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第6話 写真の嘘



 土曜日の午後、喫茶シリウスには五人の客がいた。


 京馬はカウンターでコーヒーを淹れている。明穂は朝から店を手伝っていた。


「京馬さん、今日もいい天気ですね」


「ああ」


 そのとき、ドアベルが激しく鳴った。

 入ってきたのは、二十代後半くらいの女性だった。髪は乱れ、目は真っ赤に腫れている。明らかに泣いていた。


 その後ろから、同じくらいの年齢の男性が入ってきた。困ったような、怒ったような、複雑な表情をしている。


「ちょっと待って、聞いてよ」


「聞きたくない!」


 女性は男性を振り払って、カウンターに近づいた。


「すみません、水をください」


「どうぞ」


 京馬は静かに水を出した。


 男性も近づいてきた。


「頼むから話を聞いてくれ。誤解なんだ」


「誤解?写真まであるのに?」


 女性はスマートフォンを取り出した。


「これを見てまだ誤解だって言えるの!?」


 画面には、男性が若い女性と並んで歩いている写真が映っていた。二人は親しげに笑っている。


「だから、浮気なんて……」


「友達が送ってきたの。昨日の夜、駅前で撮ったって。あなた、残業だって言ってたわよね?」


 男性は言葉に詰まった。


「それは……」


「やっぱり浮気してたのね」


 女性の声が震えた。

 店内の他の客たちが、二人を見ている。


 明穂が京馬に小声で言った。


「京馬さん、どうしましょう」


「少し待て」


 京馬は二人のやり取りを静かに聞いていた。


「違うんだ。この人は、ただの同僚で……」


「同僚と夜に二人で歩いてるの?こんなに楽しそうに?」


「だから、それは……」


「もういい。別れましょう」


 女性はそう言って、立ち上がろうとした。


「待ってくれ」


 男性が女性の腕を掴んだ。


「お客様」


 京馬が静かに声をかけた。


「少し、落ち着いてください。店内で騒ぐのは、他のお客様のご迷惑になります」


 男性は手を離した。


「すみません……」


「よろしければ、奥の席をお使いください。少し話し合われてはいかがですか」


 京馬は奥の、他の客から離れた席を指した。


 二人は渋々、奥の席に移動した。

 明穂がコーヒーを二つ運んだ。


「どうぞ」


「……ありがとう」

 女性は力なく答えた。


 明穂がカウンターに戻ると、京馬が小声で言った。


「明穂、あの写真を見たか」


「はい。男の人が、別の女の人と歩いてる写真ですよね」


「何か気づいたことは?」


「気づいたこと……」


 明穂は首を傾げた。


「えっと、二人とも笑ってて、仲良さそうでした」


「他には?」


「他……」


 明穂は記憶を辿った。


「あ、男の人、コートを着てました。グレーのコート」


「今日、あの男は何を着ている?」


 明穂は奥の席を見た。男性は、紺色のジャケットを着ている。


「紺色のジャケットです」


「昨日の夜は、何を着ていたと思う?」


「えっと……写真ではグレーのコートでしたけど」


「今日は土曜日だ。昨日は金曜日。金曜の夜に残業と言っていた」


「はい」


「残業なら、スーツを着ているはずだ。コートの下は」


 明穂ははっとした。


「あ、写真の人、コートの下……カジュアルな服でした。セーターみたいな」


「残業帰りなのに、スーツじゃない」


「確かに……」


「それに、もう一つ」


 京馬は言った。


「あの写真、背景に何が映っていた?」


「背景……駅前って言ってたから、駅の看板とか?」


「看板の他には?」


「えっと……イルミネーション?がありました。クリスマスっぽい感じ」


「今は何月だ?」


「十一月です」


 明穂の目が大きくなった。


「あ……クリスマスのイルミネーションは、まだ飾ってないですよね」


「ああ。駅前のイルミネーションは、毎年十二月からだ」


「じゃあ、あの写真は……」


「昨日撮られたものじゃない」


 京馬は静かに言った。


「去年か、もっと前の写真だ」


 明穂は驚いた顔をした。


「でも、なんでそんな古い写真を……」


「それは、わからない。だが、あの写真が昨日撮られたものでないことは確かだ」


 京馬は奥の席に向かった。


「失礼します」


 二人が顔を上げた。


「少し、お話を聞いてもよろしいですか」


「何ですか」


 女性が警戒するような目で言った。


「その写真、もう一度見せていただけますか」


 女性は怪訝な顔をしたが、スマートフォンを差し出した。

 京馬は写真を確認した。


「この写真を送ってきたのは、どなたですか」


