第1話 期待されない関係は、楽だった
恋愛に、もう夢は見ていない。
でも、何も感じなくなったわけじゃない。
30代になると、
「一人でも大丈夫」という言葉が、
自分を守る盾になる。
期待しなければ、傷つかない。
選ばれなければ、失望しなくて済む。
これは、
そんなふうに“安全な距離”で恋をしていた女性が、
それでも誰かを選んでしまった話です。
未来を約束しないまま、
感情から逃げないことを選んだ、
ひとつの恋の記録として。
もう何年も、誰かに「結婚しないの?」と聞かれていない。
正確に言えば、聞かれないように立ち回るのが上手くなっただけだ。
篠宮美咲、三十四歳。
平日の夜九時過ぎ、オフィスの蛍光灯の下で、私は今日も無難に仕事を終わらせていた。
「お先に失礼します」
誰にともなく言って、エレベーターに乗る。
鏡に映った自分は、疲れているわけでも、特別綺麗なわけでもない。
ただ“ちゃんとしている大人”の顔をしていた。
それが一番、楽だった。
——ちゃんとしていれば、何も期待されない。
恋も、将来も、人生設計も。
改札を抜けて、夜風に当たる。
スマホを取り出して、無意識にSNSを開くのをやめた。
結婚報告、出産報告、家族写真。
見ない努力をするようになったのは、いつからだろう。
代わりに、行きつけのカフェに足を向ける。
ここなら、誰にも話しかけられずに済む。
「こんばんは」
カウンターの向こうで、低めの声がした。
顔を上げると、見覚えのある青年がいた。
「あ……こんばんは」
名前は知らない。
ただ、何度か同じ時間帯に見かける人。
パソコンを広げて黙々と作業している、少し年下そうな男性。
「いつもの、でいいですか」
「はい、お願いします」
それだけのやりとり。
雑談も、距離を詰める気配もない。
——助かる。
この年になると、知らない男性から話しかけられること自体が、少し怖い。
下心があるわけじゃなくても、
“何かを期待される空気”に、過剰に身構えてしまう。
コーヒーを受け取って、窓際の席に座る。
しばらくして、隣の席にその青年が腰を下ろした。
仕事帰りだろうか。
スーツに少しだけシワが寄っている。
「……今日も遅かったですね」
彼がぽつりとそう言った。
一瞬、返事に迷った。
踏み込んでくるタイプではないと分かっていても、
“会話”が始まること自体に、警戒してしまう。
「まあ……いつも通りです」
「ですよね」
それで会話は終わった。
それ以上、広がらない。
——なんだろう、この人。
不思議と、嫌じゃなかった。
むしろ、心が緩む。
名前も、年齢も、恋愛状況も。
何も聞かれない。
それが、こんなに楽だなんて。
「篠宮さん」
呼ばれて、少し驚いた。
「……名前、知ってたんですね」
「レシートに書いてあったので」
そう言って、少しだけ困ったように笑う。
「あ、俺、結城です」
「……どうも」
名乗り返したけれど、
“よろしくお願いします”という言葉は飲み込んだ。
よろしくされる関係になる気は、なかった。
「無理しすぎないでください」
帰り際、彼はそう言った。
心配でも、口説き文句でもない。
ただの事実確認のような声。
なのに、胸の奥が少しだけ、きゅっとした。
帰りの電車。
窓に映る自分の顔を見ながら、考える。
恋愛は、もう十分だ。
期待して、裏切られて、
「大人なんだから分かるでしょ」と言われてきた。
——好きにならなければ、傷つかない。
——期待されなければ、失望しない。
結城透。
年下で、不器用で、距離を詰めてこない人。
もし、誰かと一緒にいるなら、
こういう人がいいのかもしれない。
未来の話をしない人。
夢を語らない人。
私に、何も求めない人。
スマホが震えた。
知らない番号からの着信——ではなく、
さっきカフェで交換したばかりの、結城からのメッセージ。
『今日のコーヒー、少し薄かったかもしれません。すみません』
思わず、小さく笑ってしまった。
『大丈夫でした。ありがとうございました』
それだけ送って、スマホを伏せる。
この関係に、名前はいらない。
期待も、約束も、期限も。
——期待されない関係は、楽だ。
その“楽さ”に、
私がどれだけ救われているのか、
まだ、このときの私は気づいていなかった。
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