第10話 思いやりのかたち
土曜日の午後、喫茶シリウスは昼下がりの陽射しに包まれていた。
明穂はカウンターでコーヒーカップを拭きながら、窓の外を眺めている。
「京馬さん、今日は天気がいいですね」
「ああ」
京馬は焙煎した豆を指先で弾きながら、短く答えた。
その時、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、六十代半ばくらいの男性だった。背筋が伸びていて、どこか品のある雰囲気を漂わせている。
「いらっしゃいませ」
明穂が声をかけると、男性はカウンターに近づいて、メニューを見た。
「エスプレッソを」
「かしこまりました」
明穂が注文を受けると、京馬はエスプレッソマシンに向かった。豆を挽き、ポルタフィルターに詰める。レバーを下ろすと、濃厚な香りが立ち上った。
「お待たせしました」
明穂が小さなカップを運ぶと、男性は一口飲んで、目を細めた。
「おお、これは素晴らしい」
「ありがとうございます」
明穂が微笑むと、男性はもう一口、味わった。カップを置いて、少し迷うような素振りを見せる。
「あの、火黒さんという方は?」
京馬は顔を上げた。
「私ですが」
「ああ、よかった。川上刑事から聞きまして」
京馬は小さくため息をついた。
「……また、あの人ですか」
「お忙しいところ、申し訳ありません」
男性は丁寧に頭を下げた。
「何かあったんですか」
「はい。少し、困ったことがありまして」
京馬はカウンターから出て、男性を奥の席に案内した。
「私、高田と申します」
京馬は向かいの席に座った。
「実は、手紙がなくなったんです」
「手紙?」
「はい。亡くなった妻からの手紙です」
高田の表情が曇った。
「妻は半年前に病気で亡くなりました。その妻が、最期に私へ宛てた手紙です……」
「手紙はいつなくなったんですか」
「昨日の夜です。金曜日の」
「どこに保管していたんですか」
「書斎の引き出しに。鍵をかけて、大切にしまっていました」
京馬は少し考えた。
「鍵は」
「いつも持ち歩いています」
高田はポケットから、小さく古びた鍵を取り出した。
「昨日の夜、久しぶりに手紙を読もうと思って、引き出しを開けたら、なくなっていて」
「引き出しに鍵はかかっていましたか」
「はい。鍵がかかったままでした」
明穂が首を傾げた。
「鍵がかかったまま、中身だけなくなったんですか?」
「そうなんです。不思議なことに」
高田は困惑した表情を見せた。
京馬は
「ご自宅には、他に誰か住んでいますか」
「息子夫婦と孫が一緒に住んでいます」
「何人ですか」
「息子と嫁、孫が二人。合わせて四人です」
「最後に手紙を見たのは、いつですか」
「一週間前です。妻の命日だったので」
「その時は、ちゃんとありましたか」
「はい。間違いありません」
京馬は少し間を置いた。
「失礼ですが、鍵の予備はありますか」
「ありません。これだけです」
「ご家族の誰かが、鍵を開ける技術を持っているとか」
「いえ、みんな普通の会社員と主婦ですから」
高田は首を横に振った。
「手紙の内容は、何か特別なものでしたか」
「特別といえば……妻の想いが詰まっていました。私への感謝の言葉や、これからの人生を楽しんでほしいという願い」
「金銭的な価値があるものではない?」
「ありません。私にとっては何よりも大切ですが、他人には何の価値もないものです」
京馬は目を閉じて、考え込んだ。
「高田さん、最近、何か変わったことはありましたか」
「変わったこと?」
「ご家族の様子とか」
高田は少し考えた。
「そういえば、息子が最近、書斎をよく掃除してくれています」
「いつ頃からですか」
「二週間くらい前からでしょうか」
「以前は、掃除していなかったんですか」
「ええ。息子は仕事が忙しくて、家のこととなると、どうにも手が回らないようでして」
