第5話 犯人探し
月曜日の夕方、明穂はいつもより遅く店に来た。
ドアベルが鳴って、京馬が顔を上げると、明穂が俯いたまま入ってきた。
「……こんにちは」
明穂の声に元気がない。いつもなら「京馬さん、今日は何かありました?」と聞いてくるのに、今日は黙ってカウンターの隅に座った。
京馬は何も言わず、ココアを作り始めた。
「はい」
明穂の前にココアを置く。
「……ありがとうございます」
明穂はココアを両手で包んだが、飲まなかった。
店内には他に客がいない。静かな時間が流れる。
五分ほど経って、明穂が口を開いた。
「京馬さん」
「なんだ」
「学校で、ちょっと嫌なことがあって」
「そうか」
京馬は手を止めて、明穂に向き合った。
「話してみるか」
明穂は少し迷ってから、話し始めた。
「今日、クラスで事件があって……」
「事件?」
「友達の財布から、お金がなくなったんです」
「いくら?」
「五千円です」
明穂はココアを一口飲んだ。
「お昼休みに、みんな教室を出て、食堂に行ったり、図書室に行ったりしてたんです。愛実は図書室に行ってて、財布は机の中に入れてました」
「鍵のかかるロッカーはないのか」
「あるんですけど、愛実はいつも机に入れてて……」
「それで?」
「お昼休みが終わって、愛実が財布を見たら、五千円がなくなってたんです」
「先生には言ったのか」
「はい。でも、誰がやったかわからなくて」
明穂は俯いた。
「それで……疑われてるんです。私が」
「お前が?」
「はい」
明穂の声が震えた。
「お昼休み、私は教室に残ってたんです。小説を書いてて。だから、教室にいたのは私だけで……」
「他には誰もいなかったのか」
「途中で何人か出入りしてました。でも、ずっといたのは私だけで」
明穂は目を伏せた。
「愛実は私を疑ってないって言ってくれたんですけど、他のクラスメイトが……」
「なるほど」
京馬は顎に手を当てた。
「もう少し詳しく教えてくれ。昼休みに教室を出入りしたのは誰だ」
「えっと……」
明穂は記憶を辿った。
「まず、お昼休みが始まってすぐ、ほとんどの人が出ていきました。私は残って、窓際の自分の席で小説を書いていました」
「愛実の席は?」
「私の席から三列離れた、廊下側です」
「それで?」
「十分くらい経った頃、山本くんが戻ってきました。忘れ物を取りに来たって。それから、一分くらいして出ていきました」
「山本くんは、愛実の席の近くに行ったか?」
「いえ、自分の席だけです。山本くんの席は、教室の前の方なので、愛実の席からは遠いです」
「他には?」
「その後、佐藤さんが来ました。お弁当を忘れたって言って、自分の机からお弁当を取って出ていきました」
「佐藤さんの席は?」
「愛実の席の隣です」
京馬の目が少し鋭くなった。
「佐藤さんは、愛実の席に近づいたか?」
「いえ……自分の机を開けて、お弁当を取っただけです」
「それだけか?」
「はい。すぐに出ていきました」
「他には?」
「その後は誰も来ませんでした。お昼休みが終わる五分前に、みんなが戻ってきて」
「なるほど」
京馬は少し考えた。
「お前は、ずっと小説を書いていたんだな」
「はい」
「小説を書いている間、ずっと教室を見ていたか?」
「いえ……集中してたので、あまり周りは見てませんでした」
「山本くんと佐藤さんが来たのは、どうやって気づいた?」
「ドアの音で気づきました。顔を上げて、誰が来たか確認して、また執筆に戻りました」
「つまり、二人が教室で何をしていたか、詳しくは見ていないんだな」
「はい……」
明穂は申し訳なさそうに言った。
「山本くんが来たとき、お前はどのくらい集中していた?」
「結構集中してました。でも、ドアの音で気づいて、顔を上げました」
「山本くんは、何を取りに来たと言っていた?」
