表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/12

第4話 手紙



 金曜日の午後、喫茶シリウスは静かだった。

 京馬はカウンターで豆を挽いている。明穂は学校が早く終わり、午後から店を手伝っていた。客は常連の伊藤さんだけ。奥の席で本を読んでいる。


 ドアベルが鳴った。

 入ってきたのは、五十代くらいの女性だった。白髪混じりの髪を短く切り揃え、紺色のカーディガンを着ている。顔色が悪く、目が赤い。泣いていたようだ。


「いらっしゃいませ」


 京馬が声をかけると、女性は力なく微笑んだ。


「ブレンドコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 女性はカウンター席に座った。バッグを膝の上に置いて、じっと俯いている。


 京馬はコーヒーを淹れながら、女性の様子を横目で見ていた。


「お待たせしました」


 京馬はコーヒーを女性の前に置いた。


「ありがとうございます」


 女性はカップを両手で包むように持ったが、飲まなかった。ただ、湯気を見つめている。


 しばらくして、女性が口を開いた。


「あの……少し、話を聞いてもらえますか」


「ええ」

 京馬は手を止めて、女性に向き合った。


「実は、姉が亡くなりまして」


「それは……お悔やみ申し上げます」


「ありがとうございます。一週間前のことです」


 女性はコーヒーを一口飲んだ。


「姉は一人暮らしで、私が遺品整理をしているんです。それで、今日、姉の部屋から手紙が出てきて」


「手紙?」


「はい。私宛の手紙です」


 女性はバッグから封筒を取り出した。


「姉の字で、私の名前が書いてあります。でも……」


「でも?」


「開けられないんです」

 女性の声が震えた。


「姉とは、十年前に喧嘩して、それきり会っていませんでした。電話も、手紙も、一切。それなのに、姉は私に手紙を残していた」


 女性は封筒を見つめた。


「この手紙に、何が書いてあるか、怖いんです。もし、恨み言だったら……もし、私を責める言葉だったら……」


「そうですか」

 京馬は静かに頷いた。


「何がきっかけで、喧嘩を?」


「些細なことです。母の介護のことで。私は仕事を辞めて母の面倒を見ていた。でも姉は、仕事が忙しいからって、ほとんど来なかった。それで口論になって……」


 女性は目を伏せた。


「『もう二度と会いたくない』って、私が言ったんです。それきりです」


「お母様は?」


「三年前に亡くなりました。そのときも、姉は葬式に来ませんでした」


「来なかった?」


「はい。連絡はしたんですが、来ませんでした」


 京馬は少し考えた。


「連絡は、どなたがされましたか?」


「私の夫です。私は、姉と話したくなかったので」


「そうですか」


 京馬はカウンターに肘をついた。


「その手紙、いつ書かれたものか、わかりますか?」


「日付は書いてありません」


「封筒の状態は?」


 女性は封筒を見た。


「少し黄ばんでいて、いくつか折り目もついています」


「十年前の喧嘩の後、すぐに書かれたものかもしれませんね」


「そうかもしれません」


 女性は封筒を握りしめた。


「でも、だとしたら余計に怖い。喧嘩の直後なら、怒りに任せて書いた手紙かもしれない」


 京馬は少し間を置いた。


「一つ、お聞きしてもいいですか」


「はい」


「その手紙、封がしてありましたか?」


 女性は封筒を確認した。


「いえ……封はされていません。口が開いたままです」


「つまり、お姉様はいつでも中を見られる状態にしていた」


「そう……ですね」


「怒り任せに書いて、人にぶつけるためだけの手紙なら、書いたあとに投函するか、あるいは破り捨てるのが普通です」


 京馬は言葉を続けた。


「でも、お姉様は封をせず、投函もせず、十年間手元に置いていた。何度も読み返せるように」


 女性の目が少し大きくなった。

 「それは……」


「恨み言を何度も読み返す人がいると思いますか?」


 女性は黙った。


「人が何度も読み返すのは、大切な言葉です」


 京馬は穏やかに言った。


「お姉様は、その手紙を十年間、ずっと大切にしていた。それだけは、確かです」


 女性の目から、涙が溢れた。


「そう……ですね」


 女性は震える手で、封筒の口を開けた。中から、便箋を取り出す。


 女性は手紙を読んだ。


 しばらく、沈黙が続いた。


 やがて、女性は声を上げて泣き始めた。

 明穂が心配そうに近づこうとしたが、京馬が目で止めた。


 五分ほど経って、女性は涙を拭いた。


「ありがとうございます」


「どうでしたか」


 京馬が尋ねると、女性は微笑んだ。


「『ごめんね』って。それだけでした」


 京馬は小さく頷いた。


「お姉様も、仲直りしたかったんですね」


「はい……でも、私と同じで、勇気がなかったんだと思います」


 女性は手紙を大切そうに封筒に戻した。


「もっと早く、私から連絡すればよかった」


「伝えたいと思うなら、今からでもいいんじゃないですか」


「え?」


「お姉様に、返事を届けてみては」


 女性は少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。


「そうですね。そうします」


 女性はコーヒーを飲み干して、席を立った。


「ごちそうさまでした。本当に、ありがとうございました」


「またお待ちしております」


 女性が出ていくと、店内は再び静かになった。


 明穂がカウンターに近づいてきた。


「京馬さん、どうして封をしていないことに気づいたんですか?」


「気づいたんじゃない。確認しただけだ」


「でも、それで何がわかるんですか?」


「手紙を出さなかった理由は、二つ考えられる」


 京馬は言った。


「一つは、出す勇気がなかった。もう一つは、出す気がなかった」


「出す気がなかった?」


「怒りを発散させるために書いた手紙なら、書いた時点で目的は達成される。投函する必要はない。でも、そういう手紙は、普通捨てる」


「ああ……」


「捨てずに取っておいた。しかも封をせずに。それは、何度も読み返していたということだ」


 明穂は感心したような顔をした。


「京馬さん、やっぱりすごいですね」


「すごくない。当たり前のことだ」


 京馬はコーヒーカップを洗いながら言った。


「人の気持ちは、行動に表れる。言葉よりも行動を見ればいい」


 シリウスが本棚の上からこちらを見ている。


「お前もそう思うか?」


 京馬が尋ねると、シリウスは目を細めて、一度だけ鳴いた。


 夕方六時、明穂が帰る時間になった。


「じゃあ、私帰りますね」


「気をつけて」


「今日の女性、手紙読めてよかったですね」


「ああ」

 京馬は小さく頷いた。


 明穂が出ていくと、店は再び静かになった。

 京馬はカウンターでコーヒーを淹れながら、今日のことを思い返した。


 十年間、届かなかった手紙。でも、届かなかったのは手紙じゃない。

 救われるきっかけを、誰も受け取れずにいたんだ。

 あの女性は、今日ようやくそれを受け取った。


 喫茶シリウスの、穏やかな一日。言葉にできなかった想いが、ようやく届いた、そんな一日だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