京馬の目が少し鋭くなった。
「息子さんは、その手紙のことを知っていましたか」
「はい。妻が亡くなった時、息子も読みました」
「嫁さんやお孫さんは?」
「嫁は知っていますが、孫たちは知りません。まだ小学生ですから」
京馬は少し考え込んだ。
「高田さん、息子さんをここに呼べますか」
「息子を?」
「はい。直接話を聞きたいんです」
「わかりました。今、連絡してみます」
高田は息子に電話をかけた。
十五分後、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代後半の男性だった。スーツを着ていて、どこか疲れた様子が見て取れる。
「お待たせしました」
高田が立ち上がって迎えた。
「こちらが、火黒さん」
「高田康平です。父から話は聞きました」
康平は少し緊張した様子で、席に座った。
明穂がコーヒーを運ぶ。
「康平さん、お母さんの手紙のことで、いくつか聞きたいことがあります」
京馬は静かに切り出した。
「はい」
「最近、お父さんの書斎を掃除していますよね」
「はい。父も歳ですから、少しでも手伝おうと思って」
「いつから始めたんですか」
「二週間くらい前からです」
「きっかけは?」
康平は少し間を置いた。
「……妻に言われたんです」
「奥さんに?」
「はい。『お父さんの部屋、埃だらけよ。たまには掃除してあげたら』って」
京馬は頷いた。
「掃除の時、引き出しは開けましたか」
「いえ、鍵がかかっていたので」
「触りましたか」
「……はい」
康平は視線を落とした。
「掃除の時、引き出しの上を拭いたりして」
「その時、何か気づきませんでしたか」
康平は黙り込んだ。
京馬は続けた。
「康平さん、手紙を持ち出したのは、あなたじゃないですよね」
「え?」
高田と康平が同時に声を上げた。
「でも、何が起きたか、あなたは知っている」
康平は顔を上げた。
「……どうしてわかるんですか」
「あなたの態度です。罪悪感と、困惑が混ざっている」
京馬は淡々と言った。
「何があったんですか」
康平は深くため息をついた。
「実は、一週間前のことです。掃除をしていたら、息子が書斎に入ってきて」
「お孫さんですね」
「はい。小学四年生の長男です」
「それで?」
「息子が、引き出しの前でしゃがみ込んで、何かしていたんです」
「何をしていたんですか」
「針金みたいなものを、引き出しの隙間に入れて……」
高田が驚いた声を上げた。
「まさか」
「私も驚いて、すぐに止めました。でも、その時には、もう」
康平は苦しそうな表情を見せた。
「息子は、中から手紙を取り出して、読んでいました」
「お母さんの手紙を?」
「はい。私が『それ、じいちゃんの大切なものだから』って言ったら、息子は慌てて手紙をポケットに入れて、逃げていって」
「追いかけなかったんですか」
「追いかけましたが、見失ってしまいました」
康平は頭を抱えた。
「それから、息子に何度も返すように言ったんですが、『知らない』って言い張って」
「高田さんには、話さなかったんですか」
京馬が高田を見た。
「言えませんでした。父を心配させたくなくて」
康平は父親を見た。
「でも、昨日、父から手紙がないって聞いて……どうしたらいいか、わからなくなって」
高田は黙って息子を見つめていた。
京馬は少し考えた。
「お孫さんは、今どこにいますか」
「家にいると思います」
「呼べますか」
「はい」
康平は妻に電話をかけた。
二十分後、ドアベルが鳴った。
入ってきたのは、三十代半ばの女性と、小学生くらいの男の子だった。
「康平さん」
女性が夫に声をかけた。
「来てくれたか」
康平は息子に目を向けた。
「達也、こっちに来なさい」
達也と呼ばれた男の子は、おどおどした様子で、父親の隣に座った。
