人生にレベルがあるのなら、俺はまだレベル1らしい。
人生にも、ゲームのようにレベルがあるのだとしたら。
俺はきっと、まだレベル1だ。
木下大樹、24歳。
大学を卒業して一年。就職活動に失敗した俺は、今も都内の飲食店でアルバイトをしている。
給料が入っても、家賃と生活費を払えば、手元にはほとんど残らない。奨学金の返済は、まだ400万円もある。
恋人はいない。
貯金もほとんどない。
自慢できるような趣味も、胸を張って語れる夢もない。
そして今日も、何も変わらない一日が終わろうとしていた。
「……疲れた」
玄関のドアを開け、靴を脱ぐ。
部屋の中には、脱ぎっぱなしの服と、飲み終えたペットボトル。テーブルの上には、いつ買ったのかも覚えていないコンビニ弁当の容器が置かれていた。
片づけなきゃな。
そう思ったのは、たぶん今日で十回目くらいだ。
もちろん、まだ何もしていない。
俺は買ってきた牛丼をテーブルに置き、スマホを手に取った。
特に目的はない。
動画を見て、ゲームを起動して、SNSを眺める。
いつもの流れだ。
SNSには、大学時代の知り合いの投稿が並んでいた。
『彼女と温泉旅行! 最高だった!』
『昇進しました! これからも頑張ります!』
『念願のマイカー!』
画面の向こう側では、みんな順調に人生を進めているらしい。
俺だけが、取り残されている。
「……すごいよな、みんな」
口に出してみたものの、返事をする人はいない。
別に、みんなが悪いわけじゃない。
努力してきたんだろうし、頑張った結果なんだろう。
頭ではわかっている。
それでも、胸の奥が少しだけ痛んだ。
俺だって、大学に入った頃はこんな生活を想像していなかった。
いつかは正社員になって、仕事を覚えて、休日には友達と遊んで。
恋人ができたら、一緒に旅行にでも行って。
そんな、ありふれた未来が自分にも来ると思っていた。
けれど、就職活動でつまずいた。
不採用の通知が届くたびに、自分の価値まで否定されたような気がした。
最初は、次こそ頑張ろうと思っていた。
その次も。
さらにその次も。
やがて応募すること自体が怖くなり、気づけば「今はタイミングが悪いだけだ」と自分に言い聞かせるようになっていた。
そうして一年が過ぎた。
タイミングが悪いのではなく、俺自身が何も変わっていないだけなのかもしれない。
「……はあ」
牛丼を食べ終え、空になった容器をテーブルに置いた。
ゲームでもやるか。
起動したのは、何年も遊んでいるオンラインゲームだった。
昔はログインするだけで楽しかった。
新しい装備を手に入れたとき。強敵を倒したとき。仲間とくだらない話をしながら夜更かししたとき。
画面の中には、確かに自分の居場所があった。
けれど今は、ログインしてもやることがない。
日課をこなし、報酬を受け取り、適当に敵を倒す。
それだけだ。
現実から逃げるために始めたゲームでさえ、いつの間にか作業になっていた。
俺はゲームを終了した。
部屋が静かになる。
窓の外から、車の走る音がかすかに聞こえた。
スマホの時計は、午後11時47分を表示している。
「俺、何やってんだろ……」
誰に向けた言葉でもなかった。
就職もできない。
金もない。
友達とも疎遠になった。
恋愛経験だってない。
何かを始めようとしても、失敗するのが怖くて動けない。
それなのに、時間だけは過ぎていく。
このまま何年も、同じ生活を続けるのだろうか。
25歳になっても。
30歳になっても。
その先もずっと。
想像した瞬間、胸の奥が苦しくなった。
「……もう、いいだろ」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
もう期待したくなかった。
もう、何も考えたくなかった。
これ以上、自分に失望するのも嫌だった。
すべてを投げ出してしまいたい。
そんな考えが頭をよぎった、その瞬間。
『――お前は、何を望む』
「……は?」
聞き慣れない声だった。
耳元で囁かれたわけではない。部屋のどこかから聞こえたわけでもない。
頭の奥に、直接響いてきた。
低く、静かな声。
人間の声に似ている。けれど、どこかが違う。
感情がないわけではない。
むしろ、こちらの感情などすべて知ったうえで、問いかけているような声だった。
「……誰だよ」
返事はない。
