ムッシュ・ド・ルージュの午睡
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大カシューナッツ園の内主からの申し出を断り、徒歩でホテルに向かう。車通りの少ない道を選べば、そこは屋台の天国だ。むき出しのバイオ電球に照らされて、さまざまな食べ物と屋台に群がる人々が夜の街に浮かびあがる。
バゲットにハムや香草類をはさんだサンドイッチ《バイン・ミー》、もやしと海鮮を詰め込んだターメリック色のお好み焼き、泥蟹とトマトのスープ、緑豆の入ったおこわ。淡白な魚やいかつい甲殻類、カエルの串揚げ。だが、僕が惹かれるのはやはり温かいフルーツあんみつの店だ。茹でた豆類とココナッツの優しく甘い香りに誘われ、つい近寄ってしまう。とうもろこしと糯米を主体とした一品に時期ものの甘栗を乗せるよう頼んだところ、無愛想な店主の手で、注文していない蓮の実も足されていた。間違いのない組み合わせだ。近くの屋台から、はちみつ入りの豆乳や、タロイモとバナナのケーキの匂いが立ちのぼる。それらに取り巻かれて日をまたぎ、幸せな気持ちで部屋に戻ると、前室の小さな丸机に封筒が置いてあった。ずいぶん厚みがある。封筒にはこのホテルの名前が刷られているだけで、表にも裏にも書き込みはない。糊付けはしてある。
ぼんやりしているうちに灯りが落ちた。センサーがありそうなところに向かって手を振り、電気をつける。封筒を透かしてから口を切ると、中に入っているのは手の切れそうなフランス=バスク連合の新札だけで、手紙が添えられているわけでもない。
残念なことに、ここまで来てまだ僕は状況が飲み込めていなかった。いや、思い出せなかったと言うべきか。ほんの一時間前まで、ぜひとも懇意になりたい養蜂家や有機胡麻農家、地元菓子店の後継者たちととろみのある杏子酒を浴びるように飲み、したたかに酔っていたのだ。札を数える。アルコールで弱った頭のなかで総額が千鳥足で歩み、記憶の扉を叩いた。扉が開かれると、重大な事実が次々に思い出され、酔いが一気に引く。
明後日、ケーキを食べるための部屋がない。
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僕が美食の門を叩いたのは十二の年だった。たまたま、親戚の大伯父が伝統ある美食ガイド美酒欄社赤色案内の主審査員を務めていたのである。僕は彼を師とし、特に西欧の菓子類について専門的な知識を実践的に習得した。大伯父がこれはと選び抜いた菓子で完成品の味わいを舌に刻み、パティスリーや加工業者のところに入り込んで甘い美術品が出来上がるまでの流れを学び、カカオなどの甘味に不可欠な食材の産地をめぐることによってそれらがもたらす恵みを知る。
大伯父の指導は、彼の立場もあってそうとう厳しかった。正直な話、何度逃げだそうと思ったか知れない。しかし彼から提供される教育で、確実に僕は成長した。それまでは、自分自身が菓子を食べる上での主体だと信じていたが、実はそうではないことに気づくことができたのだ。しかるべき手順を踏んで菓子の言葉を学べば、菓子はどこがどう美味しいのかを自ら語ってくれる。菓子の言葉は、僕をより深みに連れて行ってくれた。この魅力に勝る快感なぞ、この世にありはしない。そう思い知った僕は、一時の浅慮に身をまかせることなく、大伯父の忠実な弟子であり続けた。
おかげで数年後、僕は美酒欄社赤色案内の常勤覆面審査員となり、十八になるころには欧州菓子事典の一項を担当するまでになった。各国の元首、いわゆる復興新貴族、地球型惑星開発に活路を見出すIT財閥の子弟たちなどが催す晩餐会に呼ばれては、会の趣旨に沿った菓子を選定したり、誰かのお気に入りのパティシエの新作を品評するよう依頼されたりすることも多かった。文字通り鍛え抜かれた僕の舌は確かで、あらゆる粉、砂糖、乳製品、果実を弁別し、素材同士の適当な取り合わせも、料理や酒、茶、コーヒー類との意外性のある組み合わせも提示することができた。ある国の有力な継承候補者から、冗談まじりに、称号を差し上げたいと持ちかけられたこともある。恥じらいなく申告すれば、若くして成功したのだ。そのまま勤めていれば、大伯父のあとを継いで主審査員になるのは間違いないと言われていた。だが、二十三そこそこで僕は独立を決意した。理由は単純だ。世界中のどんな菓子であっても心置きなく食べるためである。
美酒欄社赤色案内は裕福な美食家向けに作られた案内書だ。欧州が発祥の地だが、ここ一世紀ばかり、中華圏と北アフリカ圏資本の支えを受けている。そのため、僕が食べ、品評すべき菓子となると、欧州の文化基準で、あるランク以上の高級店の菓子になってしまう。むしろそうした菓子に照準を合わせ、体調を整えるように教えこまされた。オールドロンドンの百貨店跡地で煙を上げるスイーツピザの路上店をうっとりと眺めていた僕に、ご親切なシニア審査員はこう助言してくださった。「あんなものを食べたら君の磨き込まれた銀の舌が衰えてしまうよ」
まさか。そんなことで僕の能力が陰る訳はない。それに、駅の売店で店員の勧めにのって買ったカルダモン香る揚げドーナッツも、外壁の汚れた小さなパン屋が売りさばく両手に収まりきらないほどのメレンゲも、どこかの家で手早く作られたできあいのパイシートに冷凍のベリーミックスをばらまいて焼いただけのものも、それぞれ美味しいではないか。食べたいものを食べてはならないと言われるのは苦痛だ。耐えがたい。僕はひたすら我と我が身を誘惑する甘味を食べて飲んで、惜しみなく味わい尽くして生きていきたい。
そもそも僕が大伯父に見出されたのは、大伯父のところの運転手が食べていたお菓子のくずをねだり、ぱくついているところを見られたのがきっかけだった。僕は全体像が分からない菓子の切り落としや失敗作を間断なく食べながら、運転手に感想を述べていた。その達者な批評家ぶりに興味をもった大伯父が、風味や食感について僕にあれこれと尋ねたところ、僕は彼が満足する回答をしたらしい。又甥が抜きん出た菓子への感受性を有していると確信した彼は、僕を徒弟にすることを決めた。今の生活がそんなありきたりな菓子から始まったなら、いくら格好をつけても、身近な菓子こそが僕の起源なんだろう。