京馬は優しい声で話しかけた。
「達也くん、一つ聞きたいことがあるんだ」
「……はい」
「おじいちゃんの手紙、知ってる?」
達也は俯いた。
「知ってます」
「どこにあるか、教えてくれる?」
「……日記帳に隠してます」
「どうして隠したの?」
達也は小さな声で言った。
「おじいちゃんが、いつも悲しそうな顔をしているから」
「え?」
明穂が思わず声を上げた。
「おばあちゃんの手紙を読む時、おじいちゃん、泣いてるんです。僕、それが嫌で」
達也の目に涙が浮かんだ。
「手紙がなくなれば、おじいちゃん、悲しまなくなるかなって思って」
高田は孫を見つめた。
「達也……」
「ごめんなさい」
達也は泣き出した。
高田は孫の頭を撫でた。
「いいんだよ。じいちゃんのことを思ってくれて、ありがとう」
「でもね、あの手紙は、じいちゃんにとって、とても大切なものなんだ」
高田は優しく言った。
「おばあちゃんが最期に書いてくれた、じいちゃんへの愛情が詰まった手紙。悲しいけど、それと同時に、とても温かい気持ちになれるんだよ」
「そうなの?」
「ああ。だから、返してくれるかい」
「うん」
達也は頷いた。
康平が立ち上がった。
「すぐに取ってきます」
「ああ、頼む」
高田は息子を見送った。
京馬は達也に言った。
「達也くん、おじいちゃんのことが好きなんだね」
「うん。大好き」
「それなら、今度からは、素直に気持ちを伝えるといい」
「素直に?」
「『おじいちゃん、元気出して』って言うだけでも、おじいちゃんは嬉しいと思うよ」
達也は目を拭いた。
「わかった」
三十分後、康平が戻ってきた。手には薄い封筒を持っている。
「父さん、これです」
高田は手紙を受け取って、中身を確認した。
「ああ、間違いない」
高田は安堵した表情を見せた。
「よかった」
明穂が言うと、高田は頷いた。
「本当に、ありがとうございました」
「いえ」
京馬は淡々と言った。
「でも、京馬さん、どうして康平さんが犯人じゃないってわかったんですか」
明穂が尋ねた。
「康平さんの態度が、犯人のそれではなかった」
京馬は説明を始めた。
「もし康平さんが手紙を盗んだなら、もっと平静を装うはずだ。でも、彼は明らかに何かを隠している様子だった」
「隠し事?」
「ああ。自分が直接関わっていないけれど、何が起きたかは知っている。そういう反応だった」
「なるほど」
「それに、康平さんが掃除を始めた時期と、手紙がなくなった時期にズレがある」
京馬は続けた。
「だから、他の誰かが関わっている可能性が高かった」
「それで、お孫さんだと?」
「子供は、時に大人には理解できない行動をする。達也くんは、おじいさんを思っての行動だった」
高田は京馬に頭を下げた。
「本当に、ありがとうございました」
「大したことはしていません」
「いえ、おかげで、孫の気持ちも知ることができました」
高田は手紙を胸に抱いた。
「これからは、もっと孫と話をしようと思います」
「それがいいでしょう」
京馬は静かに言った。
一家は店を出ていった。
明穂が感心したように言った。
「京馬さん、また解決しましたね」
「子供の行動は純粋だ。ときに大人には想像もつかない行動をとる」
「純粋……ですか」
「ああ。大人のように、複雑な嘘はつかない」
京馬はカウンターに戻った。
「でも、達也くん、優しい子ですね」
「そうだな」
「おじいちゃんを思って、あんなことをするなんて」
「善意からの行動でも、時に問題を起こす。指輪の件と同じだ」
京馬はコーヒーを淹れ始めた。
「でも、その気持ちは本物だ。だから、許された」
「深いですね」
「……別に」
京馬は淹れたコーヒーを一口飲んだ。
明穂は笑いながら、カウンターを拭き始めた。
喫茶シリウスの、穏やかな午後。小さな誤解と、小さな優しさが、ここで静かに解かれていく。