俺は顔を上げ、部屋を見回した。
散らかった床。薄汚れた壁。閉め切ったカーテン。
誰もいない。
「ふざけんなよ……。なんなんだよ、さっきから」
『答えよ』
「は?」
『お前は、何を望む』
同じ問いが、もう一度繰り返された。
その瞬間、胸の奥で何かが切れた。
「……なんも、わかってねえな」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
「何もわかってねえくせに……!」
拳を握りしめる。
「何かを望んだって、なんにも手に入らねえ、この世はクソゲーなんだよ!」
声が部屋に響いた。
「働いても、働いても、生活なんか変わりゃしねえ! 毎日くたくたになるまで働いて、帰ってきて、飯食って、寝て! そんでまた同じことの繰り返しだ!」
誰に向かって叫んでいるのかもわからない。
それでも、口は止まらなかった。
「頑張れば報われる? 努力すればいつか夢が叶う? そんなの、最初から恵まれてる奴らの言葉だろ!」
大学を卒業して、就職に失敗して。
周りが少しずつ先へ進んでいくなか、俺だけが同じ場所に取り残された。
「一度レールから外れた人間は、もう戻れねえんだよ! 最初に失敗したら終わりなんだ! 何をするにも金がいる、経験がいる、人脈がいる! でも、それを手に入れるための金も経験も人脈も、俺にはねえんだよ!」
息が切れる。
喉が痛い。
それでも、止められなかった。
「俺が何をしたっていうんだよ……!」
視界が滲んだ。
「俺だって、普通に生きたかっただけだろ……。普通に働いて、普通に飯食って、たまには遊んで……好きな人ができたら、一緒に笑って……」
声がかすれる。
「そんなの、別に贅沢じゃねえだろ……」
誰も答えない。
当たり前だ。
こんなことを叫んだところで、現実が変わるわけじゃない。
明日になれば、また仕事だ。
家賃を払って、飯を食って、借金を返して。
何も変わらない毎日が、また始まる。
「……ふざけんなよ」
頬を伝った涙を、乱暴に拭った。
「なんで俺なんだよ。なんで俺だけ、こんな……」
言葉が続かなかった。
もう、怒る気力さえ残っていなかった。
俺はその場にへたり込んだ。
床に散らばった服が、膝に触れる。
惨めだった。
こんな部屋で、誰に届くわけでもない声を張り上げて。
神様にでも文句を言うように、世界を呪って。
……神様?
ふと、そんな考えが浮かんだ。
もし、本当に神様がいるのなら。
どうして、こんな世界を作ったんだ。
どうして、人によってスタート地点が違うんだ。
どうして、頑張れと言うくせに、頑張るための余裕すら与えてくれないんだ。
「……いっそ、もう……」
その先は、声にならなかった。
言葉にしてしまえば、本当に何もかも終わってしまう気がした。
沈黙が落ちる。
時計の針の音だけが、やけに大きく聞こえた。
そして。
『――木下大樹』
心臓が跳ねた。
「……っ!なんで俺の名前知って」
『お前は、後悔しているのか』
「……当たり前だろ」
反射的に答えていた。
「後悔しかねえよ……。もっと勉強しておけばよかった。就活だって、もっと頑張ればよかった。失敗したときに、逃げなきゃよかった。あのとき、ああしていれば……」
言いながら、笑いが漏れた。
「……今さら、何の意味もねえけどな」
『そうか』
声は、どこまでも静かだった。
『では、なぜ後悔する』
「……は?」
『なぜ、お前は過去を悔やむ』
「そんなの……」
答えようとして、言葉に詰まった。
失敗したから。
人生がうまくいかなかったから。
今が苦しいから。
理由はいくらでも浮かぶ。
けれど、声はそれらを待っていなかった。
『お前は、よりよく生きたかったのではないか』
――息が止まった。
『今よりも、よい未来を望んでいた。今よりも、よい自分になりたかった。だからこそ、思い描いた未来に届かなかったことを悔やんでいる』
やめろ。
『何も望まぬ者は、望んだ未来に届かなかったことを悔やみはしない』
やめてくれ。
『お前は、まだ望んでいるのだろう』
「……うるせえ」
声が震えた。
「知ったようなこと、言ってんじゃねえよ……」
『知ったようなこと、か』
声が、わずかに笑ったような気がした。
その響きに、背筋が粟立つ。
『ならば、問おう』
空気が変わった。
部屋の温度が下がったわけではない。
風が吹いたわけでもない。
