文章とストレスの相関について。
文章を書く。
アナログな感情をデジタルな思考に。
思考をさらに文章化する。
二度の変換の中で失われるもの。
或いは、取りこぼされるもの。
それが文章の形で判明するわけだが、喪失が顕著となるのは、いったいどういった時か?
変換作業には、集中を要する。
一般に、集中を阻害するものの多くは、周辺環境(=外部刺激)にある。
意識のリソースを奪う、不要な刺激を遮断し、集中する。
これが出来れば、日常的な執筆作業で、集中を削がれることもかなり減る。
そして、マルチタスクを避ける。
環境面においても。
ただし、それが出来ても、巧くいかない時がある。
内面的なストレスを抱える時である。
ストレスへの対処には、多くのリソースを割く。
しかも、問題が解決しない限り、バックグラウンドで、常に思考の帯域を喰いまくる。
思考段階における減算に加え、文章化の際にもマイナスが出る。語彙力の低下という形で。
リラックスした状態で選べる語彙の幅。
ストレスを抱えた状態でのボキャブラリ。
これを比較すると、おそらく2~3割減。
酷ければ、選択肢は半減にまで至ることもある。
構成においても、同様だ。
論理的な人間であれば、そこまでの乱れは生じない。
しかし、筆者のように、書きながら思考する者は、大いに乱れる。
普段であれば、適当な論理展開にも、それなりのオチがつく。
だが、ストレスを抱える時は、これが巧く機能しない。
結果、書きかけの文書を多く貯めることとなる。
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書きながら、考えたのは、外部デバイスによる脳機能のオンオフ。不要なセクションの常駐アプリをカットし、単一作業にリソースを割くようなデバイスの開発。
ただし、これは発想自体が機械的だし、人間の機械化と同じである。
ストレスで脳がやられると、人間はロボットになることを無意識に望む。
社会の歯車として生きる生活も、案外、ストレスを減らすという意味では、極めて機能的な脳のはたらきなのかもしれないとも、ふと。




