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第3話 雨の日の忘れ物



 木曜日、朝から雨が降っていた。

 雨粒が絶え間なく打ちつけている。京馬は開店準備をしながら、空を見上げた。灰色の雲が低く垂れ込めている。


「今日は客が少ないかもしれないな」


 雨の日は、いつもより客足が遠のく。それでも、こんな日だからこそ訪れる人もいる。


 十時を過ぎた頃、ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、高校生くらいの男子だった。


「いらっしゃいませ」


 京馬が声をかけると、男子は少し戸惑ったような顔をした。


「あの……モーニングセット、まだやってますか」


「ええ、十一時までです」


「じゃあ、それでお願いします」


「かしこまりました」


 男子は窓際の席に座った。

 京馬は奥からタオルを持ってきた。


「どうぞ」


「あ、ありがとうございます」


 男子は驚いたような顔でタオルを受け取り、濡れていた部分を拭いた。


 京馬は厨房に戻り、モーニングセットの準備を始めた。

 まず、厚切りの食パンをトースターに入れる。きつね色に焼けるまで、ちょうどいい加減で。

 次にフライパンでソーセージを焼く。じゅうじゅうと音を立てて、表面にこんがりとした焼き色がつく。芳ばしい香りが厨房に広がった。

 その間に、仕込んでいた、ゆで卵の殻をむく。半熟ではなく、すこし固め。

 小さなサラダボウルには、新鮮なレタスとトマト、きゅうりを盛る。


 トースターから、こんがりと焼けた香ばしい匂いが立ち上る。トーストを取り出すと表面はカリッと、中はふんわりとしている。バターを一切れ、まだ熱いうちにのせる。じわりと溶けてパンに染み込んでいく。


 すべてを白い皿に盛りつけた。トースト、ゆで卵、きつね色に焼けたソーセージ、サラダ。それにコーヒーを添えて。


 五分ほどして、京馬はモーニングセットを運んだ。


「お待たせしました」


「ありがとうございます」


 男子の目の前に置かれたのは、湯気の立つトーストと、艶やかなゆで卵、こんがりと焼けたソーセージ、みずみずしいサラダ。コーヒーの香りが、トーストとソーセージの香ばしさと混ざり合う。


 男子は両手でコーヒーカップを包むように持って、一口飲んだ。


「……はぁ」


 ほっとしたような声だった。

 それからトーストを一口かじる。バターの染み込んだパンが、口の中でこんがりとした香ばしさをほどよく広げていく。表面のカリッとした食感と、中のふんわりとした柔らかさ。

 目を細めて、もう一口、また一口と食べ進めた。

 ソーセージをフォークで刺して口に運ぶ。パリッとした皮を噛むと、中から肉汁が溢れる。ゆで卵にかぶりつくと、鮮やかな黄色が現れる。塩を少しだけ振って、口に運ぶ。サラダも、シャキシャキとした新鮮な音を立てる。


 濡れた体が、内側から温まっていくようだった。


 男子は窓の外を眺めながら、沈んだ表情で朝食を食べている。


 それから十分ほど経った頃、スマートフォンが鳴った。男子は画面を見て、顔色を変えた。


 男子は慌ててトーストを口に詰め込み、コーヒーを一気に飲んだ。


「すみません、お会計お願いします!」


「はい」


 京馬はレジに向かった。男子は財布から小銭を取り出しながら、何度も時計を見ている。


「ありがとうございました」


 会計を済ませると、男子は慌ててブレザーを着た。


「ごちそうさまでした!」


 男子は急いで店を飛び出していった。ドアベルが激しく鳴る。


 京馬は窓の外を見た。男子は雨の中を走っていく。傘も差さずに。


「急いでいたんだな」


 京馬は小さく呟いて、テーブルを片付けに行った。


 コーヒーカップを持ち上げると、椅子の下に何かが落ちている。


「……傘?」


 小さな折りたたみ傘だった。濃紺のうこん色の布で、少し古びている。

 京馬は傘を拾い上げた。さっきの男子のものだろう。でも、もう店を出ていった。


 ドアベルが鳴った。今度は、三十代くらいの女性が、入れ違うように来店した。黒いレインコートを着て、長靴を履いている。手には折りたたみ傘。


「ブレンドコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 女性はレインコートを畳んでカバンにしまい、カウンター席に座った。


