第12話 名前を変える男
月曜日の午後、喫茶シリウスに一人の男性客が入ってきた。
二十代半ば、黒縁メガネに紺色のシャツ。カウンター席に座ると、メニューを眺めた。
「いらっしゃいませ」
京馬が声をかけると、男性は笑顔で答えた。
「ブレンドコーヒーをお願いします。あ、僕、田中といいます」
「かしこまりました」
京馬はコーヒーを淹れ始めた。男性は三十分ほど経った頃、会計を済ませて帰っていった。
注文の際に名乗ること以外は、特に変わったところのない、普通の客だった。
翌日の火曜日、また同じ男性が来た。
服装は違う。今日はグレーのセーターだ。同じようにカウンター席に座る。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドをお願いします。山田です」
京馬は一瞬、手を止めた。が、何も言わずにコーヒーを淹れた。
男性は昨日と同じように、三十分ほどで帰っていった。
水曜日。
また同じ男性が来た。今日はストライプのシャツだ。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドコーヒーをお願いします。佐藤と申します」
裏で在庫整理をしていた明穂が顔を出した。
「……ねえ、京馬さん」
「何だ」
「あのお客さん、毎日違う名前で自己紹介してませんか?」
「そうだな」
「絶対怪しいですよ!スパイとか、詐欺師とか」
「スパイが喫茶店でなにをするんだ?」
「じゃあ、多重人格?」
「そういうわけでもないだろう」
京馬は淡々とコーヒーを淹れた。
「でも気になりますよね?」
「別に」
「嘘。京馬さん、絶対気になってるでしょ」
明穂はにやりと笑う。
「じゃあ、私が調べます!」
「余計なことはするな」
「大丈夫ですって」
木曜日。
男性は今日も来た。今日はカーディガンだ。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドコーヒーをお願いします。鈴木です」
明穂がすかさずカウンターから出てきた。
「あの、鈴木さん、よくいらっしゃいますよね!」
「ええ、ここのコーヒー、美味しいので」
「お仕事は何をされてるんですか?」
「会社員です」
「そうなんですね。普段はどんな業務を?」
「普通の、事務職ですよ」
男性は特に警戒した様子もなく、にこやかに答えた。明穂はさらに質問を続けようとしたが、京馬が止めた。
「明穂、お客さんの邪魔をするな」
「あ、すみません」
明穂は引き下がったが、納得していない顔だった。
男性が帰った後、明穂が不満そうに言った。
「京馬さん、止めないでくださいよ」
「しつこい」
「でも、絶対何か隠してますよ。毎日名前変えるなんて、普通じゃないです」
「そうだな」
「じゃあ、なんで調べないんですか?」
「本人が迷惑をかけていないからだ」
京馬はカップを磨きながら言った。
「礼儀正しいし、注文もちゃんとする。他の客に絡むわけでもない」
「でも——」
「それに」
京馬は少し考え込むように視線を宙に泳がせた。
「あれは、何かの練習だろう」
「練習?」
「ああ。毎日違う名前を名乗るのは、自己紹介の練習か、人格設定の練習か」
「人格設定?……あっ!」
明穂は目を輝かせた。
「そうです!役者です!だから毎日違う人物になりきってるんだ」
「まあ、そんなところだろう」
「じゃあ、聞いてみましょうよ」
「本人が言わないなら、聞く必要はない」
「えー」
明穂は不満そうだったが、京馬はそれ以上何も言わなかった。
金曜日。
男性は今日も来た。今日は白いシャツだ。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドコーヒーをお願いします。高橋です」
明穂は我慢できずに言った。
「あの、高橋さん、もしかして役者さんですか?」
男性は驚いたように目を見開いた。
「え、なんでわかったんですか?」
「やっぱり!」
明穂は嬉しそうに叫んだ。
「毎日名前が違うから、何かの練習かなって」
「バレてましたか」
男性は照れくさそうに笑った。
「実は、劇団の新人なんです。演技指導で『毎日違う人格を演じろ』って課題が出されて」
「だから毎日違う名前で!」
「はい。それぞれの人物設定を作って、その人になりきって一日過ごすっていう訓練で」
京馬がコーヒーを運んできた。
「なるほど」
「すみません、変なことして。でも、ここのコーヒーが本当に美味しくて、毎日来たくなっちゃって」
「構いませんよ」
京馬は穏やかに言った。
「それで、今日の『高橋』さんは、どんな人物設定なんですか?」
「えっと、温厚で真面目な会社員です。趣味は読書」
「なるほど。では、ごゆっくりどうぞ」
男性は嬉しそうに頷いて、本を開いた。
男性が帰った後、明穂が得意げに言った。
「ほら、やっぱり裏がありましたよね!」
「裏というか、理由があっただけだ」
「同じですよ」
明穂はにっこり笑った。
「でも、京馬さんは最初から気づいてたんですよね」
「なんとなくな」
「なんとなく、じゃないですよ。ずっと観察してたんでしょ?」
「……少しは」
京馬は、観念したように短く息を吐いた。
「毎日服装が違うのに、姿勢や仕草は同じだった。何かを演じようとしているが、根本的な部分は変わらない」
「なるほど……」
「それに、名前の選び方が『田中、山田、佐藤、鈴木、高橋』と、ありふれた苗字ばかりだった」
「ああ、確かに」
「本当に偽名を使うなら、もっと凝った名前にするか、逆に覚えやすい名前にする。でも彼は『普通の名前』を選んでいた」
「それが役作りの一環だったんですね」
「そういうことだ」
明穂は感心したように頷いた。
「でも、聞いてみてよかったですよね」
「ああ」
京馬は小さく笑った。
「これで、彼も気兼ねなく通えるだろう」
窓際では、シリウスが丸くなって眠っている。店内にはコーヒーの香りが満ちていた。
「ねえ、京馬さん」
「何だ」
「私も、いつか小説で色んな人物を書きたいです」
「なら、よく観察することだ」
「はい!」
明穂は嬉しそうに笑った。
翌週の月曜日。
また例の男性が来た。今日はジャケットを着ている。
「いらっしゃいませ」
「ブレンドコーヒーをお願いします」
男性は名前を言わなかった。代わりに、少し恥ずかしそうに言った。
「あの、本名は今永っていいます」
「今永さんですね。かしこまりました」
京馬は笑顔で答えた。
明穂もカウンターから顔を出して、にっこり笑った。
「今永さん、またお待ちしてますね!」
「はい、また来ます」
今永は嬉しそうに笑った。
喫茶シリウスの、いつもの日常が続いていく。小さな謎を解きながら、静かに、穏やかに。