「忘れ物って言ってました。具体的には聞いてないです」
「山本くんが出ていくとき、何か持っていたか?」
「えっと……ノートを持ってたと思います」
「佐藤さんは?」
「お弁当の袋を持ってました」
京馬は頷いた。
「愛実が、いつ財布にお金を入れたか分かるか?」
「今朝、学校に来る前にお母さんからもらったそうです。お小遣いで」
「つまり、今日初めて財布に入れた」
「はい」
「そのことを、誰かに話したか?」
「朝、クラスメイトに話してたみたいです。『今日お小遣いもらった』って」
「誰に?」
「えっと……佐藤さんと、峯岸さんと、私です」
京馬は少し間を置いた。
「佐藤さんか」
「え?」
「佐藤さんは、愛実がお金を持っていることを知っていた。そして、お昼休みに教室に戻ってきた。席は愛実の隣だ」
「でも、佐藤さんは自分の机を開けただけで……」
「お前は、小説を書くのに集中していた。ドアの音で気づいて、顔を上げて、また執筆に戻った」
「はい」
「その間、佐藤さんがずっと自分の席にいたか、確認していないんだな」
明穂ははっとした。
「確かに……ずっとは見てませんでした」
「佐藤さんが教室にいた時間は?」
「たぶん、二分くらいです」
「お弁当を取るだけなら、三十秒で済む」
明穂の顔色が変わった。
「じゃあ……佐藤さんが?」
「わからない。可能性の話だ」
京馬は言った。
「でも、お前が疑われる理由はない」
「え?」
「この店で働いてバイト代をもらっている。五千円を盗む必要がない」
京馬は続けた。
「それに、お前が犯人なら、わざわざ教室に残らない。疑われるのがわかっているからだ」
明穂は少しほっとしたような顔をした。
「でも、それをどうやって証明すれば……」
「証明する必要はない」
京馬は言った。
「お前がやっていないなら、真実はいずれわかる」
「でも……」
「一つ、確認したいことがある」
「何ですか?」
「佐藤さんと愛実の関係は?」
「普通の友達です。でも……」
明穂は少し考えた。
「最近、佐藤さん、少し元気がなかったかも」
「なぜだ?」
「わかりません。でも、お昼ご飯を食べてないことが何度かあって」
「お弁当を持ってこないのか?」
「いえ、持ってきてるんですけど、食べないで持って帰ることがあって」
「なるほど」
京馬は小さく頷いた。
「家庭の事情かもしれないな」
「え?」
「お金に困っている可能性がある」
明穂は驚いたような顔をした。
「佐藤さんが……」
「わからない。推測だ」
京馬は言った。
「でも、もし佐藤さんが犯人だとしても、責めるべきじゃない」
「どうしてですか?」
「人が盗みをするのは、必ず理由がある。その理由を理解しないと、問題は解決しない」
明穂は黙って聞いている。
「お前にできることは、一つだ」
「何ですか?」
「佐藤さんと話してみろ」
「話す?」
「責めるんじゃない。ただ、話を聞いてやれ。困っていることがないか、聞いてみろ」
明穂は少し考えた。
「わかりました」
「それと、先生にも相談しろ。お前が疑われていること、そして佐藤さんが最近、元気がないこと。両方伝えろ」
「はい」
明穂は頷いた。少し、表情が明るくなっている。
「京馬さん」
「何だ」
「ありがとうございます」
「礼を言われることじゃない」
京馬はそっけなく言ったが、少しだけ口元が緩んでいる。
明穂はココアを飲み干した。
「明日、佐藤さんと話してみます」
「ああ」
「うまくいくかな……」
「大丈夫だ」
明穂は嬉しそうに笑った。
「京馬さんに言われると、自信が出ます」
「調子のいいやつだ」
京馬は呆れたように言ったが、その目は優しかった。
シリウスが明穂の膝に飛び乗った。
「シリウスも応援してくれてるのかな」
明穂がシリウスを撫でると、シリウスは気持ちよさそうに目を細めた。
夕方六時、明穂が帰る時間になった。