美酒欄社を辞めた僕は、ムッシュ・ド・ルージュの名でクラウド上に菓子を食す体験をストレージし、売り出すことにした。人々は、僕の舌と食感と鼻腔をかりそめに体験することに対価を払う。視聴覚以外の諸官能を同時並行で記録するためには、一般的なチップ以外に専用の媒体を仕込む必要があり、初期投資はかなりかかった。開始当初は多少のトラブルもあったが、それだけのことをする価値があったと今では思う。美酒欄社時代にできた知り合いが話の種にと利用し始めると、かれらの口から好意的な噂が広まり、またたく間に登録ユーザー数は一千万人を突破した。味覚嗅覚用再生パッチの開発が進み、大量の受容器ラインを備えたモデルが販売されると同時に、ラインが少ない安価な製品が市場に出回るようになったことも売り上げを後押ししたのは間違いない。
そういうわけで、僕は世界中の菓子を食べ歩いてはその体験を切り売りして生活することが可能になった。スノッブ御用達店のデセールなら、それなりの服をまとい、叩き込まれたマナーを盛大に発揮しつつきどってイートイン。喫煙施設から非合法な手段で持ち出された合法大麻の吸い殻が落ちる裏通りで買い求めた焼き菓子であれば、饐えた空気を嗅ぎながらそれを食む。ある地を潤す川に設けられた水上市場で小舟に坐した売り手から渡された菓子は、地元住民の真似をして当地の神に感謝を宣べてから口にする。場所と味と食べる姿勢には深い繋がりがあると確信しているがゆえに、僕は食べたいものに合わせて自分自身の感覚や環境を整えることに余念がない。これを突き詰めれば突き詰めるほど、リリースする体験の評判は上がった。
もちろん、高い値段をつけられるような体験をするには手間ひまがかかる。高級店ではあるが予約を入れればありつけるハイティーよりも、会員制クラブで供されるジェラートの方が稀なものだからだ。その道に通じた者の手引きを受けて、あやしげな技術士協会の者にしか供されないというクレープシュゼットを出す店に入ったことがある。あれは、異界に迷い込んだがごときスリルに見合うだけのデセールだった。きめ細やかな生地には香ばしくて深い焼き目がつけられており、その上にたっぷりとかかった濃厚なカスタードまじりの生クリームは、酸味を主張しすぎないながらも柑橘の風味をはっきり残したオレンジソースと対立することなく組み合わさっていた。普通は使うものとされるビターオレンジの酒をあえて入れないことが奏功し、オレンジソースの芳醇さを極限までひきだしていた。店に立ち入る条件として目隠しと耳栓をさせられていた上、販売対象ユーザー数も再生回数も極端に制限されていたにも関わらず、この体験はとんでもない額で買い取られた。
もしかしたら今回の体験はあのクレープシュゼットを上回るかもしれない。そう思えるだけの情報が僕の元に飛び込んできたのは今から十二日前のことだ。約二週間後、ハノイヌーヴェル市に、偏屈だが恐ろしく腕の立つパティシエたちをかかえた移動式フランス風菓子店がたつという。
その店の存在を初めて認識したのは、今から二年前のことだ。仲の良い美酒欄社のシニア審査員がアンデス山脈はアルティプラーノの土産として、その店のキヌアクッキーをくれたのである。
食べる前からこの焼菓子が僕の味覚歴に大変革をもたらすことは予感していた。袋から漏れだす香ばしさが尋常ではなかったのだ。口に入れると、着飾らない美味しさが満ちる。菓子を褒めたたえる美辞麗句を削りとられ、僕は無心で次の一枚に手を伸ばしていた。クッキーひとつでこのありさまだ。生菓子を食べたいと熱望したが、その時にはすでに店は無くなっていた。
聞くところによれば、この店は素材の新鮮さに全てをかけ、菓子作りに傾注するために喫茶は行わないらしかった。白いちじくなら白いちじくのためにトルコのエーゲ海を臨む地区に一週間、春先の牛乳のためにユングフラウの麓で二週間、自然の気まぐれで出来た軟水の氷のためにクイーン・モード・ランドに三日、と期間限定で地球上のどこかに店を出す。そんなの、食べたいに決まっている。僕は次なる出店予定をつかむため、アンテナを張り続けた。しかし、情報を得るのが遅すぎたり開店期間中にどうしても動かせない先約があるなどして、なかなか店に赴くことができなかったのだ。だがついに、時は来た。
店のことを教えてくれたのは、クレープシュゼットの件で世話になった情報屋だ。あの情報屋は世界中の裏事情に通じている。彼の腕をよく知る僕としては、店側の情報統制力に舌を巻いた。短期でも店を出すからには店外の業者や地元住民との折衝も避けられないだろうに、よく開店直前まで話を隠し通したものだ。
移動菓子店は、旬の果実を使うことに定評がある。果樹が多い南部ではなく、あえてこの地方で出店することを選んだ理由を知りたくもあった。店舗は、先月閉店したフレンチレストランをほぼ居抜きで再利用するという。例によってイートインはない。つまり、買ったなら食べる場所が必要だ。
普段なら店に最も近いホテルが第一候補に挙がるが、幸いなことに僕は目的の店からほど近い通りに小さなビルを有していた。種類にもよるが、ケーキは摂氏二度から三度、湿度五十六パーセントほどが理想的な環境と学んだ。ゆえに多くの店ではショーケース内の温湿度をこの範囲に設定する。テーブルに並ぶ直前までよい状態を維持するため、できるだけ店に近いことが望ましい。さらに、あのビルの一室は、甘味を記録するのに最適な環境を整えている。なんて運が良いのだろう。さっそくいつもの清掃業者に連絡した後、当市最寄りの空港行きのチケットを手配した。ほんの一ヶ月前、情報屋からその部屋を長期にわたり借り受けたいと依頼され、快諾したのを忘れて。
思い返せば、いくらでも気づく機会はあった。まず、馴染みの清掃業者の態度だ。なぜ、僕が何も言わないうちから「なるほど、そろそろ必要ですかね」などと呟いていたのか。また、航空会社の担当コンシェルジュは、どうしてハイヤーのみならず「ホテルもご用意しておきましょう」と提案したのか。どちらも僕自身がかつて説明したスケジュールを把握していたからだ。それなのに僕は、前者に対しては、確かに長いあいだあの部屋をほったらかしにしていたとだけ思い、後者については、食べる部屋と泊まる部屋を分けたい僕の気持ちを汲んだ素晴らしい采配だと頷くにとどまっていた。さらに、トランジットでスキポール空港にいるとき、情報屋から連絡を受けて部屋代の振込先を聞かれた僕は、逗留するこのホテルの名前まで教えていたのだ。
