第2話 消えたシュガーポット
水曜日の午後、喫茶シリウスは静かだった。
明穂は学校があるので、京馬は一人で店に立っている。客は常連の伊藤さんだけだ。読書に夢中で、コーヒーカップにはもう半分も残っていない。
京馬はカウンターで新しい豆の仕入れ先を検討していた。サンプルの香りを確かめながら、ノートにメモを取る。
そのとき、シリウスが本棚の上から降りてきた。床に着地すると、まっすぐカウンターの下へ向かう。
「どうした」
京馬が覗き込むと、シリウスはカウンター下で座り込んでいた。首を傾げて、何かを探すような仕草をしている。
「何か落ちたか?」
京馬は棚を確認した。コーヒーカップ、ソーサー、スプーン。いつもの場所にいつものものが並んでいる。
いや、違う。
「……ない」
京馬は眉をひそめた。
シュガーポットがない。
白い陶器の小さな器。砂糖を入れて、カウンターに常備していたものだ。いつも決まった位置に置いてあるはずなのに、今日はそこにない。
「どこに置いたか……」
京馬は記憶を辿った。今朝、開店準備をしたとき、確かにここに置いたはずだ。それから客が来て、コーヒーを淹れて、伊藤さんに出して。
そういえば、伊藤さんは砂糖を使わなかった。ブラックで飲む人だ。
「じゃあ、誰が……」
京馬は店内を見回した。伊藤さん以外に客はいない。午前中は誰も来ていない。
いや、一人だけいた。
開店直後に来た、若い女性。常連ではない、初めて見る顔だった。コーヒーを一杯飲んで、十五分ほどで帰った。
「あの人が持っていったのか?」
京馬は首を傾げた。シュガーポットを盗む理由が思いつかない。それに、あの女性は砂糖を使っていなかったはずだ。
シリウスが鳴いた。高く、短い声。
「お前は気づいてたのか」
京馬の問いかけに、シリウスは目を細めて、もう一度鳴いた。
京馬は奥の棚から別のシュガーポットを取り出した。予備のものだ。これをカウンターに置けば、客に砂糖を出すのに困ることはない。
でも、違和感は消えなかった。
いつもの場所に、いつものものがない。それだけのことなのに、妙に落ち着かない。
そのとき、店のドアベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代くらいの男性だった。スーツ姿で、少し疲れた表情をしている。
「ブレンドコーヒーをお願いします」
「かしこまりました」
京馬はコーヒーを淹れ始めた。男性は窓際の席に座った。
コーヒーを運ぶと、男性は礼を言って一口飲んだ。
「……砂糖はありますか?」
「はい、少々お待ちください」
京馬はシュガーポットを持っていきテーブルに置いた。男性は砂糖を一杯入れて、満足そうに飲み始めた。
カウンターに戻り、再びあのシュガーポットのことを考えた。
なぜ、あれだけがなくなったのか。
店には砂糖のストックもあるし、予備のシュガーポットもある。困ることはない。
でも、気になる。
京馬は再び記憶を辿った。午前中の女性客。ベージュのコートを着て、少し疲れた様子だった。カウンター席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。砂糖は使わなかった。
でも、何かしていた。
そうだ。シュガーポットを手に取っていた。
京馬は思い出した。女性がコーヒーを飲みながら、カウンターに置いてあったシュガーポットを手に取って眺めていた。しばらく見つめてから、また置いた。
そのとき、バッグがカウンターの上にあった。
「もしかして……」
京馬は小さく呟いた。
そのとき、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、午前中に来た若い女性だった。ベージュのコートを着ている。
「あの、すみません」
女性は申し訳なさそうな顔をして、カウンターに近づいてきた。
「さっき、こちらでコーヒーを飲ませていただいたんですが……」
「はい」
「その、これを……」
女性はバッグから、白い陶器のシュガーポットを取り出した。
「間違えて持って帰ってしまって」
京馬は静かにシュガーポットを受け取った。
「家に帰ってから、バッグの中に入ってるのを見つけて、びっくりして」
女性は本当に困ったような顔をしている。
「すみません、本当に……わざとじゃないんです」
「いえ」
京馬はシュガーポットをカウンターに置いた。
「お持ちいただき、ありがとうございます」
「ご迷惑おかけしました」
女性は深々と頭を下げた。
「あの……どうして、バッグに?」
京馬が尋ねると、女性は少し恥ずかしそうに答えた。
「席に座ったとき、バッグをカウンターに置いたんです。それで、コーヒーを飲んでるときに、このシュガーポットがすごく可愛いなって思って、手に取って見てたんです」
「ああ」
「それで、そのまま持ったまま考え事をして……気づいたらバッグに入れてしまっていたみたいで」
女性は本当に申し訳なさそうに言った。
「最近、仕事で色々あって、ぼーっとしてることが多くて……本当にすみません」
「いえ、お気になさらず」
京馬は穏やかに答えた。
女性はほっとしたような顔をした。
「あの……もしよければ、もう一杯コーヒーをいただいてもいいですか」
「もちろんです」
京馬は女性を席に案内した。カウンター席の、さっきと同じ場所。
コーヒーを淹れながら、京馬は少し考えた。
うっかり持ち帰る。それはありえる話だ。特に、疲れているときや、何か考え事をしているとき。
シリウスは気づいていた。
動物は、いつもと違う空気を敏感に感じ取る。シュガーポットがいつもの場所にないこと。それにいち早く気づいていた。
「お待たせしました」
京馬はコーヒーを女性の席に運んだ。
「ありがとうございます」
女性はコーヒーを一口飲んで、ほっとしたような顔をした。
「美味しい……」
「お疲れのようですね」
「実は、転職したばかりで。新しい環境に慣れなくて、毎日ぼーっとしちゃって」
女性は苦笑した。
「今日も、ここでコーヒーを飲んで、少し落ち着こうと思ったんです。でも、結局シュガーポットを持ち帰っちゃって。自分でも笑えます」
「大変ですね」
「でも、ここのコーヒー、本当に美味しいです。また来てもいいですか?」
「もちろん」
京馬は微笑んだ。
「いつでもどうぞ」
女性は嬉しそうに頷いた。
それから三十分ほど、女性はゆっくりとコーヒーを飲んだ。店を出るとき、もう一度頭を下げて、帰っていった。
伊藤さんも、ちょうど同じタイミングで席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
店が静かになった。
京馬はカウンターに戻り、シュガーポットをいつもの場所に戻した。予備のシュガーポットは、また奥の棚にしまう。
京馬はコーヒーカップを洗いながら、小さく笑った。
消えたシュガーポット。それは盗難ではなく、ただのうっかりミス。でも、その背景には、疲れた人の小さなSOSがあった。
人は疲れると、普段しないミスをする。大事なものを忘れたり、変なことをしたり。
この店が、そんな人たちの休息の場所になればいいな。
京馬はそう思いながら、次の客を待った。
シリウスは相変わらず本棚の上で眠っている。
喫茶シリウスの、いつもの日常。小さな事件と、小さな優しさが交差する、穏やかな午後だった。




