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第8話 消えた指輪



 金曜日の午後、喫茶シリウスには静けさが満ちていた。

 店内には、時計の針が刻む音だけが、静かに流れている。


「京馬さん、今日は静かですね」


「そうだな」


 京馬は豆を挽きながら答えた。

 その時、ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、三十代前半くらいの女性だった。落ち着いた雰囲気だが、どこか緊張している様子が見て取れる。


「いらっしゃいませ」


 明穂が声をかけると、女性は少し迷うような素振りを見せた後、カウンターに近づいた。


「あの……」


「はい」


「ここの店主さんは、推理とかお得意だって聞いたんですけど」


 京馬は手を止めて、女性を見た。


「誰から聞きました?」


「知人の紹介で。川上さんという刑事さんから」


 京馬は小さくため息をついた。


「……余計なことを」


「すみません、お忙しいところを」


「いえ。何かあったんですか」


 女性は少し躊躇した後、左手を見せた。薬指に、指輪の跡がある。


「婚約指輪を、なくしてしまったんです」


「なくした?」


「はい。二日前、水曜日の夜に」


 女性は奥の席に座った。明穂がコーヒーを運ぶ。


「詳しく聞かせてください」


 京馬もカウンターから出て、向かいの席に座った。


「私、神崎美帆と言います。来月結婚する予定で」


「おめでとうございます」


 明穂が言うと、神崎は複雑な表情を見せた。


「ありがとうございます。でも、その婚約指輪が……」


「水曜日の夜、どこでなくしたんですか」


「自宅です。帰宅して、いつものように指輪を外して洗面所に置いたんですけど、翌朝見たら消えていて」


「洗面所に置いたのは確かですか」


「はい。毎日の習慣なので、間違いありません」


 京馬は少し考えた。


「自宅には、他に誰かいましたか」


「婚約者と同棲しています。でも、彼は水曜日の夜、会社の飲み会で遅くまで帰ってきませんでした」


「いつ帰ってきたんですか」


「日付が変わる前くらい。午後十一時半頃です」


「あなたは?」


「私は十時には寝てしまいました。翌朝、指輪がないことに気づいて」


 京馬は腕を組んだ。


「婚約者の方は、何か心当たりは?」


「それが……」


 神崎は少し言いづらそうに続けた。


「彼は、知らないって言うんです。でも、どこか様子がおかしくて」


「おかしい?」


「いつもより、そわそわしているというか。目を合わせてくれないというか」


 明穂が口を挟んだ。


「もしかして、婚約者さんが持ち出したとか?」


「わかりません。でも、他に誰もいないし……」


 神崎は不安そうな顔をした。


「それで、警察には?」


「いえ。知人に相談したら、川上さんを紹介されて、ここに行くといいって」


 京馬は少し間を置いた。


「婚約者の方のお名前は?」


「宮下と言います」


「宮下さんは、水曜日の夜、飲み会から帰ってきて、すぐ寝たんですか」


「たぶん。私は寝ていたので、わかりませんけど。翌朝は、いつも通り出勤していきました」


「指輪がないことに気づいたのは、いつですか」


「木曜日の朝です。出勤前に、いつも指輪をつけようとして、ないことに気づいて」


「宮下さんに、すぐ聞いたんですか」


「はい。でも、知らないって。それで、一緒に探したんですけど、見つからなくて」


 京馬は目を閉じて、考え込んだ。


「指輪は、どんなものですか」


「プラチナの台座に、小さなダイヤモンドが三つ。婚約指輪としては、控えめなデザインです」


「値段は?」


「三十万円くらいです」


 神崎は俯いた。

 京馬は少し間を置いた。


「最近、何か変わったことはありましたか」


「変わったこと?」


「新しい趣味を始めたとか、出費が増えたとか」


「特には……あ」


 神崎は思い出したように言った。


「最近、スマホをよく見ています。以前より」


「どんな様子で?」


「なんというか、こっそり見ているような。私が近づくと、画面を隠すんです」


 京馬の目が少し鋭くなった。


「それは、いつ頃からですか」


「一週間くらい前からでしょうか」


「指輪がなくなる前からですね」


「はい」


 京馬は少し考え込んだ。


「神崎さん、失礼ですが、宮下さんに借金とか、金銭的な問題はありませんか」


「ないと思います。彼は堅実な人で、無駄遣いもしないし」


「結婚式の費用は?」


「折半する予定です。お互い、貯金もありますし」


「宮下さんは、普段から指輪には興味を持っていましたか」


「どういうことですか?」


「例えば、指輪をじっと見ていたとか、触っていたとか」


「ああ……」


 神崎は少し考えた。


「そういえば、一週間くらい前、私が指輪を外しているときに、じっと見ていたことがありました」


「何か言っていましたか」


「『綺麗だな』って。それだけですけど」


 京馬は頷いた。


「もう一つ。宮下さんは、水曜日の夜、何時に飲み会に行ったんですか」


「午後七時くらいです」


「その時、神崎さんはもう帰宅していましたか」


「いえ、私も遅くて。八時頃に帰りました」


「つまり、水曜日の夕方から夜にかけて、家には誰もいなかった」


「そうなります」


 京馬は少し考えた。


「神崎さん、宮下さんをここに呼べますか」


「え?」


「直接話を聞きたいんです。今、どこにいますか」


「会社です。でも、今日は早く帰れるって言っていました」


「何時頃ですか」


「五時に終わるのでそれくらいかと」


 京馬は時計を見た。今は午後四時過ぎだ。


「それなら、ここに呼んでもらえませんか。話を聞きたいと伝えてください」