浮かれていたにしても、どうして全てのヒントを見逃してしまったのだろう! 部屋の貸出期間は今月末までで、空くころにはあの店はまた次の準備期間に入ってしまう。部屋がないとなると、今のホテルで食べるのが穏当だが、このまま部屋を使うのはためらわれた。それなりの清掃を入れたい。掃除さえ行き届けば万全に近い状態になるだろう。だが、ケーキを食すことができるように部屋を調節するには一週間ほどかかり、店が閉まるのが先か、こちらの準備が整うのが先かの競争になる。ならば清掃期間を一日のみとするか。満足はいかないが、ケーキを食べられないよりはましだろう。けれども。
決断しきれないでいる僕の耳に、|古い映画音楽《Something Wonder》の一節が流れこんできた。マダム・レ=ヅゥイからの着信を知らせる曲だ。まるでタイミングをはかったかのようで、僕はしばし応答をためらった。が、そんな思春期の子どものような対応をして良い相手ではない。今の僕にとって|嬉しくない歌詞《His heart is not always wise》がしらべにのる前に僕は出た。
「あなた、こちらに来ているそうね」
相変わらず、いきなり切り込んでくる。
「ええ、マダム。事前にご連絡せず申し訳ありません。急にハノイヌーヴェルに用ができまして。落ち着いたころ、そう、来週にでもご挨拶にうかがおうと思っていたところです」
「まぁ、忙しそうで何よりだわ。だったら、今からお出でになって。きっと、ひと仕事終えたところなのでしょう? あら、夜更けの訪問に気がひけるかしら。安心なさい。ご存知の通り、私たいへんな宵っ張りなの」
品よく、有無を言わせない態度でたたみかけ、ラム酒入りケーキに仕上げの粉砂糖をたっぷりまぶしかけるような笑い声が続く。流されてはいけないと思いつつ、つい、これまでマダムから言い渡されたことのある無理難題を忘れかけた。
マダムとは大伯父が監修する宴の席で知り合った。僕が美酒欄社に入る直前のことで、関係者への紹介も兼ねてのことだったのだろう。多くの客に話しかけられ、年少者らしい無邪気な笑顔をふりまき、型どおりの挨拶を繰り返すのに飽きたころ、颯爽と現れたのがマダムだ。会にはさまざまに着飾った女性が集っていたが、アレンジされた逆さ龍国の伝統衣装をまとうマダムほど印象に残った人物はいなかった。筆跡をあえて残した手書きのペイントにアクセントとなる刺繍をほどこした大胆な柄をゆったり着こなすマダムは、ある王朝の公主の末裔だと噂されており、それを他人に納得させるだけの身のこなしと人脈と有形無形の財を持っている。若々しくありながら、老獪な気配もあわせもつ彼女は、若手芸術家などのパトロンをすることが唯一の趣味だと語り、美酒欄社を抜けた僕のことも一時大いに支援してくれた。その恩義があるため、商売が軌道にのってからも、彼女が友人や愛人のために開くティータイムの相談をたびたび受けている。それらはたいてい耳目をはばかる内容を含むため、直接対面することを期待された。先方から急な話を振ってきたということは、こたびもそういう話だろうか。だが、今の僕にマダムの依頼を受ける余裕はなかった。
「いえ、夜が明ける前にしておきたいことがありまして。この気もそぞろな状態でマダムにお目にかかるなど、僕が自分を許せそうにありません。せっかくのお話ですが……」
「何かお困りごと?」
僕は声が詰まった。
「試しに言ってみなさい。この街でと限定するなら、私がお手伝いできることがそれなりにあるはずよ」
少なめの砂糖とひとかけのオレンジの皮だけで煮たりんごジャムのように優しいマダムの言葉に、僕の意思はぐらつく。彼女の影響力が「それなり」どころではないことは身をもって知っている。かつて、借金で首が回らなくなった僕にビルを与えてかくまい、世界中から完璧に足取りを消す手立てを講じてくれたのは、何を隠そうマダムだった。
マダムは黙っている。僕の返答を促すつもりだろう。電話の向こうからかすかに陶器が擦れる音がした。きっと、いつものくせで紅茶カップの取っ手を左の薬指で撫でているのだ。その音を聞いていると、かつて彼女に頼りきりだった僕の軟弱さと、生来の情熱が二つとも頭をもたげてきた。そうだ、僕のプライドなぞどうでも良いじゃないか。最高の環境であの店のケーキを食べたい。仮にこの体験がリリースできないものだったとしても、これがたつきで無かったとしても、僕はそうしたい。
僕は事情を説明した。マダムのことだ。菓子以外のことはまるでなっていないと辛辣に指摘し、いいかげん人間かAIの秘書を雇いなさいとの助言をいただくことになるかもしれない。しかし秘書が近くにいたら、その存在が放つ体臭や機械音も僕の環境を乱し、必要とあらば調整対象にしなければならない。非常に面倒だ。
僕の予想を裏切り、マダムはこう言った。
「ゴライトリーが私のゲームに付き合ってくれるなら、ティファニーで最高のティータイムをプレゼントしてあげる。あなたがくつろげて、その天才的な味覚を十全に発揮できるよう調節しきった部屋を用意できるわ」
なんて自信にあふれた文句! 選別に選別を重ね、熟練の技でバターと卵と小麦粉をこねて焼き上げたクロワッサンをいたずらっぽく差し出す一流パティシエールさながらだ。
普通なら、僕が満足するほどの部屋を準備するのは難しい。やすやすと請け合えることではない。そうでなくてはならないというわずかなプライドが僕の心の底にひっそり残っているのに気づく。自尊心の要請に従い、無意味なあがらいとして首を振ってみた。それから、マダムの提案に膝をついた。
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零時を過ぎたとはいえ、ハノイヌーヴェルの目抜き通りはまだまだ人であふれていた。目的地である劇場はその一角に位置しているのに、松明を模して等間隔に配された外壁の灯だけをつけ、ガラスがはめ込まれた扉の向こうに見えるホールは暗い。まさか環境倫理に配慮してのことではあるまい。