「じゃあ、私帰りますね」
「気をつけて」
「明日、結果を報告しますね」
「ああ」
明穂が出ていくと、店は再び静かになった。
京馬はカウンターでコーヒーを淹れながら、今日のことを思い返した。
学校での事件。疑われた明穂。でも、話を聞いて、状況を整理すれば、真実は見えてくる。
大事なのは、犯人を見つけることじゃない。
問題の根本を理解することだ。
火曜日の夕方、明穂はいつもの時間に店に来た。
ドアベルが鳴って、京馬が顔を上げると、明穂が笑顔で入ってきた。
「京馬さん、こんにちは!」
「ああ」
昨日とは打って変わって、明穂の顔は明るい。
「何かあったか」
「はい。解決しました」
明穂はカウンターに座って、話し始めた。
「今日、佐藤さんと話したんです」
「最初は、なかなか話してくれなかったんですけど……お昼休みに、二人で屋上に行って」
「それで?」
「佐藤さん、泣いちゃって」
明穂は少し悲しそうな顔をした。
「お父さんが会社を辞めて、家がお金に困ってるって。お小遣いももらえなくなって、お昼ご飯代も節約してて」
「そうか」
「それで、愛実が五千円もらったって聞いて、つい……って」
明穂は目を伏せた。
「佐藤さん、すごく後悔してました」
「それで、どうなった」
「自分で愛実に謝りに行きました。お金も返して」
「愛実は?」
「怒らなかったです。『困ってるなら言ってよ』って。それで、二人で先生のところに行って、全部話しました」
「先生は?」
「佐藤さんを叱らなかったです。家庭のことを聞いて、市役所にいる友達を紹介してくれるって」
明穂は少し安心したような顔をした。
「佐藤さん、『明穂ちゃんに話を聞いてもらえて良かった』って言ってました」
「そうか」
「それと、私に謝ってくれました。『疑われてたのに、私のことを心配してくれてありがとう』って」
京馬は小さく頷いた。
「よくやったな」
「京馬さんのおかげです」
「俺は何もしていない。お前が自分で動いた結果だ」
明穂は嬉しそうに笑った。
「でも、京馬さんが『話を聞いてやれ』って言ってくれたから」
「それだけだ」
京馬はそっけなく言ったが、少しだけ誇らしそうな顔をしている。
明穂はカウンターに肘をついた。
「京馬さん」
「何だ」
「私、探偵になれますかね」
「探偵?」
「はい。京馬さんみたいに、人の話を聞いて、真実を見つける人」
京馬は少し考えた。
「探偵は、人を助ける仕事じゃない」
「え?」
「依頼に応える仕事だ」
明穂は目を丸くした。
「真実を見つけても、誰も救われないなら意味がない。大事なのは、その先だ」
「その先……」
「今回、お前がやったのは、真実を見つけることじゃなかった。佐藤さんの話を聞いて、助けを求められる場所に繋げた。それが、一番大事なことだ」
明穂はしばらく黙って、それから頷いた。
「わかりました。私、人を助ける人になります」
「そうか」
「京馬さんみたいに」
「俺はただのコーヒー屋だ」
「嘘です。京馬さんは、みんなを助けてます」
京馬は何も言わなかった。でも、少しだけ照れくさそうな顔をしている。
「シリウスも、京馬さんの助手ですよね」
明穂がシリウスを撫でると、シリウスは気持ちよさそうに目を細めて、一度だけ鳴いた。
夕方六時、明穂が帰る時間になった。
「じゃあ、私帰りますね」
「気をつけて」
「明日も来ます」
「ああ」
明穂が出ていくと、店は再び静かになった。
京馬はカウンターでコーヒーを淹れながら、今回のことを思い返した。
学校での事件は解決した。でも、大事なのは、事件が解決したことじゃない。
明穂が、誰かを助けることを学んだこと。それが、一番大事なことだ。
京馬はそう思いながら、閉店の準備を始めた。
喫茶シリウスの、穏やかな一日。小さな事件と、小さな成長が交差する、いつもの日常だった。