それなのに、世界そのものが息を潜めたような感覚があった。
『お前は、本当に何もしてこなかったのか』
「……っ」
『失敗を恐れながらも、大学を卒業するまで学んだ。望んだ結果が得られずとも、今日まで働いてきた。苦しいと思いながらも、明日を迎えようとしている』
俺は顔を上げられなかった。
『お前は自分を、何も持たぬ人間だと言った』
声が近づいた気がした。
いや、違う。
最初から、すぐそばにいたのだ。
『だが、お前は持っている』
「……何をだよ」
絞り出した声は、情けないほど小さかった。
『お前は、自分の人生を失敗だったと決めつけている』
返す言葉がなかった。
『だが、木下大樹。お前はまだ、自分の物語の結末を知らぬ』
『道を間違えたのかもしれぬ。遠回りをしたのかもしれぬ。望んだものを手にできなかったのかもしれぬ』
『それでも――』
声が、静かに響いた。
『結末を迎えてもいない人生を、なぜお前自身が終わらせようとする』
息が詰まった。
『お前が何者になれるのか。どこまで歩いていけるのか。それを決めるには、まだ早い』
『己の可能性まで、己の手で奪うな』
胸の奥を、何かに掴まれたような気がした。
励ましの言葉なんて、いらなかった。
頑張れと言われるたびに、頑張れない自分が嫌になった。
努力しろと言われるたびに、努力できない理由を探す自分が嫌になった。
大丈夫だと言われるたびに、大丈夫じゃない自分を隠したくなった。
それなのに。
この声は、俺を無理に励まそうとはしなかった。
ただ、俺が自分自身に下した判決を、静かに否定した。
お前は終わっていない、と。
『――木下大樹』
再び、名前を呼ばれる。
今度は、はっきりと聞こえた。
『お前に、ひとつ機会を与えよう』
「……機会?」
『お前が望むのならば、己を知ることができる。己の力を知り、己の弱さを知り、己がどこまで進めるのかを知ることができる』
何を言っているのか、わからない。
いや。
わかりたくないのかもしれない。
そんな都合のいい話が、あるはずがない。
『もちろん、すべてが思いどおりになるわけではない』
声が告げる。
『お前が何もせぬのなら、何も変わらぬ。お前が選ばぬのなら、道は開かれぬ』
そして、最後に。
『――それでも、お前は変わりたいか』
俺は、顔を上げた。
「…………」
答えられなかった。
怖かった。
期待して、また裏切られるのが。
何かを始めて、また失敗するのが。
それでも。
何も変わらない明日を想像したとき、胸の奥がひどく痛んだ。
俺は、震える唇を開いた。
「……変わりたい」
かすれた声だった。
「変わりたいよ……。俺だって、こんな人生のまま終わりたくねえよ……!」
その瞬間。
視界が、白く染まった。
「うっ……!?」
頭の中に、膨大な情報が流れ込んでくる。
数字。
文字。
見たことのない記号。
理解できないはずの情報が、意味を持って脳裏に刻み込まれていく。
頭が割れそうだった。
俺はこめかみを押さえ、その場にうずくまった。
そして、ほんの一瞬。
白い光の向こうに、何かが見えた。
人影――だろうか。
人の形をしているようにも見えた。
けれど、その輪郭はひどく曖昧で。
人間のものとは思えないほど、遠く、巨大で。
こちらを見下ろしているような気がした。
次の瞬間、意識が途切れた。
*
数秒なのか、数分なのか。
俺は目を覚ました。
そして。
目の前に、半透明の画面が浮かんでいた。
ゲームで何度も見たことのある、あの画面。
プレイヤーの情報を表示する、ステータス画面。
ただし、そこに表示されている名前は、ゲームのキャラクターではなかった。
俺自身の名前だった。
――――――――――
【PLAYER STATUS】
名前:木下 大樹
年齢:24歳
職業:フリーター
レベル:1
経験値:0 / 30
【基本ステータス】
筋力:12 / 100
知力:24 / 100
行動力:8 / 100
対人能力:11 / 100
経済力:19 / 100
【経済状況】
所持金:3,240G
銀行預金:12,680G
借金:4,000,000G
純資産:-3,984,080G
【称号】
『現状維持のプロ』
【保有スキル】
自分ステータス確認 Lv.1
【未使用SP】
3
――――――――――
「…………は?」
思考が止まった。
何だ、これ。
レベル?