恋人にすっぽかされたならまた俺に乗って行くといいぜ、と人の良い若者の声で喋りかけてくる自動シェアカーを降り、マダムに指示された通用口をくぐると、魚醤やココナッツの香りが香水と化繊の匂いに塗り替えられる。廊下は一部明るくなっており、ホールの暗さが意図的なものであることを示している。明かりに誘導されて進み、奥まったところにある階段をのぼると、案内役の制服がうやうやしく扉を開けた。
そこは小ホールの中央ボックス席だった。てっきりマダムが待ち受けていると思ったのに誰もいない。僕は開口部から周囲を見回した。客席は百ほどしかない。前のほうにぽつぽつと人が座っていて、舞台上は何条ものまばゆいライトで照らされている。そのなかを歩き回るのは、役者や歌手ではなく、軽装のひとびとだ。何やら慌ただしく作業をしている。
「すっかり遅くなってしまったわ」
「いえ、つい先ほど着いたところです。このたびは大変なご厚意をいただき、感謝のしようもございません」
マダムが入る前にぎりぎり振り向けたことへの安堵を隠し、僕は感じ良く映るであろう笑顔で出迎えた。マダムは初めて会ったときと変わらぬ年齢不詳の美しさを保っていた。薄くではあるが、僕が苦手な海狸香をつけているので、嗅覚が妙に刺激される。おかげでボックス席や劇場の椅子などからあふれる微細なにおいの混成を忘れることができた。たいてい側にいるはずの秘書の姿もない。この部屋の外に控えているのだろう。これを気づかいと捉えて礼を言えば、わざわざ口にしないでと否定されてしまう。かつてそうだったように。僕は香水が気にかかるという表情のみを残し、彼女が差し出すハンドバックを受け取って、中央の席にエスコートした。
「あなたが呼んだタクシーは私の愛車より速かったのね。私もそうすれば良かったかしら」
ご冗談を、と本気で返した。
「それで、今回の趣向はどのようなものでしょう」
「あらまぁ、焦らないで。ほら、素敵なソプラノたちの登場よ」
下手から、ドレスをまとった三人の歌姫が次々と出てきては、ボックス席に向かってお辞儀をしていく。三人とも、年頃は僕と同じか少し上のあたりだろうか。マダムは彼女たちに頷くだけで応えた。
「本番直前の通し稽古ですか?」
「違うわ。それはもう終わったの。でも、私は色々あって観に行けなくて。だから本番の衣装で、私が好きな場面だけ演じてもらうようお願いしたのよ。こんなわがままを聞いてもらえるなんて、出資はしておくものね」
「それはそれは。本番さながらの歌声が期待できますね」
スタンディングオベーションでむかえられる最終日が霞むような出来栄えだって期待してよいかもしれない。僕は自分がオペラに詳しくないことを残念に思った。マダムがこの歌姫たちに目をかけているのは明らかだ。それだけの実力と将来性の持ち主なのだろう。しかし僕は、もったいなく感じるだけで、それ以上の知識も音楽への感受性も有していない。僕の能力はほぼ甘いものを味わうことに限定されているし、今後も別の分野を開発する余地はない。そんな僕に何をさせようと言うのだろう。
いいかげん焦れてきたのにマダムは気づいたらしい。
「千穐楽後に出演者と関係者をねぎらうパーティーをひらくの。その場に、歌姫それぞれに合うメインのデザートを用意したいのよ。料理の方は逆に合わせてあげるから、余計なことは考えなくて良くてよ。あなたを見込んでの依頼なの。ティータイムはその報酬と思って」
マダムにしてはずいぶんまともな話だ。
「菓子はこちら風に? それと曲想に合わせてイタリア風なりドイツ風を意識した方がよろしいでしょうか」
「基本はあなたの得意分野で構わないわ」
つまり、おおむねフランス菓子の範囲内で考案すれば良く、演目が蝶々夫人だった場合に和菓子《wagashi》を選ぶようなことをしても否やはないということのようだ。僕がそう合点したところで、ラフな格好のピアニストが椅子につき、舞台の明かりが一度落とされた。次にスポットライトが当たった時には、深みのある赤ワイン色のドレスを揺らしながら歌い手が入ってくるところだった。
歌い手はピアノのふちにむっちりとした片手をついた。一瞬の静寂ののち、インパクトのある声が響きわたる。赤ワイン色に見えたドレスは、ライトの下では艶のあるブラックチェリー色に近くなる。スカートは全体に大きめのひだをつまみながら硬くよせてあるのだが、生地の素材も手伝って、ひだの影は暗くなり、ほとんど黒蜜色に見えた。前身頃のデコルテ付近では、研きこまれた銀製のフォークを想起させる銀の粒のきらめきが三角州をつくる。黒いボレロがかけられた肩が大仰に広がったかと思うとくるりと回転した。スカート部の背中には、たわわに実をつけたベリー類の薮のごとくきらめく暗い貴石が並べられている。ずいぶん値の張る衣装なのが門外漢にも伝わった。
この歌姫は安定した声量を持つようで、いくら舞台上を動いても、僕の耳に届く音量にほとんど変化はない。豪奢な衣装に負けず劣らずの技術だった。思わず身を乗り出したところで、たまたまボックス席に対するアピールが重なった。とたん、二種類の発酵バターと水分のない果実の香りが届く。その組み合わせに僕は覚えがあった。
「もしかして、このサングリアのような方は、僕の顧客になったことがありますか」
「あたり。彼女は多芸多才かつ多趣味でね、ルージュの大ファンでもあるの。新作がリリースされるといち早く手に入れたくてそわそわし通し。練習に身が入らないことがあるくらいよ」
だから先週発表した回で取り上げたのと同じ構成の香りがしたのだ。僕は嬉しくなった。
「そんなに気に入っていただいているなんて光栄です。後ほど直接お礼を申し上げても?」
「やめておきなさい。あなたは恨まれているから」
眉を寄せた僕にマダムが微笑む。
「あの子は、甘いものを食べ過ぎると喉に良くないとトレーナーから言われているの。それなのに、あなたのリリースするものはダウンロードしたいし、ダウンロードしたらどうしても何かしらケーキを食べたくて止められないんですって。今夜も必死にコントロールして喉を守ってきたのよ。だから、あなたに会ったら恨みつらみをぶつけてしまいそうと言っていたわ」
なのに、私がかつてルージュのパトロンだったと知るや、あなたの話を聞きたがるの。可愛らしいじゃない?