「わかりました」


 神崎はスマートフォンを取り出して、宮下に連絡した。


 午後五時過ぎ、ドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、三十代前半、スーツ姿の男性だった。


「お待たせしました」


 神崎が立ち上がって迎えた。


「こちらが、火黒さんです」


「宮下です」


 宮下は少し緊張した様子で、席に座った。

 明穂がコーヒーを運ぶ。


「宮下さん、指輪のことで、いくつか聞きたいことがあります」


 京馬は静かに切り出した。


「はい」


「水曜日の夜、飲み会から帰った後、何をしましたか」


「すぐに寝ました。疲れていたので」


「神崎さんは、もう寝ていましたか」


「はい。部屋は真っ暗でした」


「洗面所には行きましたか」


「歯を磨きに」


「その時、指輪を見ましたね」


 宮下は少し間を置いた。


「……見ました」


 神崎が驚いた顔をした。


「え?」


「洗面所の棚に、置いてありました」


「じゃあ、あなたが……」


「違う!」


 宮下は顔を上げた。


「盗んだんじゃない」


「じゃあ、どうして黙っていたの」


 神崎の声が震えた。


 京馬が間に入った。


「宮下さん、指輪を持ち出したんですよね」


 宮下は黙り込んだ。


「どうして持ち出したんですか」


「……修理に出したんです」


 「修理?」


 神崎と明穂が同時に言った。


「はい。指輪のダイヤが、少し緩んでいるのに気づいて」


「いつ気づいたんですか」


 京馬が尋ねた。


「一週間くらい前です。美帆が指輪を外しているときに、よく見たら、ダイヤの一つが少しグラついていて」


「それで?」


「このままだと、落ちてしまうかもしれないと思って。でも、美帆には内緒で修理に出そうと思ったんです」


「どうして内緒に?」


「サプライズにしたかったんです。綺麗になった指輪を、結婚式の前に渡そうと思って」


 宮下は神崎を見た。


「水曜日の夜、飲み会から帰ったら指輪が洗面所にあって、これはチャンスだと思って」


「どこに修理に出したんですか」


「駅前の宝石店です。翌朝、会社に行く前に」


 神崎は呆れたような顔をした。


「どうして言ってくれなかったの」


「言えなかった。美帆が指輪がないって騒ぎ始めて。言い出せなくなって……」


「馬鹿ね。心配したのよ」


「本当にごめん」


 宮下は頭を下げた。


 京馬は少し笑った。


「修理は、いつ終わるんですか」


「明後日には戻ってくると言われました」


「よかったですね」


 明穂が言うと、神崎は安堵したような顔をした。


「本当に……よかった」


「ありがとうございます」


 宮下が京馬に頭を下げた。


「でも、京馬さん、どうしてわかったんですか」


 明穂が尋ねた。


「いくつか、引っかかることがあった」


 京馬は説明を始めた。


「まず、宮下さんの様子がおかしいという話。目を合わせない、そわそわしている。これは、罪悪感ではなく、秘密を抱えている人間の反応だ」


「秘密?」


「ああ。盗んだ人間なら、もっと平静を装うか、逆に攻撃的になる。でも、宮下さんは違った。何かを隠しているけれど、悪いことをしているわけではない、そういう雰囲気」


「それだけで?」


「それに、『スマホをこっそり見ている』という話も気になった」


「どういうことですか」


 神崎が尋ねた。


「おそらく、修理の進捗を確認していたんでしょう。宝石店からのメールとか」


 宮下は頷いた。


「その通りです。毎日、確認していました」


「それで、神崎さんに見られないように、画面を隠していた」


「はい」


 京馬は続けた。


「あとは、宮下さんが一週間前に指輪をじっと見ていた、という話。これは、何らかの異変に気づいたタイミングでしょう」


「なるほど……」


 明穂は感心したように頷いた。


「でも、どうして宮下さんが持ち出したって確信したんですか」


「確信していたわけじゃない。ただ、可能性が高かっただけだ」


 京馬は淡々と言った。


「神崎さんが十時に寝て、宮下さんが十一時半に帰宅。その間に指輪を持ち出せるのは、宮下さんしかいない。でも、宮下さんの態度は、犯罪者のそれじゃなかった」


「だから、修理だと?」


「そう考えるのが自然でした」


 神崎は宮下を見た。


「次からは、ちゃんと言ってね」


「ごめん。もう隠し事はしない」


「約束ね」


「うん」


 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。


 京馬は席を立った。


「お幸せに」


「ありがとうございました」


 二人は頭を下げて、店を出ていった。


 明穂が興奮した様子で言った。


「京馬さん、すごいです!また解決しましたね」


「大した事件じゃない。ただの誤解だ」


「でも、二人とも安心してましたよ」


「それならよかった」


 京馬はカウンターに戻った。


「でも、サプライズって難しいですね」


「相手を思ってのことでも、裏目に出ることはある」


「深いですね」


「……別に」


 京馬はコーヒーを淹れ始めた。


「人は、善意で嘘をつくこともある。でも、嘘は嘘だ。いつかはバレる」


「だから、正直が一番ってことですか」


「そうだ」


 京馬は淹れたコーヒーを一口飲んだ。


「正直に生きるのが、一番楽だ」


「京馬さんも、正直に生きてるんですか」


「……まあな」


 京馬は少しそっぽを向いた。


 明穂は笑いながら、帰宅の準備を始めた。


 喫茶シリウスの、穏やかな一日。小さな誤解と、小さな真実が、ここで静かに解かれていく。いつもの日常だった。


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