ステータス?
未使用SP?
ゲームの画面にしか見えない。
けれど、どれだけ目をこすっても消えなかった。
「いやいやいや……」
俺は画面に手を伸ばした。
指先が触れる直前、画面が反応する。
表示が切り替わった。
――――――――――
【同年代との比較】
※システムによる推定値
筋力:31
知力:38
行動力:35
対人能力:42
経済力:36
――――――――――
「……嘘だろ」
全部、俺の数値より高い。
しかも、対人能力に至っては三分の一にも届いていない。
俺は乾いた笑いを漏らした。
「はは……。ゲームにまで、向いてないって言われてるのかよ」
笑おうとしたのに、うまく笑えなかった。
いや、待て。
そもそも、これは何なんだ。
夢か?
それとも、疲れすぎて頭がおかしくなったのか?
頬をつねってみる。
痛い。
もう一度つねる。
やっぱり痛い。
「……マジかよ」
そのとき、画面が再び切り替わった。
――――――――――
【チュートリアルクエスト】
クエスト名:最初の一歩
達成条件:本日23時59分までに腕立て伏せを10回行う
報酬:経験値+3
:筋力+1
失敗条件:制限時間の超過
――――――――――
「……腕立て伏せ?」
思わず時計を見る。
午後11時58分。
「いや、あと一分しかないんだけど!?」
俺は慌てて床に手をついた。
腕立て伏せなんて、いつ以来だろう。
一回。
二回。
三回。
「ぐっ……!」
四回目で、もう腕が震え始めた。
情けない。
たった十回だぞ。
ゲームなら、最初の町の雑魚敵を倒すより簡単なはずなのに。
五回。
六回。
七回。
腕が重い。
胸が床につきそうになる。
それでも、俺は歯を食いしばった。
八回。
九回。
「……十っ!」
最後の一回を終えた瞬間、スマホの時計が23時59分に変わった。
ピコン。
軽い電子音が鳴る。
――――――――――
【クエスト達成!】
経験値を3獲得しました。
筋力が上昇しました。
――――――――――
「……できた」
たった十回。
それだけだ。
人生が変わったわけでもない。
借金が減ったわけでも、仕事が見つかったわけでもない。
それなのに、なぜだろう。
ほんの少しだけ、胸の奥が熱くなった。
俺にも、できた。
そんな、当たり前のことが。
画面の下部に、小さな注意書きが表示された。
――――――――――
【システム通知】
ステータスの更新は、毎日午前6時に反映されます。
――――――――――
「明日の朝、か……」
俺はゆっくりと立ち上がった。
腕は痛いし、息も切れている。
部屋は相変わらず汚い。
借金もそのまま。
人生の問題は、一つも解決していない。
それでも、明日の朝が少しだけ気になった。
レベルが上がったら、どうなるんだろう。
ステータスが変わったら、本当に何かが変わるのだろうか。
そもそも、この画面は何なのか。
疑問は山ほどある。
けれど、今すぐ答えが出るわけでもない。
「……寝るか」
俺は布団に潜り込んだ。
スマホを充電器につなぎ、目を閉じる。
いつもなら、眠る直前までSNSを眺めていた。
明日が来るのが、嫌だったから。
でも今日は違った。
人生レベル1。
まだ、何も始まっていない。
けれど――。
久しぶりに明日を迎えてみようと思った。
1話を最後まで読んでいただきありがとうございます!
もし気に入っていただけましたら、ブックマークや評価で応援いただけますと執筆の励みになります!




