第7話 刑事の相談
夜、閉店間際の喫茶シリウスに、一人の男が入ってきた。
五十代半ば、白髪交じりの短髪。くたびれたコートに、疲れた目。京馬は、その顔を見て少し驚いた。
「久しぶりだな、京馬」
「……川上さん」
川上誠。京馬が小説家だった頃、取材で何度か世話になった刑事だ。
「まだやってるか」
「閉店は八時です。あと三十分」
「じゃあ、コーヒーを一杯もらおうか」
川上はカウンターに座った。京馬はコーヒーを淹れ始めた。
「元気そうだな」
「川上さんこそ、老けましたね」
「お前、相変わらず口が悪いな」
川上は苦笑した。
店内には他に客はいない。
「お待たせしました」
京馬はコーヒーを川上の前に置いた。
「ああ、うまい」
「それで、何のご用ですか」
「単刀直入だな」
「川上さんが、わざわざこんな店に来るのは、用があるときだけだ」
川上はコーヒーを一口飲んで、ため息をついた。
「実は、相談がある」
「もう小説は書いていませんよ」
「知ってる。だが、お前の頭を借りたい」
京馬は黙って聞いている。
「今、ある事件を追ってる。窃盗事件だ」
「窃盗?」
「ああ。会社の金庫から、現金三百万円が盗まれた」
「それは、警察の仕事でしょう」
「そうなんだが……」
川上は頭を掻いた。
「うちみたいな小規模の署じゃ、手が回らなくてな。署内の雰囲気も悪くなってきてる」
川上はポケットから手帳を取り出した。
「聞いてくれるか」
「……いいんですか、民間人に話して」
京馬はカウンターに肘をついた。
「容疑者が二人いて、両方にアリバイがある。だが、どちらかが嘘をついている」
「よくある話だ」
「ああ。だが、どちらが嘘をついているか、わからない」
「事件があったのは、月曜日の夜。午後八時から十時の間に、会社の金庫から現金が盗まれた」
「金庫の鍵は?」
「暗証番号式だ。番号を知っているのは、社長と、経理担当の三人だけ」
「四人ですか」
「ああ。だが、社長は出張中でアリバイがある。容疑者の二人は、それぞれ別の場所にいたと主張している」
「監視カメラは?」
「故障していた。先週から修理中だ」
「都合がいいですね」
「ああ。犯人は、カメラが故障していることを知っていた。つまり、内部の人間だ」
「付近のカメラも確認したんですか?」
「もちろん。だが、この辺りは監視カメラが少ない。確認できたのは、同じ経理課員の佐々木という女性だけだ。彼女も容疑者だったが、駅前の映画館にいる所を監視カメラで確認している」
川上は手帳をめくった。
「一人目。西口、四十五歳、男性。経理部長。月曜の夜は、自宅で妻と一緒にいたと主張。妻も証言している」
「二人目。山田、二十八歳、男性。経理課員。月曜の夜は、友人とカラオケ店に行ったのち、恋人宅に宿泊していたと主張。恋人も証言している」
京馬は少し考えた。
「映画のチケット、何時の回ですか」
「なぜだ?」
「一応……」
「ちょっとまて……午後七時半開始、九時四十五分終了だ」
「映画館から会社までは?」
「電車で三十分くらいだ」
「つまり、映画が終わった後、会社に行く時間はない」
「そうだ」
「カラオケは?」
「午後七時から九時まで。カラオケ店の記録にも残っている。その後、九時三十分から恋人宅にいる。カラオケ店から会社まで二十分、会社から恋人宅まで二十五分はかかる」
「西口の自宅は?」
「会社から車で三十分。妻の証言では、午後七時には帰宅して、ずっと一緒にいたと」
京馬は腕を組んだ。
「三人とも、アリバイがある」
「そうなんだ。だが、金庫の番号を知っているのは、社長とこの三人だけ。外部の犯行は考えにくい」
「金庫に侵入の形跡は?」
「ない。番号を入力して開けられている」
京馬は少し間を置いた。
「西口の妻はどんな人ですか?」
「五十代。専業主婦。夫のことは信頼しているようだった」
「西口と妻の関係は?」
「悪くないと思う。特に不仲という話は聞いていない」
「佐々木の映画のチケット、自分で買ったんですか?」
「そう言っていた。現金で買ったと」
「映画は一人で?」
「ああ。一人で観たと言っていた」
「映画館で、誰かに会ったとか」
「いや、誰にも会っていないと」
「山田と一緒にカラオケにいた友人は?」
「大学時代の同級生だと。今は別の会社に勤めている」
京馬は目を閉じて、しばらく考え込んだ。
「もう一度、佐々木の話を聞かせてください」
「佐々木?」
「ええ。映画のチケット、何の映画だったか」
「えっと……」
川上は手帳をめくった。
「洋画だ。アクション映画。タイトルは……『ミッシングナイト・チェイス』」
「上映時間は?」
「二時間十五分だ」
「佐々木は、その映画の内容を話しましたか?」
「ああ。簡単にだが。カーチェイスが迫力があったとか、主人公が最後に恋人を救うとか」
「それだけ?」
「それだけだ」
京馬は少し間を置いた。
「その映画、俺も観ました。先週、公開初日に」
「それで?」
「カーチェイスのシーンは、冒頭の五分だけです」
川上の目が鋭くなった。
「どういうことだ」