僕はマダムの惚気をこころ半ばで聞き流し、生地の色が変わるほどスパイスの効いたケーキ生地を浅いスクエア型に流し込むことを考えていた。これをオーブンに入れ、高温で焼成した後クーラーに乗せるのだ。よく切れるナイフで三角に切り分けたら、赤ワインのサングリアをデカンタからグラスに注ごう。
僕が組み合わせを思い浮かべたあたりで、最後のひと節が終った。マダムにつられ、僕も熱い拍手をおくる。サングリアの君はマダムの隣にいるのが僕だということに気づき、顔をこちらに向けて目礼をしてくる。こうしていると、目鼻立ちがはっきりした、迫力のある美人であることがよくわかる。口が大きそうなのが羨ましい。きっと、三ピース程度のタルトならまとめて咀嚼し、大胆に、しかし優雅に飲み込んでみせるだろう。
「彼女みたいなタイプが好みだったの?」
からかうようなマダムの言葉がなければ、この顧客に小ぶりの花束でも投げたい気持ちだった。どこかでこの彼女に感謝を述べる機会はあるだろうか。
その考えがさらに先へと及ぼうとしたところで、ミントグリーンの歌姫がゆったりと歩いて来た。下手に退がるサングリアの君がエールを送るように舞台に手を振り、ふたりめがゆるりと応える。
ミントグリーンをまとっているのは、いかにもキン族らしい顔立ちの女性だった。目鼻などは感じ良く配置されているが、これといった特徴がない。彼女は緊張というものを知らないようだった。かといって自信に満ちた雰囲気を出しているわけでもなく、自宅からそのまま舞台にあがったかのように自然体だ。ピアニストが次の演目の楽譜を用意している間、楽器の側面を背に、すっきりと力まずに立つ。特定の人物に視線をあわせるでもなく、田園風景を見るのと同じ瞳で客席をゆったり眺めていた。僕は初めて蓮霧の実を食べたときの感覚を思い出す。甘味を押し出さない爽やかな口当たり。あれはこのあたりでも栽培されているはずだ。
ドレスの上の方はミントグリーンの地に素晴らしい果実を生み出しそうな黄土色の糸で蔓草模様に刺繍してある。スカート部には刺繍がなく、代わりにきらめく小さな石を散りばめていた。それらは先ほどのダークチェリー色のドレスのような輝きを有していないが、歩くたび、歌うたびに光を乳白色や檸檬色に反射するのだ。
そう、彼女はいつの間にか歌い始めていた。いつから声を出していたのだろう。こちらが意識しないうちに歌は始まっており、僕はふと気づけば蕃茘枝のアイスクリームのようにまろみのある歌声に包まれていた。なんの憂いもない収穫のさなかに人びとが思わず歌いだしたら、きっとこんな声が聞こえるだろう。
「あの子はお気に召したかしら?」
マダムは舞台から目を離さずに尋ねてきた。
「先のサングリアの方は、僕のような素人でも力量がわかりました。それに比べると、良い声なことはわかりますが、一見、特徴がないように聞こえますね」
マダムがこちらをちらと見やったのには気づいていたが、僕はあえて舞台に顔を向けたままにした。
「ですが、彼女が歌うことを楽しんでいるのがはっきりと伝わります。彼女の声は、収穫期の山あいの村から聞こえる歌に等しいですね。この舞台に立てたこと、この時を迎えられたことの喜びに満ちているようです」
「あの子が一番喜ぶ答えを引き当てたわね」
果たしてそうだろうか。僕は声楽に詳しくないなりに考えたことを伝えただけで、歌の評価そのものに自信はない。微妙な居心地の悪さを払拭したくて、他に気づいたことについて尋ねた。
「ときにマダム、彼女は体調が思わしくないのでは? 私の目にはほとんど化粧をしていないように見えますが、実際にはかなり厚く化粧をされているのがにおいでわかります。気にかかるのは、その下に消毒用のアルコール臭が微かにまじっていることです。健康そうな見た目とそぐわないので、勘違いかもしれませんが、もしも体調が悪いのに無理をしておられるなら、どうか休むよう彼女におっしゃって下さい」
マダムが開かせた会にもかかわらず、マダムはよく僕に話しかけてくるし、どこか集中しきれていない。この不一致に流石の僕も気づいていた。マダムがゲネプロに行けなかったという話は嘘ではないだろうが、この会はおそらく、僕に仕事を与えるためにも開かれているのだ。僕の言葉にマダムはもう一度同じ台詞を繰り返した。
「あの子が一番喜ぶ言葉だわ、それこそ」
「どういう意味でしょう」
「あの子は自分の肉体を訓練し、自然に見える化粧を隈なくほどこしてあの舞台に立っているの。ねえ、あの声も、あの体も何の手術もしてないだなんて思えないでしょう」
飲み込みの悪い僕に、マダムは素早く言い換えた。
「彼は去勢済みの歌い手ではないの。女性として非の打ちどころもない肉体を欲しているわけでも、女性としての自意識だけを持っているわけでもない。男性のカウンターテナーやソプラニスタではない、女性らしいソプラノ歌手としてドレスを着て歌いたいだけ。そのために、自分にとって必要な量の女性ホルモンを打っている」
「では、彼女とお呼びするのは本意に反していましたね。彼とするべきでした」
「私が呼ぶのとあなたが呼ぶのとでは違うのかもしれないから、私が答えてあげることはできないわ。いつか本人からお聞きなさい」
ならば今はなんと呼ぼう。僕は優しい歌声に耳を傾け、幾たび目かの収穫祭を味わった。何を拾い集めているのか。黄色の花が咲き、大ぶりの実をつけ、熟し、殻が割れる。ピスタチオだ。
よく見ると、ピスタチオの歌姫は少しえらが張っていた。それを化粧でうまく目立たないようにしているのだ。僕はこの人のことを、特徴がないなどと評した。そう思うよう仕向けられているだけとも知らずに。自分をどう見せたいのか熟知しているこの人を、隙のないピスタチオのムースで表現してみたい。内側には果実を。ベリーでは色がきついから、二、三種のパパイヤとパインをざっくりと干してから混ぜようか。口に入れた瞬間、はっとする組み合わせが良い。食感に変化をもたせたいから、ひまわりの種を砕いて入れようか。フルーティーな味わいのエスプレッソでその効果を補筆したい。
ピアノの響きに合わせ、ピスタチオの君はゆったりと歌い終えた。僕の身の内にひたひたと満ちる余韻を邪魔しないように拍手をおくる。まだ拍手したりないと思うが、ピスタチオの君は後ろ髪を引かれる様子も無くあっさりと下がってしまう。更に、ピアニストまでも蓋をそっと閉じ、ライトの下から出て行ってしまった。すぐに次なる演奏者が出てくるものと思いきや、しばし舞台は無人のままだった。明かりも落とされない。
僕はピスタチオのケーキについてもう少し考えを練り上げたかった。だが、何かがそれを邪魔していた。このあとに控えるものが、舞台に注目せよと語りかけてくる。菓子以外に、こんな風に主張する存在を僕は知らないが、ここにいるのは歌い手たちだけであり、菓子はないはずだった。一体何が僕の気をひくのだろう。
と、最後の歌姫がひとりで厳かに舞台にあがってきた。その瞬間、彼女の存在感だけで舞台は舞台として切り出された。伴奏もなく、彼女は深く息を吸った。
