第1話 常連の席
土曜日の午後、喫茶シリウスには三人の客がいた。
カウンターの奥で、火黒京馬は焙煎したてのコーヒー豆を挽いていた。香ばしい匂いが空気を満たしていく。この匂いだけは、何度嗅いでも飽きない。
「京馬さん、今日はずっと混んでますね」
カウンターで本を読んでいた日向明穂が顔を上げた。高校の制服姿で店番を手伝っている。
「三人で混んでるとは言わない」
「でも、いつもよりは」
「それはそうだ」
京馬は淡々と答えた。窓際には大学生らしき男性、奥の席には読書中の中年女性、入口近くには老人が新聞を広げている。
そのとき、店のドアベルが鳴った。
入ってきたのは、六十代ほどの男性だった。グレーのセーターに黒いズボン。きちんと整えられた白髪。常連の北川さんだ。
北川さんは店内を見回して、少し困ったような顔をした。
「あの……」
「どうぞ、おかけになってください」
京馬が促すと、北川さんは窓際の、ちょうど真ん中あたりの席を見た。そこには誰も座っていないが、北川さんは動かなかった。
「いつもの席が空いていないんですね」
「いつもの席?」
明穂が首を傾げた。北川さんは、入口近くの席を指差した。
「あそこです。いつもあそこに座るんですが、今日は先客が」
確かに、その席には老人が座って新聞を読んでいる。
「申し訳ございません。他の席でよろしければ」
「ええ、もちろん」
北川さんは少し迷ってから、窓際の空いている席に座った。明穂が水を運ぶ。
「いつものブレンドでよろしいですか?」
「ええ、お願いします」
京馬がコーヒーを淹れ始める。明穂はカウンターに戻ってきて、小声で言った。
「北川さん、座りにくそうでしたね」
「常連には、それぞれ好きな席がある」
「そうなんですか?」
「ああ」
京馬はドリッパーから一滴一滴コーヒーを落としながら言った。
「北川さんは入口近くの席。伊藤さんは窓際の奥。小松さんはカウンター。それぞれ、いつも同じ場所に座る」
「へえー」
明穂は興味深そうに店内を見回した。
「でも、なんで同じ席なんですか?」
「居心地がいいからだろう」
「それだけ?」
「それだけだ」
京馬はコーヒーを淹れ終わると、北川さんの席に運んだ。
「お待たせしました」
「ありがとうございます」
北川さんはコーヒーを一口飲んで、ほっとしたような顔をした。が、どこか落ち着かない様子で、何度も入口のほうを見ている。
それから十分ほど経った頃、入口近くに座っていた老人が席を立った。
「ごちそうさま」
「ありがとうございました」
老人が出ていくと、北川さんはすぐに立ち上がった。
「あの、すみません。席を移ってもいいですか?」
「もちろんです」
京馬が答えると、北川さんは嬉しそうに入口近くの席に移動した。コーヒーカップを持って、椅子に座り直す。
「ああ、やっぱりここが落ち着く」
北川さんはにっこり笑った。
明穂がその様子を見て、不思議そうな顔をした。
「そんなに違うんですか?」
「人それぞれだよ」
京馬が答えた。
「でも、窓際も入口近くも、そんなに変わらないような……」
「お前にはそう見えるだろう」
京馬は少し考え込むように視線を宙に泳がせた。
「北川さんは、いつも入口近くに座る。なぜだと思う?」
「えっと……」
明穂は考えた。
「ドアが近いから、出やすい?」
「それもあるかもしれない。でも、違う」
「じゃあ……人の出入りが見えるから?」
「近いな」
京馬はカウンターに戻って、新しい豆を挽き始めた。
「北川さんは、人を見るのが好きなんだ。誰が来て、誰が出ていくか。それを眺めるのが楽しいんだろう」
「ああ、なるほど」
明穂は納得したように頷いた。
「じゃあ、窓際の奥に座る伊藤さんは?」
「静かに本を読みたいから奥の席を選ぶ。入口から遠いほうがドアの開閉音も小さい」
「小松さんは?」
「カウンターに座るのは、俺と話したいからだ」
「わあ、京馬さんモテモテじゃないですか」
「そういう意味じゃない」
京馬は呆れたように言ったが、少し嬉しそうな顔をしている。
明穂はカウンターに肘をついて、店内を見回した。
「じゃあ、私の席は?」
「お前の席?」
「私、いつもここにいるじゃないですか」
明穂はカウンターの端、入口に一番近い場所を指差した。
「ここが、私の定位置です」
「客の様子を見たいからそこに座る」
「えっ」
「何か事件が起きないか、いつも店内を観察している」
明穂は驚いたような顔をした。
「バレてました?」
「バレバレだ」
二人は顔を見合わせて笑った。
さっきまで北川さんが座っていた席の出窓で、看板猫のシリウスが寝ている
「シリウスは、そこ気に入ったの?」
明穂が声を掛けると、出窓からシリウスが降りてきた。艶やかな黒猫が、音もなく床に着地する。そして本棚の上に飛び乗った。
明穂が見上げると、シリウスは丸くなって目を閉じた。
「窓際は日当たりがいいからな」
京馬はそう言いながら、丸くなったシリウスを見上げた。
「でも、猫は結局、本棚の上が一番落ち着くらしい」
「なんでですか?」
「多分、周りを見渡せて安心するんだろう」
京馬は穏やかな表情で言った。
「人も、猫も、自分の居場所を見つける。それが、この店なら嬉しい」
明穂はその言葉を聞いて、少しじんとした。
「京馬さん、やっぱり優しいですね」
「……余計なことを言うな」
京馬は照れくさそうに顔を背けた。
それから一時間ほど、北川さんは満足そうにコーヒーを飲み、新聞を読み、時々店内を眺めていた。やがて席を立つと、レジに向かった。
「ごちそうさまでした。やっぱり、あの席が一番ですね」
「またお待ちしております」
北川さんが出ていくと、明穂が嬉しそうに言った。
「よかったですね」
「何がだ」
「北川さん、満足そうでしたよ」
「それならいい」
京馬は短く答えた。
店内には、再び静かな時間が流れ始めた。コーヒーの香りが満ちている。
「ねえ、京馬さん」
「何だ」
「この店、みんなの居場所になってますね」
京馬は一瞬だけ手を止めて、小さく笑った。
「そうだといいな」
本棚の上では、シリウスが気持ちよさそうに眠っている。
喫茶シリウスの、いつもの日常が続いていく。それぞれの居場所を見つけながら、静かに、穏やかに。




