第9話 猫と老紳士の秘密
水曜日の午後、喫茶シリウスには常連客が数人いた。
明穂は、コーヒーを運びながら窓際の席を見ている。
「京馬さん、今日も藤井さん来てますね」
「ああ。週に三回は来る」
京馬は豆を挽きながら答えた。
窓際の席には、七十代くらいの老紳士が座っている。いつものように、本を読みながらコーヒーを楽しんでいる。
「藤井さん、いつもシリウスに好かれてますよね」
明穂が言うと、京馬は窓際を見た。
確かに、黒猫のシリウスは藤井の膝の上で丸くなっている。
「シリウスは、気に入った人間にしか近づかない」
「藤井さん、特別なんですね」
その時、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、四十代くらいの女性だった。スーツ姿で、少し疲れた様子が見て取れる。
「いらっしゃいませ」
明穂が声をかけると、女性は店内を見回した。
「あの……」
女性は藤井を見つけて、近づいていった。
「お父さん」
「ああ、豊子か」
藤井は本から顔を上げた。
豊子と呼ばれた女性は、少し困った顔をした。
「麻美よ、あさみ。豊子はお母さんでしょ。また、ここにいたのね」
藤井は穏やかな笑顔を見せた。
「ここは、落ち着くんだ」
「でも、毎日じゃない……」
「週に三回だけだ」
「それでも多いわよ」
麻美はため息をついた。
京馬が近づいた。
「娘さんですか」
「はい。いつもすみません」
麻美は頭を下げた。
「父が、こちらに入り浸っているようで」
「いえ。藤井さんは、大切なお客様です」
「ありがとうございます」
麻美は少し声を落とした。
「実は、五年前に母を亡くしてから物忘れが目立つようになって……。先日、認知症だと言われました」
「そうだったんですか」
京馬は静かに頷いた。
「はい。まだ初期なんですけど、時々昔のことと今が混ざってしまって」
麻美は藤井を見た。
「それで、よくここに来るって聞いて。勝手に家を出て」
「ここに来ることは覚えていらっしゃる?」
「ええ、不思議なことに。ここへの道だけはちゃんと覚えているんです」
麻美は困ったような、でも少し安心したような顔をした。
「お父さん、そろそろ帰りましょう」
「もう少しいいかな」
「でも……」
「ここのコーヒー、美味しいんだ」
藤井はカップを持ち上げた。
「それに、シリウスも気に入ってくれているみたいだし」
シリウスは藤井の膝の上で、目を細めている。
麻美は少し笑った。
「お父さん、猫好きだったっけ」
「昔から好きだったよ」
藤井は言った。
「家に猫がいただろう」
「お父さん……」
麻美の表情が曇った。
「家は、猫を飼ったことないわよ」
「え?」
「私が小さい頃、アレルギーがあったから」
「そうだったか……」
藤井は少し混乱したような顔をした。
「でも、確かにシリウスが……」
「お父さん、それは多分、夢か何かよ」
麻美は優しく言った。
京馬が口を挟んだ。
「藤井さん、毎回同じ席に座られますよね」
「ああ。この席が好きなんだ」
「何か理由が?」
「窓からの景色がいい」
藤井は窓の外を見た。
「この通りを、昔よく歩いていたんだ」
「昔?」
「ええと……いつだったかな」
藤井は少し考え込んだ。
「よく思い出せないんだが、大切な場所だったような気がするんだ」
麻美が京馬に小声で言った。
「父は、この辺りで働いていたことは一度もないんです。でも、そう思い込んでいて」
「そうなんですか」
「ええ。父の勤め先は、反対方向でした」
京馬は少し考えた。
「でも、何か縁があるのかもしれませんね」
「縁……ですか?」
「記憶は曖昧でも、感情は残る。藤井さんが、ここを大切な場所だと感じているのは確かです」
京馬は藤井を見た。
「藤井さん、この店に来ると、どんな気持ちになりますか」
「安心するんだ」
藤井は笑った。
「何故かはわからないが、ここにいると落ち着く」
「それは、この猫のおかげですか」
「そうかもしれない」
藤井はシリウスを撫でた。
「この子を見ていると、懐かしい気持ちになる」
シリウスは藤井の手に頭を擦り付けた。
麻美の目に、少し涙が滲んだ。
「お父さん……」
「どうした?」
「何でもない」
麻美は涙を拭った。
「ただ、お父さんが幸せそうで」
「ああ。ここは、いい場所だ」
藤井は笑った。
京馬が麻美に言った。
「藤井さん、これからも、ぜひいらしてください」
「でも、ご迷惑では……」
「いえ。むしろ、こちらが助かります」
京馬は静かに言った。
「藤井さんがいると、店が落ち着くんです」
「本当ですか?」
「ええ。それに、シリウスも喜んでいます」
明穂も頷いた。
「藤井さん、いつも本を読んでいらっしゃいますよね。それが、店の雰囲気に合っているんです」
「そうなんですか」
麻美は少し安心したような顔をした。
「ありがとうございます」
「ただ、一つお願いがあります」
京馬は言った。
「藤井さんがこちらに来られたら、連絡させていただいてもいいですか」
「あぁ……はい。お願いします」
麻美は名刺を渡した。
「父が勝手に出かけると、心配で」
「わかりました。必ず連絡します」
藤井が言った。
「私は子供じゃないぞ」
「わかってるわよ、お父さん」
麻美は笑った。
「でも、心配なの」
「すまないな」
「いいのよ」
二人が帰る時、シリウスは藤井の後ろをついていった。
「シリウス、お見送り?」
明穂が言うと、シリウスはドアの前で座って、藤井を見上げた。
「また来るよ」
藤井がシリウスの頭を撫でると、シリウスは一度だけ鳴いた。
二人が出ていくと、明穂が言った。
「京馬さん、よかったんですか。週に三回、大変じゃないですか」
「何が大変なんだ」
「だって、認知症の方だし……」
「だからこそだ」
京馬はカウンターに戻った。
「藤井さんにとって、ここが安らげる場所なら、それでいい」
「安らげる場所……」
「認知症になると、世界が混乱する。でも、落ち着ける場所があれば、それだけで救われることもある」
京馬はコーヒーを淹れ始めた。
「藤井さんが、ここを選んでくれたなら、それは光栄なことだ」
「京馬さん……」
明穂は少し目を潤ませた。
「優しいんですね」
「……別に」
京馬はそっぽを向いた。
シリウスは本棚の上から藤井が座っていた席を見下ろしている。
「シリウスも、藤井さんのこと好きなんですね」
「藤井さんは、記憶を失っても、心は優しいままだ」
「だからシリウスが懐くんですね」
「そうかもしれない」
京馬は淹れたコーヒーを一口飲んだ。
シリウスは目を閉じて、静かに丸くなった。
まるで、藤井の帰りを待っているかのように。
喫茶シリウスの、穏やかな一日。失われていく記憶と、変わらない優しさが、ここで静かに交わる。そんな日常が、また明日も続く。