現代イタリア語で歌われるのは、ある女性の半生だった。どこか未来の地点から、彼女自身が己の来し方を語る体裁をとるようだ。まず高らかに歌われるのは、ある一人の女性が詩人になる夢を追いかけて都会に出る場面だ。自分の詩才とその成功を疑わない彼女の浮き立つ気持ちが華やかな曲調で説明される。節が変わり、純朴な彼女が都会で編集者に邪険に扱われるさまが静かに語られ、彼女と恋人の運命的な出会い、自分の才への自覚と失望、ささやかな言い争い、愛の深まりが順にしらべとなる。そのたびに歌姫は、熟練職人が単純なデコレーションをしているだけという体で、表情も技法もやすやすと変えて行く。ついに恋人と思いが通じた場面なぞ、まさに白眉であった。一瞬にして何オクターブもの声の階段を巧みに駆け上がったのだ。
技術の多様さを表すように、この歌姫のドレスも多彩だった。緑がかった金色のトップスには、Y字にカットされた胸元と腰のラインにそって大きめのストーンが並んでいる。スカート部は、ベリーピンク、レモンイエロー、ミントグリーンのフリルがつなぎ合わされ、地に縫い込まれている。さらに上から、それらのフリルよりも幅の狭い飴色のレースがさまざまに重なり、複雑な層をなしていた。それが色白の彼女によく似合っているのだ。僕は彼女の歌い方が変化するたび、それぞれ違うケーキを思い浮かべている自分に気づいた。小さな果実を乗せたクリーム・ブリュレ。またはダラット高原産の大ぶりのいちごを贅沢に使ったフレジェ、はたまた、中にカスタードとアーモンドのクリームを敷いてラズベリーを埋め込んだサヴァラン。いっそ小さなケーキをいくつも作って提供したい。その道を選んでも、どれも軽いケーキにはならない。僕は彼女のひととなりを知らないが、ひとつ一つに重みのあるものにしなければならないということだけは決まっていた。彼女は、それほど何か大きなものを背負っている。
このまま菓子盛り合わせで落ち着くかと思っていたところで、歌姫は手を伸ばしてボックス席へのアピールを始め、僕の予定が崩れ去った。
歌は、恋人の愛を失った主人公が、ふたりの思い出がつまった林をそぞろ歩き、全身全霊で思いの丈を詩にしている場面にさしかかっていた。わたしは非才、これだけの才能しかない。それでも詩を作る。この詩であなたに伝えたいことがあるから。あなたが去ってわたしの悲しみはこの地を覆う。ふたりの愛を語り合った林に哀しみが集い、木々の枝も鳥たちも泣いている。
そう語る主人公自身の声は涙に震えることがない。泣き声で詩作を途切らせないためだ。わたしはあなたに言葉を伝えるため、決して泣かぬと決めたのだ。歌声は安定しているが、実はこころから悲しんでいることがひしひしと伝わる。感情をうまく解放できない苦しさも表現される。あなたを愛していた、愛している、この気持ちを風に乗せてあなたのところまで。歌姫は、マダムと僕に対し両腕を高く差しのべた。独特の香りが僕の鼻をくすぐった。
とたん、僕の中で、あのときの菓子と、苦味を強調したホットチョコレートがはっきりと形をとる。緑豆粉と米粉をココナッツミルクと砂糖で練って作られた蒸菓子は、バナナの葉につつまれていた。チョコレートは前世紀に流行った繊細な切子をほどこした耐熱グラスにそそがれ、ほそい湯気をあげていた。センサーを用いないたくさんの間接照明、茣蓙を編み込んだクッション、石鹸のにおいをまとう清潔で柔らかな衣類、そして僕の鼻をひきつけてやまないあの香り。
あの香りと同じににおいがする。歌姫の左の親指から、いや、腕全体からか。僕はその記憶に揺さぶられる。強烈な記憶だ。間違いない。彼女から漂っているのは、あの別室の香りだ。普段なら気づかなかったかもしれない。その香りは、彼女のつける麝香まじりの香水や体臭や衣服のにおいの中にしっかりと隠されていた。それでも分かってしまったのは、僕にとって、その香りにまつわる記憶が未だ鮮明だったからだ。
つまり、これは僕が聴いて良い歌ではなかったのだ。この歌姫にとって、観客はただ一人だけだ。
マダムは静かに舞台を見ている。マダムと僕の間には肘掛けがある。あの時は、こんな壁はなかった。マダムはもっと近くにおり、僕は彼女が直前に食べたであろう龍眼の味わいさえ手に取るように感じ取っていた。記憶が今の感覚の邪魔をする。僕はそれをうまく振り払えず、下手に逆っても良いアイデアに恵まれないだろうと嘆息した。ならば素直になろう。チョコレートと緑豆粉を主とした生地にナッツのクリームを塗り、たっぷりチョコレートを削りかけた黒い森のケーキ。レモンティーにラベンダーをちぎり入れたお茶をあわせるのは、この歌姫への僕なりの応援歌だ。
「落ち着いた?」
歌が終わるころ、僕の頰には涙がつたっていた。僕に泣かれてもあの歌姫には迷惑なだけと分かっていながら止められなかった。マダムが差し出すハンカチを断って手持ちのそれで顔を強くぬぐい、最終構想をまとめあげた。
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マダムは僕を外に連れ出した。秘書に先導されて従業員用出口に赴く。待ち構えていたのは|骨董品のようなフランス車。おそろしいことにエンジンも含めてほぼオリジナルな上、マダムはこれをちょっとした買い物の足にも利用している。助手席に座りたかったが、運転手と秘書に無言で止められ、後部座席でマダムと隣同士になってしまった。仕方なく、奇妙になりすぎないよう距離を置く。
「ケーキを見せてちょうだい」
マダムは外部からのアクセスを一時的に許可した小智能巻軸を僕に渡した。巻物を広げ、三人それぞれのケーキと飲み物の組み合わせを自分の記録領域から移すと、たちまち色鉛筆のタッチで紙面上に描き出された。三つのイメージを送ったことによりページ数が自動で付されるのは普通のことだが、内容にあわせて紙質が画用紙ふうに変化しているのは、いかにも高級モデルらしい目くばせだ。サングリアの君のための一枚目とピスタチオの君の二枚目を見て、今回は安易にドレスに引きずられたようね、とマダムは笑う。だが、最後の一枚へと移動したところで、その笑みがわずかに変化した。
「彼女は茶色のドレスではないし、歌詞にもそれらしいエピソードは無かったように思うのだけれど。どこからチョコレートとラベンダーを引っ張ってきたのかしら」
「申し訳ないのですが、これだけは僕の記憶に大いに影響を受けています」分からないという表情のマダムに、僕は付け加えた。「あの別室でチョコレートとお手製の蒸菓子をいただいた日の記憶です」
