第4話 手紙
金曜日の午後、喫茶シリウスは静かだった。
京馬はカウンターで豆を挽いている。明穂は学校が早く終わり、午後から店を手伝っていた。客は常連の伊藤さんだけ。奥の席で本を読んでいる。
ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、五十代くらいの女性だった。白髪混じりの髪を短く切り揃え、紺色のカーディガンを着ている。顔色が悪く、目が赤い。泣いていたようだ。
「いらっしゃいませ」
京馬が声をかけると、女性は力なく微笑んだ。
「ブレンドコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
女性はカウンター席に座った。バッグを膝の上に置いて、じっと俯いている。
京馬はコーヒーを淹れながら、女性の様子を横目で見ていた。
「お待たせしました」
京馬はコーヒーを女性の前に置いた。
「ありがとうございます」
女性はカップを両手で包むように持ったが、飲まなかった。ただ、湯気を見つめている。
しばらくして、女性が口を開いた。
「あの……少し、話を聞いてもらえますか」
「ええ」
京馬は手を止めて、女性に向き合った。
「実は、姉が亡くなりまして」
「それは……お悔やみ申し上げます」
「ありがとうございます。一週間前のことです」
女性はコーヒーを一口飲んだ。
「姉は一人暮らしで、私が遺品整理をしているんです。それで、今日、姉の部屋から手紙が出てきて」
「手紙?」
「はい。私宛の手紙です」
女性はバッグから封筒を取り出した。
「姉の字で、私の名前が書いてあります。でも……」
「でも?」
「開けられないんです」
女性の声が震えた。
「姉とは、十年前に喧嘩して、それきり会っていませんでした。電話も、手紙も、一切。それなのに、姉は私に手紙を残していた」
女性は封筒を見つめた。
「この手紙に、何が書いてあるか、怖いんです。もし、恨み言だったら……もし、私を責める言葉だったら……」
「そうですか」
京馬は静かに頷いた。
「何がきっかけで、喧嘩を?」
「些細なことです。母の介護のことで。私は仕事を辞めて母の面倒を見ていた。でも姉は、仕事が忙しいからって、ほとんど来なかった。それで口論になって……」
女性は目を伏せた。
「『もう二度と会いたくない』って、私が言ったんです。それきりです」
「お母様は?」
「三年前に亡くなりました。そのときも、姉は葬式に来ませんでした」
「来なかった?」
「はい。連絡はしたんですが、来ませんでした」
京馬は少し考えた。
「連絡は、どなたがされましたか?」
「私の夫です。私は、姉と話したくなかったので」
「そうですか」
京馬はカウンターに肘をついた。
「その手紙、いつ書かれたものか、わかりますか?」
「日付は書いてありません」
「封筒の状態は?」
女性は封筒を見た。
「少し黄ばんでいて、いくつか折り目もついています」
「十年前の喧嘩の後、すぐに書かれたものかもしれませんね」
「そうかもしれません」
女性は封筒を握りしめた。
「でも、だとしたら余計に怖い。喧嘩の直後なら、怒りに任せて書いた手紙かもしれない」
京馬は少し間を置いた。
「一つ、お聞きしてもいいですか」
「はい」
「その手紙、封がしてありましたか?」
女性は封筒を確認した。
「いえ……封はされていません。口が開いたままです」
「つまり、お姉様はいつでも中を見られる状態にしていた」
「そう……ですね」
「怒り任せに書いて、人にぶつけるためだけの手紙なら、書いたあとに投函するか、あるいは破り捨てるのが普通です」
京馬は言葉を続けた。
「でも、お姉様は封をせず、投函もせず、十年間手元に置いていた。何度も読み返せるように」
女性の目が少し大きくなった。
「それは……」
「恨み言を何度も読み返す人がいると思いますか?」
女性は黙った。
「人が何度も読み返すのは、大切な言葉です」
京馬は穏やかに言った。
「お姉様は、その手紙を十年間、ずっと大切にしていた。それだけは、確かです」
女性の目から、涙が溢れた。
「そう……ですね」
女性は震える手で、封筒の口を開けた。中から、便箋を取り出す。
女性は手紙を読んだ。
しばらく、沈黙が続いた。
やがて、女性は声を上げて泣き始めた。
明穂が心配そうに近づこうとしたが、京馬が目で止めた。
五分ほど経って、女性は涙を拭いた。
「ありがとうございます」
「どうでしたか」
京馬が尋ねると、女性は微笑んだ。
「『ごめんね』って。それだけでした」
京馬は小さく頷いた。
「お姉様も、仲直りしたかったんですね」
「はい……でも、私と同じで、勇気がなかったんだと思います」
女性は手紙を大切そうに封筒に戻した。
「もっと早く、私から連絡すればよかった」
「伝えたいと思うなら、今からでもいいんじゃないですか」
「え?」
「お姉様に、返事を届けてみては」
女性は少し驚いたような顔をした。それから、ゆっくりと頷いた。
「そうですね。そうします」
女性はコーヒーを飲み干して、席を立った。
「ごちそうさまでした。本当に、ありがとうございました」
「またお待ちしております」
女性が出ていくと、店内は再び静かになった。
明穂がカウンターに近づいてきた。
「京馬さん、どうして封をしていないことに気づいたんですか?」
「気づいたんじゃない。確認しただけだ」
「でも、それで何がわかるんですか?」
「手紙を出さなかった理由は、二つ考えられる」
京馬は言った。
「一つは、出す勇気がなかった。もう一つは、出す気がなかった」
「出す気がなかった?」
「怒りを発散させるために書いた手紙なら、書いた時点で目的は達成される。投函する必要はない。でも、そういう手紙は、普通捨てる」
「ああ……」
「捨てずに取っておいた。しかも封をせずに。それは、何度も読み返していたということだ」
明穂は感心したような顔をした。
「京馬さん、やっぱりすごいですね」
「すごくない。当たり前のことだ」
京馬はコーヒーカップを洗いながら言った。
「人の気持ちは、行動に表れる。言葉よりも行動を見ればいい」
シリウスが本棚の上からこちらを見ている。
「お前もそう思うか?」
京馬が尋ねると、シリウスは目を細めて、一度だけ鳴いた。
夕方六時、明穂が帰る時間になった。
「じゃあ、私帰りますね」
「気をつけて」
「今日の女性、手紙読めてよかったですね」
「ああ」
京馬は小さく頷いた。
明穂が出ていくと、店は再び静かになった。
京馬はカウンターでコーヒーを淹れながら、今日のことを思い返した。
十年間、届かなかった手紙。でも、届かなかったのは手紙じゃない。
救われるきっかけを、誰も受け取れずにいたんだ。
あの女性は、今日ようやくそれを受け取った。
喫茶シリウスの、穏やかな一日。言葉にできなかった想いが、ようやく届いた、そんな一日だった。