「友達です。昨日の夜、駅前で偶然見かけたって」


「その友達は、信頼できる方ですか」


「どういう意味ですか」


「この写真、昨日撮られたものではありません」


 女性の目が大きくなった。


「え?」


「背景を見てください。ぼやけていて見えづらいですが、イルミネーションが映っています」


「それが何か……」


「今は十一月です。駅前のイルミネーションは、十二月にならないと設置されません」


 女性は写真を見直した。


「あ……」


「この写真は、少なくとも去年の冬以前に撮られたものです」


 女性は男性を見た。


「これ、いつの写真なの」


 男性は写真を覗き込んだ。


「これは……一昨年の忘年会で会社の同僚と飲んだ帰りに、駅まで一緒に歩いたときの写真だと思う」


「本当に?」


「本当だよ。この人は経理部の山田さん。既婚者で子供もいる」


 女性は黙り込んだ。


「でも、なんでこんな古い写真を……」


「その友達、最近何かありましたか」


 京馬が尋ねた。


 「何かって……」


 女性は考え込んだ。


「あ……先月、彼氏と別れたって言ってた」


「あなたと彼の関係を、羨ましく思っていませんでしたか」


 女性の顔色が変わった。


「まさか……」


「断定はできません。ただ、この写真が昨日撮られたものでないことは確かです」


 女性はしばらく黙っていた。

 やがて、男性に向き合った。


「……ごめん」


「いや、俺も説明が下手だった」


「でも、なんで昨日、残業だって嘘ついたの」


 男性は少し照れくさそうな顔をした。


「……来月、誕生日だろ。プレゼントを買いに行ってたんだよ」


「え?」


「サプライズにしたかったから、言えなくて」


 女性の目に、また涙が滲んだ。今度はさっきとは違う涙だ。


「馬鹿……」


「すまん」


「先に言ってよ……」


 二人は顔を見合わせて、小さく笑った。

 京馬はカウンターに戻った。

 明穂が興奮した様子で言った。


「京馬さん、すごいです!あの写真で気づくなんて」


「写真には、撮影者が意図しない情報が映り込む。日付も、場所も、季節も。それを見落とさなければ、嘘は見抜ける」


「なるほど……」


「それに、男のコートの下がカジュアルだったことも引っかかった。残業帰りなら、スーツを着ているはずだ」


「二つの違和感があったんですね」


「ああ。違和感は、一つだけなら偶然かもしれない。でも、二つ重なれば、何かがおかしい」


 明穂は感心したように頷いた。

 三十分ほど経って、二人は席を立った。


「ごちそうさまでした」


 女性が頭を下げた。


「ありがとうございました。おかげで、大きな誤解が解けました」


「いえ。お役に立てたなら」


「友達には、ちゃんと話をします」


 男性も頭を下げた。


「本当にありがとうございました」


 二人が出ていくと、明穂が言った。


「あの友達、わざと古い写真を送ったんですかね」


「おそらくな」


「ひどいですね」


「人は、自分が不幸なとき、他人の幸せが眩しく見える。それで、つい余計なことをしてしまう」


 京馬は淡々と言った。


「でも、それは本人の問題だ。あの二人が気づいて、乗り越えればいい」


 明穂は少し考え込んだ。


「京馬さんは、人の嘘を見抜くのが上手ですね」


「嘘を見抜いているんじゃない。事実を見ているだけだ」


「事実?」


「人は嘘をつける。でも、写真は嘘をつけない。背景も、服装も、光の加減も。全部」


 明穂は頷いた。


「だから、人の言葉より物を見ろってことですか」


「そうだ。言葉は簡単に嘘をつける。でも物は正直だ」


 シリウスが本棚の上から降りてきた。


「シリウスも正直だよね」


 明穂がシリウスを撫でると気持ちよさそうに目を細めた。


「シリウスは、嘘をつく必要がない」


 京馬は小さく笑った。

 夕方六時、明穂が帰る時間になった。


「じゃあ、私帰りますね」


「気をつけて」


「今日は、勉強になりました。写真の見方」


「推理の基本だ。物をよく見ること」


「はい。私も、もっとよく見るようにします」


 明穂が出ていくと、店は再び静かになった。


 京馬はカウンターでコーヒーを淹れながら、今日のことを思い返した。

 写真の嘘。でも、嘘をついたのは写真じゃない。写真を使った人間だ。

 物は正直だ。嘘をつくのは、いつも人間。だから、物をよく見れば、人の嘘は見抜ける。

 京馬はそう思いながら、閉店の準備を始めた。


 小さな嘘と、小さな真実が交差する、いつもの日常だった。


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