借金取りたちから匿ってもらっているさなか、僕は急にマダムに呼び出されたのだ。不用心ではと思ったが、他ならぬマダムのお召しに逆らえるはずもない。いつもより緊張しつつ彼女の自宅のひとつにうかがうと、執事に書斎へと案内された。書斎まで通されたのは初めてのことだった。そこは基本的に他人が入ることを考えていないつくりらしく、書き物机と椅子のほかに客用のソファはなく、居心地の良さそうなカウチとサイドテーブルがあるきりだった。いつも取り巻きに囲まれているマダムはこんな部屋で密談をするのかと考えた記憶がある。サイドテーブルの上にはチョコレートドリンクが用意してあり、当地の菓子がそえてあった。
この部屋に来る人たちにはいつもこれを出すのよ。でも作り手は私だから、あなたの銀の舌に合う自信はないわね。そんな遠回しの要請に従い、僕は常時起動している諸官能の記録を切った。だが、その言は謙遜もいいところだった。一口食べた僕は素材や作り方を意気込んで尋ね、マダムは丁寧に答えた。話はマダムが習い覚えたさまざまな菓子や料理のことにおよび、いつしか二人の距離が近くなりすぎていることに気づいた。マダムの手も肩も、僕が身じろぎをすれば触れられる距離にあった。マダムはそれ以上近づかなかった。頭がぼんやりする。人をむりやり惑溺させるような何かの香りが部屋に忍び込んでいる。僕は顔を動かさずに瞳をさまよわせた。この部屋には廊下につながる扉とは別の一室への入口があり、そこから不思議なにおいがしているのだ。
机の天板は不均一ながらも美しい木目を見せていた。それを容赦なく横切って、ほっそりと美しいマダムの指先が置かれていた。ミネラルを豊富に含んだ黍糖のごとく、美しい艶と色。飾り付けの参考にしたい、と考えることで僕は意識を保とうとした。今この手を取ったら、あの香りの源がある部屋に入ることになるのだろう。あちらには寝台があり、マダムから情を受けることになるのがわかっていた。今以上に支援を得ることにもなるだろう。甘美な誘惑だった。だが、それは同時に僕を毀損することだという予感があった。瑕つくのはプライドではなく、もっと重要なものだったが、うまく言葉にできない。
どう耐え抜いたものか、記録を取らなかった僕に明瞭な記憶はない。とにかく僕は彼女の手を取らなかった。チョコレートを飲みほし、食べ残した菓子は貰って帰ることにした。マダムはそんな僕を微笑んで見ていた。そうなることを知っていたかのように。それより後、僕は書斎に入ることがなく、あの菓子やホットチョコレートを出されたこともない。
「チョコレートの歌姫はきっとあなたの書斎の次の間に行ったことがある方なのでしょう。それで、あの特徴的な香りが体に残っていた。彼女のボックス席へのアピールは、あなたへの訴えかけとともに、僕にこの事実を見せつけて牽制するものでもあったのでしょう。そう感じてチョコレートを主体としたのです。事実とは異なったとしても、僕にはそうとしか感じられなかったのです」
マダムや歌姫の機嫌を損ねそうな部分を飛ばして説明したものの、ところどころでマダムの目元がすこし強ばるのに気づいていた。かつてのやりとりを蒸し返して不興を買うのは承知していたが、最終的にマダムは表情を和らげ、よくそんなことを覚えていたわねとつぶやいた。許す、ということなのだろう。
「ありがとう、仕事は終わりよ。約束通り、報酬は期待しておいて」
「いえ、まだゲームが残っています」
僕は勝負どころを脱していなかった。始めの言葉を信じるなら、これは仕事の依頼だけではなく、ゲームでもあるはずだ。すでに依頼の対価として部屋の提供を受けることが決まっている。これ以上会話を続け、下手に相手の機嫌を損ねれば全てが台無しになるのはわかっていた。それでも、チョコレートの歌姫のことが頭にちらつき、僕の口を駆動させる。
「ただ、これがどのようなゲームか、僕にはわからないのです」
「あらまあ何のことかしら?」
どうやら、ゲームの目的とルールを探るのも、またゲームのうちらしい。犯罪者の密偵や五等勲爵士や警視ではない僕は、情報収集もできなければ人の言動をつなぎ合わせて読み解くこともできない。だから、勝手な宣言をするより他に手がなかった。
「でしたら、僕はこれをあなたの一番のお気に入りを探すゲームとして見なさせていただきます。もしそうだとしても、僕の中で答えがまだ出ていません。整理がてらいくつかご質問してもよろしいでしょうか」
マダムは眦をたわませて承諾した。
「サングリアの歌姫は、実は僕と同じくケーキなどの食の官能を記録して売り出すことを目指しておられるのではないでしょうか。いくら僕のリリースするもののお客様とはいえ、あのような香りをさせるほどのめり込むのは生半なことではありません。彼女は確かに歌の才覚が豊かですが、歌の世界以外で頂点を目指すこともできる方なのでしょう。どこかで彼女から歌以外の将来のありかたをきいたあなたは、それを応援するためにあえて僕を引きずり出した。今もこっそり僕の様子を録画などして後で彼女に見せる気ではありませんか。そう考えれば、サングリアの姫君が僕に恨みつらみを言う理由がもう一つできます。自分がやりたいことを先にされていたという悔しさではないでしょうか」
「ずいぶんうがった見方ね。でも、そう、私が提供する部屋はもとは彼女のものということだけ教えてあげるわ」
「それはますますお礼を言わねばなりませんね」
僕はマダムの顔を見ながら言葉を続ける。
「二人目の、ピスタチオの方についてもひとつ。あの方はいつもあのように自然体なのですか。歌い手は、全身を楽器にする意識を持っているものと僕は思っていましたが、そんな様子が見えないのです。力を抜いて歌うよう教えたのはマダムでしょうか」
「違うわ。あの子は初めて会った時からずっとそうなの。化粧も衣装も、自分の手で選んでいるから、私にできるのは専用の口座を用意してあげることだけだわ。それも滅多に使ってくれないの、ひどいと思わない?」
「僕ならすぐに使い果たしてしまいそうだ」
「だから、あなたに口座なんて作ってあげないの」
それは残念。
「これでようやく僕なりの推理ができました。チョコレートの君はあの部屋に立ち入らせるほどなのだから一番のお気に入りだと思っていたのですが、あなたの気持ちはすでにサングリアとピスタチオの方に向かっている。寵愛を失うことを恐れたチョコレートの君があなたに必死に訴えかけていました。あなたは好きなものに援助し終えたと感じると、次に援助したくなる相手を探しにかかるくせがある。だから今一番のお気に入りは、思うような援助させてくれないピスタチオの方でしょう。なにより、あの方のことを話すあなたの声はとても甘やかだ」
いかがでしょうか、と問う僕に、マダムは正解とも不正解とも返さなかった。ただ、さらさらとメモ帳に何やら書いてよこした。
「それとね、来年、あなたがピスタチオと呼ぶあの子の歌劇が開かれるの。今度は稽古に呼んであげるから、それに合わせたケーキの提案をしてちょうだい」
了解を伝える前に、端末の画面がポップし、マダムからの手付金が入ったことを知らせてきた。
「さ、ホテルまで送ってあげるわ」
