表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/12

第2話 消えたシュガーポット



 水曜日の午後、喫茶シリウスは静かだった。

 明穂は学校があるので、京馬は一人で店に立っている。客は常連の伊藤さんだけだ。読書に夢中で、コーヒーカップにはもう半分も残っていない。


 京馬はカウンターで新しい豆の仕入れ先を検討していた。サンプルの香りを確かめながら、ノートにメモを取る。


 そのとき、シリウスが本棚の上から降りてきた。床に着地すると、まっすぐカウンターの下へ向かう。


「どうした」


 京馬が覗き込むと、シリウスはカウンター下で座り込んでいた。首を傾げて、何かを探すような仕草をしている。


「何か落ちたか?」


 京馬は棚を確認した。コーヒーカップ、ソーサー、スプーン。いつもの場所にいつものものが並んでいる。


 いや、違う。


「……ない」


 京馬は眉をひそめた。

 シュガーポットがない。


 白い陶器の小さな器。砂糖を入れて、カウンターに常備していたものだ。いつも決まった位置に置いてあるはずなのに、今日はそこにない。


「どこに置いたか……」


 京馬は記憶を辿った。今朝、開店準備をしたとき、確かにここに置いたはずだ。それから客が来て、コーヒーを淹れて、伊藤さんに出して。


 そういえば、伊藤さんは砂糖を使わなかった。ブラックで飲む人だ。


「じゃあ、誰が……」


 京馬は店内を見回した。伊藤さん以外に客はいない。午前中は誰も来ていない。


 いや、一人だけいた。


 開店直後に来た、若い女性。常連ではない、初めて見る顔だった。コーヒーを一杯飲んで、十五分ほどで帰った。


「あの人が持っていったのか?」


 京馬は首を傾げた。シュガーポットを盗む理由が思いつかない。それに、あの女性は砂糖を使っていなかったはずだ。


 シリウスが鳴いた。高く、短い声。


「お前は気づいてたのか」


 京馬の問いかけに、シリウスは目を細めて、もう一度鳴いた。


 京馬は奥の棚から別のシュガーポットを取り出した。予備のものだ。これをカウンターに置けば、客に砂糖を出すのに困ることはない。


 でも、違和感は消えなかった。

 いつもの場所に、いつものものがない。それだけのことなのに、妙に落ち着かない。

 そのとき、店のドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、三十代くらいの男性だった。スーツ姿で、少し疲れた表情をしている。


「ブレンドコーヒーをお願いします」


「かしこまりました」


 京馬はコーヒーを淹れ始めた。男性は窓際の席に座った。

 コーヒーを運ぶと、男性は礼を言って一口飲んだ。


「……砂糖はありますか?」


「はい、少々お待ちください」


 京馬はシュガーポットを持っていきテーブルに置いた。男性は砂糖を一杯入れて、満足そうに飲み始めた。


 カウンターに戻り、再びあのシュガーポットのことを考えた。


 なぜ、あれだけがなくなったのか。

 店には砂糖のストックもあるし、予備のシュガーポットもある。困ることはない。


 でも、気になる。

 京馬は再び記憶を辿った。午前中の女性客。ベージュのコートを着て、少し疲れた様子だった。カウンター席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。砂糖は使わなかった。


 でも、何かしていた。


 そうだ。シュガーポットを手に取っていた。


 京馬は思い出した。女性がコーヒーを飲みながら、カウンターに置いてあったシュガーポットを手に取って眺めていた。しばらく見つめてから、また置いた。


 そのとき、バッグがカウンターの上にあった。


「もしかして……」

 京馬は小さく呟いた。

 そのとき、ドアベルが鳴った。


 入ってきたのは、午前中に来た若い女性だった。ベージュのコートを着ている。


「あの、すみません」


 女性は申し訳なさそうな顔をして、カウンターに近づいてきた。


「さっき、こちらでコーヒーを飲ませていただいたんですが……」


「はい」


「その、これを……」

 女性はバッグから、白い陶器のシュガーポットを取り出した。

「間違えて持って帰ってしまって」


 京馬は静かにシュガーポットを受け取った。


「家に帰ってから、バッグの中に入ってるのを見つけて、びっくりして」


 女性は本当に困ったような顔をしている。


「すみません、本当に……わざとじゃないんです」


「いえ」


 京馬はシュガーポットをカウンターに置いた。


「お持ちいただき、ありがとうございます」


「ご迷惑おかけしました」

 女性は深々と頭を下げた。


「あの……どうして、バッグに?」


 京馬が尋ねると、女性は少し恥ずかしそうに答えた。


「席に座ったとき、バッグをカウンターに置いたんです。それで、コーヒーを飲んでるときに、このシュガーポットがすごく可愛いなって思って、手に取って見てたんです」


「ああ」


「それで、そのまま持ったまま考え事をして……気づいたらバッグに入れてしまっていたみたいで」


 女性は本当に申し訳なさそうに言った。


「最近、仕事で色々あって、ぼーっとしてることが多くて……本当にすみません」


「いえ、お気になさらず」

 京馬は穏やかに答えた。


 女性はほっとしたような顔をした。


「あの……もしよければ、もう一杯コーヒーをいただいてもいいですか」


「もちろんです」


 京馬は女性を席に案内した。カウンター席の、さっきと同じ場所。

 コーヒーを淹れながら、京馬は少し考えた。


 うっかり持ち帰る。それはありえる話だ。特に、疲れているときや、何か考え事をしているとき。


 シリウスは気づいていた。

 動物は、いつもと違う空気を敏感に感じ取る。シュガーポットがいつもの場所にないこと。それにいち早く気づいていた。


「お待たせしました」


 京馬はコーヒーを女性の席に運んだ。


「ありがとうございます」


 女性はコーヒーを一口飲んで、ほっとしたような顔をした。


「美味しい……」


「お疲れのようですね」


「実は、転職したばかりで。新しい環境に慣れなくて、毎日ぼーっとしちゃって」


 女性は苦笑した。


「今日も、ここでコーヒーを飲んで、少し落ち着こうと思ったんです。でも、結局シュガーポットを持ち帰っちゃって。自分でも笑えます」


「大変ですね」


「でも、ここのコーヒー、本当に美味しいです。また来てもいいですか?」


「もちろん」


 京馬は微笑んだ。


「いつでもどうぞ」


 女性は嬉しそうに頷いた。

 それから三十分ほど、女性はゆっくりとコーヒーを飲んだ。店を出るとき、もう一度頭を下げて、帰っていった。


 伊藤さんも、ちょうど同じタイミングで席を立った。


「ごちそうさま」


「ありがとうございました」


 店が静かになった。


 京馬はカウンターに戻り、シュガーポットをいつもの場所に戻した。予備のシュガーポットは、また奥の棚にしまう。


 京馬はコーヒーカップを洗いながら、小さく笑った。


 消えたシュガーポット。それは盗難ではなく、ただのうっかりミス。でも、その背景には、疲れた人の小さなSOSがあった。


 人は疲れると、普段しないミスをする。大事なものを忘れたり、変なことをしたり。


 この店が、そんな人たちの休息の場所になればいいな。


 京馬はそう思いながら、次の客を待った。


 シリウスは相変わらず本棚の上で眠っている。


 喫茶シリウスの、いつもの日常。小さな事件と、小さな優しさが交差する、穏やかな午後だった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