々の目があるから、最後のほうは小声になったけど、言いたいことはしっかりイリキに届いたらしい。
イリキは愕然としてみるみるうちに青ざめ、ついには真っ白な顔色になった。
「……すまない」
小声で言って、お腹をかばいながら立ち上がる。
「とりあえず、市場から出ようよ」
「……ああ、そうだな」
ここは人目がありすぎる。
コマはよろよろと歩き出したイリキが、古書を持ちっぱなしなのをみて、少し迷ったあと、売り子の青年にさっきイリキが値切った金額を押し付けて、イリキの背中を追った。