「雨、強くなってきましたね」


「ええ」


 京馬はコーヒーを淹れながら答えた。

「今日は一日降り続くようです」


「そうなんですか。困ったな」


 女性は困ったような顔をした。


「お待たせしました」


 京馬がコーヒーを出すと、女性はお礼を言って飲み始めた。

 店内には、雨音だけが静かに響いている。

 京馬は、カウンターに置いた傘を見た。


「あの、それ……」


 女性が声をかけた。


「忘れ物ですか?」


「ええ」


「さっきの学生さんの?」


「おそらく」


「追いかけますか?」


「もう遠いでしょう」


 京馬は窓の外を見た。雨は相変わらず激しく降っている。傘を持たずに出ていった男子は、今頃ずぶ濡れだろう。


「せっかく傘を持ってたのに、忘れちゃったんですね」

 女性は少し残念そうに言った。


「急いでいたようでした」


「可哀想に」


 京馬は傘をカウンターの下に置いた。

 女性はコーヒーを飲み終えると、席を立った。


「ごちそうさまでした」


「ありがとうございました」


 女性が出ていくと、店内は再び静かになった。

 京馬は傘を手に取って、しげしげと眺めた。使い込まれた傘だ。柄の部分に、小さな傷がある。大切に使われていたのだろう。


 シリウスが本棚の上から降りてきて、傘の匂いを嗅いだ。


「お前にもわかるか?」


 京馬が尋ねると、シリウスは一度だけ鳴いて、また本棚に戻った。


 それから二時間ほど、何人か客が来ては帰っていった。でも、あの男子は戻ってこなかった。


 午後三時を過ぎた頃、明穂が学校帰りに店に寄った。制服姿で、傘を持っている。


「京馬さん、今日雨すごいですね」


「ああ」


 明穂は傘立てに傘を置いて、カウンターに座った。


「何かあったんですか?」


「なぜそう思う」


「京馬さん、ちょっと考え込んでる顔してます」


 明穂は鋭い。

 京馬はカウンターの下から、折りたたみ傘を取り出した。


「これ、朝来た学生の忘れ物だ」


「あ、傘」


「傘を持っていたのに、忘れていった」


「それは……おっちょこちょいですね」

 明穂は苦笑した。


「慌てて出て行ったんだ。電話がかかってきて」


「急用だったんですかね」


「だろうな」


 京馬は傘を眺めた。


「でも、また来るかもしれない」


「来るといいですね」


 明穂はそう言って、店内を見回した。


「今日はお客さん少ないですか?」


「雨だからな」


「こういう日は、ゆっくりできていいですね」

 明穂はにっこり笑った。


 それから一時間ほど、明穂は店を手伝いながら、時々傘を見ていた。


「その学生さん、まだ来ませんね」


「ああ」


「明日来るかもしれませんね」


「かもな」

 京馬は淡々と答えた。


 夕方六時、明穂が帰る時間になった。


「じゃあ、私帰りますね」


「気をつけて」


「傘、ちゃんと保管しておいてくださいね」


「わかってる」


 明穂が出ていくと、店は再び静かになった。

 京馬は傘をカウンターの見える場所に置いた。もし男子が戻ってきたら、すぐに渡せるように。


 しばらくして、ドアベルが鳴った。

 入ってきたのは朝の男子だった。制服を着ている。髪も服も濡れている。


「あの……」


 男子は申し訳なさそうな顔をした。


「朝、ここで傘を忘れたと思うんですが」


「ありましたよ」


 京馬は傘を持ち上げた。


「あ、良かった……」


 男子はほっとしたような顔で傘を受け取った。


「すみません、ありがとうございます」


「濡れましたね」


「はい……またずぶ濡れで」

 男子は苦笑した。


「朝も濡れて、夕方も濡れて。一日に二回も」


「朝は急いでいたようでしたね」


「あ、はい……」


 男子は照れくさそうに頭を掻いた。


「母さんが入院してて。朝も病院に行ってたんです」

 男子の声が少し震えた。


「ひとまず安定したので、帰りに朝ごはん食べてから学校に行こうとしたら、また急変したって……」


「それで傘を忘れた」


「はい。途中で気づいたんですけど、もう戻れなくて」


 男子は傘を大事そうに抱えた。


「これ、母さんが買ってくれたやつで」


「大切な傘なんですね」


「はい。母さんが入院する前に買ってくれたんです」


 男子の声が少し小さくなった。

「『急な雨でも濡れないようにね』って。それが、入院する前の最後のプレゼントだったから」


「そうでしたか」

 京馬は静かに頷いた。


「お母様は、大丈夫でしたか」


「はい。大事には至らなくて。でも、すごく心配で」

 男子は傘を見つめた。


「だから、この傘を失くしたと思ったとき、本当に焦って。母さんにもらった、大切なものだから」


「見つかって良かったですね」


「はい……本当に」

 男子はにっこり笑った。


「あの、お礼に何か」


「いえ、結構です」

「忘れ物をお返ししただけですから」


「でも……」


「また、コーヒーを飲みに来てください。今度はゆっくりと。お母様とご一緒に」


 京馬の言葉に、男子は少し驚いたような顔をした。それから、嬉しそうに頷いた。


「はい。母さんが退院したら、必ず連れてきます」


 男子は深々と頭を下げて、店を出ていった。今度は、ちゃんと傘を差して。


 京馬は窓の外を見た。雨はまだ降り続いている。でも、少し弱くなったような気がする。


 シリウスが椅子に飛び乗った。


「気になってたのか?」


 京馬が尋ねると、シリウスは目を細めて、一度だけ鳴いた。


 京馬は小さく笑った。


「持ち主に返せて良かったな」


 シリウスは返事をせず、丸くなって眠り始めた。


 京馬はコーヒーカップを洗いながら、窓の外を眺めた。


 雨の日の忘れ物。それは、大切なものだった。母親が買ってくれた傘。何度も使い込まれて、傷だらけになっても、大事に使われている。

 そんな傘を、ちゃんと持ち主に返せた。


 小さなことだけれど、それでいい。

 この店は、そんな小さな優しさが積み重なる場所だ。

 京馬はそう思いながら、閉店の準備を始めた。


 雨音が、静かに店内に響いている。


 喫茶シリウスの、雨の日の物語。それは、忘れ物と、大切な人を想う、穏やかな一日だった。


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