「あの映画、CMではカーチェイスを前面に出していますが、実際はほとんどが室内での心理戦です。派手なアクションを期待して観ると、ガッカリすると思います」
「じゃあ、佐々木は……」
「ネットのあらすじや予告編だけを見て、観たつもりになっている可能性が高い」
川上は手帳を見直した。
「だが、チケットの半券を持っていた。それに、映画館の監視カメラには……」
「本当に監視カメラに映っていたんですか」
「ああ。入場ゲートを通る佐々木の姿が、午後七時二十五分に記録されている」
京馬は眉をひそめた。
「本人だと確認したんですか」
「確認した。佐々木本人に見える」
「『見える』ですか」
「……どういうことだ」
京馬は少し考えた。
「佐々木の服装を覚えていますか。映像の中の」
川上は手帳をめくった。
「ベージュのコート、ワインレッドのマフラー、髪は肩までのストレート……佐々木の特徴と一致している」
「顔は?」
「マスクをしていた。今の時期、珍しくないからな」
「つまり、顔は完全には見えていない」
「……そうだな」
京馬は続けた。
「体型や髪型が似ている人物が、佐々木の服装を真似て、映画館に入った可能性は?」
川上の目が鋭くなった。
「身代わりか」
「ええ。佐々木は映画館に行っていない。代わりに、誰かが佐々木のフリをして映画を観ていた」
「だが、誰が……」
「佐々木に親しい人物はいませんか。体型や髪型が似ている女性」
川上は考え込んだ。
「妹がいる」
「年齢は?」
「確か……二十六歳だったか。背格好も似ている」
「佐々木の服を借りて、マスクをして、映画館に行けば」
「監視カメラでは本人に見える……」
京馬は頷いた。
「妹さんに、アリバイを確認してみてください」
「わかった」
川上は立ち上がりかけて、止まった。
「だが、なぜ映画の内容を佐々木は知らなかったんだ。妹が観たなら、内容を教えてもらえばよかっただろう」
京馬は少し笑った。
「最後まで観ていなかったんでしょう」
「どういうことだ」
「映画がつまらなかったから、途中で寝てしまったとか。あるいは、スマホをいじっていて、ちゃんと観ていなかったとか」
「なるほど……」
「とにかく、映画の細かい内容まで把握していなかった。だから、冒頭の情報だけを佐々木に伝えてしまった」
川上はコーヒーを飲み干した。
「佐々木の妹を調べてみる」
「映画の内容を、もっと詳しく聞いてみてください。観ていれば答えられるはずです」
「ああ、そうする」
川上は立ち上がった。
「助かった、京馬」
「たまたま、同じ映画を観ていただけですよ」
「それでも、お前の頭は相変わらず切れる」
川上は財布を取り出した。
「いくらだ」
「三百円です」
「安いな」
「普通の喫茶店ですから」
川上は五百円玉を置いた。
「残りは礼だ。また来てもいいか」
「お客さんとしてなら、いつでも」
「相談は?」
「……話を聞くくらいなら」
川上は少し笑った。
「相変わらず、素直じゃないな」
「生まれつきなので」
「そうだったな」
川上はコートを羽織った。
「じゃあな。また報告する」
「結果が出たら、教えてください」
「ああ」
川上が出ていくと、店は静かになった。
シリウスが本棚の上から降りてきた。
「お前も、聞いてたか」
京馬が声をかけると、シリウスは目を細めて一度だけ鳴き、丸くなった。
京馬は閉店の準備を始めた。
三日後、川上から連絡があった。
佐々木と妹のまゆみが自白したという。
妹が佐々木の服装を真似て映画館へ。マスクをして、監視カメラに映った。
その間、佐々木は会社に行き、金庫から三百万円を盗んだ。
だが、妹は映画がつまらなくて途中から居眠りをしてしまい、内容をほとんど覚えていなかった。
映画の内容を詳しく聞かれ、答えられなかったことで、二人とも観念したという。
京馬は電話を切って、小さくため息をついた。
「どうしたんですか?」
明穂が声をかけた。
「いや、なんでもない」
「嘘ですね。何かあったんでしょう」
京馬は簡単に事件のことを話した。
「すごい!身代わりトリックだったんですね」
「ああ。だが、妹が映画を最後まで観ていれば、もっと完璧な犯行だった」
「でも、京馬さんが映画を観ていたから、嘘がバレたんですよね」
「……たまたまだ」
「たまたまじゃないですよ。京馬さんが映画好きで、公開初日に観に行くような人だから」
明穂は笑った。
「やっぱり、日々の積み重ねって大事なんですね」
京馬は何も言わなかったが、少しだけ口元が緩んでいた。
京馬はカップを拭きながら言った。
「妹は映画に興味がなくて居眠りした。佐々木は妹を信用しすぎて、内容を確認しなかった。小さな綻びが、嘘を暴く」
「深いですね」
「どこが……」
京馬は少しそっけなく言ったが、どこか満足そうだった。
シリウスが京馬の足元に擦り寄った。
「シリウスも、お疲れ様って言ってるんですよ」
「猫に労われても、嬉しくない」
「嘘ですね」
明穂は笑った。
喫茶シリウスの、穏やかな一日。小さな事件と、小さな真実が、ここで静かに解かれていく。
そんな日常が、また明日も続く。