車は動き出した。車内は静かだったが、僕の口は落ち着かない。ゲームの手がかりとしてマダムの表情を観察していて気づいたことがある。援助の対象から外れようとしているチョコレートの君について僕が語るとき、マダムは眼に甘くない氷菓のようなものを走らせていたのだ。曖昧な輪郭のまま流れる街並みを背景にマダムのするどい美貌が浮かぶ。僕は祈るような気持ちで話しかけた。
「できることであれば、チョコレートの君の援助を終えたとしても、彼女の切なる気持ちだけは切り捨てないでいただきたいのです。あの歌だけでも、彼女の心はじゅうぶんお分かりでしょう。先ほど、なぜ深い愛情を意味する花を茶に入れたのかとお尋ねになりましたね。あれは僕が感じた、彼女のあなたへの気持ちを表現したものです」
マダムは小首をかしげ、何も聞こえなかったかのような表情を崩さない。応えらしき吐息も漏らさない。こうなったマダムの気を変えるのは難しい。
僕は言葉を重ねることを諦め、自分に近い側の車窓から外を眺めた。朝食用の米麺や粥や饅頭の屋台を乗せ、自転車もバイクも走って行く。すでに人が並んでいる果実店ではなめらかな手つきで文旦や波羅蜜を切りさばいている。こんな光景を見るだけでも、僕はそれぞれの匂いをありありと想起できるが、実際には、車が外の匂いを完全に締め出していた。
一秒ごとに町の輪郭は確かさを増す。やがて、ブルーベリーと桃のソースを下端に染み込ませたような薄雲がたなびきだした。夜が終わりを告げている。
forcedpause
それは、どこかにある建物の、どれかの一室である。換気扇が回る音がする。窓はなく、白熱灯がこうこうとついている。外気温は摂氏二十七度ほどあるが、なぜかここだけはうすら寒かった。床は一面のコンクリ敷きで、排水溝に向け傾斜がかかっていた。嗅覚の優れた人物なら、酸素系漂白剤のにおいがすると指摘するかもしれない。壁には整然と拘束具や拷問具が並んでいる。作り付けの棚のなかの薬も、ラベルを表に向けてきっちり等間隔で置かれていた。
部屋の中央に、ひとりの女性が椅子に座った状態で手足を縛られ、うつむきながら言葉にならない言葉で呻いている。その前に男が一人立っている。男はいくつもの顔をもつ。優秀な情報屋であり、いかがわしい界隈で活躍する探偵であり、拷問師でもあった。つい先ほどまで、彼女の声はもっとはっきり聞こえたのだが、少し注射をしただけでこのありさまだった。やはり、一般人はそんなものだよな、と男は思う。
一ヶ月ほど前、男はマダム・レ=ヅゥイから、彼女の所有物の一部を取り戻すようにとの依頼を受けた。不届者がマダムが所有する香木を削り取ってしまったのだ。男はすぐに香木を持っていたという盗人の存在を突きとめたが、その盗人は国外で死亡していた。盗人の遺体から香木のかけらを納めた匂袋が出てきたため、事件は解決したかと思われたが、男が確認用に提出したそれを手に取るなり、マダムは偽物だと看破し投げ捨てた。捜査は一からやり直しだ。香木に触れる機会のある人間は多くない。事件前の状況から、男は候補を三人までしぼりこんだ。みな、マダムをパトロンとするソプラノ歌手だ。さらに一人一人のアリバイを確認していき、最終的に一人の女性が容疑者にあがった。
女性は鼻からだらだらと血を流している。目の焦点は合わない。唇は開きっぱなしで、よだれが白い顎をつたって膝に落ちた。ムッシュ・ド・ルージュはこいつをチョコレートだとかなんとか呼んでいたなと男は思う。男はルージュのことを知っている。情報屋として何度かやりとりをしたこともあったからだ。
男が告げた事実をマダムは受け止めきれなかった。そこでマダムはルージュにゲームを仕掛ける形で、別の証拠が出ないかと期待した。マダムの知らない盗人が外から入り込んだという証拠が。その期待は裏切られた。ルージュは、この女性が香木を削った犯人であることを、それとは知らずに指摘したのだ。男は裏を取るため、ルージュの記録領域を傍受していたから、そこらの警察犬よりするどい嗅覚が信頼に値することを知っていた。男はマダムにもルージュのそれを確認するか問うたが、マダムは首をふった。
「私が聴いた言葉でじゅうぶんよ」
そこで、男は真夜中の公演が終わったその日のうちに女性の自室に侵入し、ここにつれてきた。香木の存在を指摘された女性は真っ青になりながらも逃げ出す道を考えたが、どうあがいても相手に敵わないと気づくと、舞台衣装の袖の中に隠していた香木の破片を差し出して自供し、許しを乞うた。どうかマダムにお目通りを。直接お詫びを申しげたい。焦りからくる出来心だった。こんなことをした私を叱るためで構わないから、もう一度マダムがこちらを見てくださらないかと期待してしまった。
チョコレートの君と呼ばれた女性の言葉を男は全て聞き流す。何を言われても、マダムが彼女に会うことは二度とない。マダムは気分を害していた。チョコレートの君が別の人物を犯人に仕立て上げたことも要因だが、何より、香木を削られたことを厭っているのだ。
あの香木がマダムにとっていかに大切なものか、詳しいことを男は知らない。おそらく、現にこの世に生きる人間は誰も知らないだろう。今は昔、山の仙女と火の男神から生まれた子らが紅い河の流れる国のすみずみに散って間もないころの物語らしい。時の王朝の公尊女と才ある者にとりつく魔物が結んだ友愛と盟約の物語であるらしい。情報屋の男はチョコレートの女性を少しだけ哀れに思う。長くこの地に暮らす人間ならざる者たちのなかで、あのマダムは一度立てた誓いを絶対に破らない存在として知られている。ゆえに、この女性の懇願は決して聞き入れられない。ルージュがいくら擁護しようと、こればかりはどうしようもない。
かくして真の盗人は闇に葬られ、香木のかけらはあるべき場所に戻された。やがて、あらゆるところから、ごく自然に、チョコレートの君の痕跡は消え失せるだろう。
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待ちに待った開店当日、僕は期間限定の店舗に入り、ショーケースにある品々をごっそりと買いこんだ。むろん、焼き菓子もだ。店から出るなり、僕に気づいた誰かの追跡が始まった。僕は素知らぬ顔でマダムの推奨ルートで指定の場所へ向かう。そこは店から歩いていける距離にある立派な構えの宝石店だった。さすがに誰もついてこない。店に入るやいなや、店員が近寄る。
「おまちしておりました、ルージュ様。マダムより、最高のティータイムをと承ってございます」お嬢様もあなた様のお越しを楽しみにしておられました、と言うので、ここがサングリアの歌姫の実家が経営する店だと知った。
奥の商談用個室のひとつに案内されると、そこは約束された通りの環境だった。空調は僕が期待する温湿度と一度も違わないだろう。しつらえは豪奢すぎず、感覚を嫌なふうに刺激するものは一切ない。机や椅子の高さも僕の体格に合わせてあつらえたようにぴったりだ。お気に入りのメーカーの純度の高いシルバー類はもちろん、食器類も取りそろえてある。二つ星ホテルに勤務していたという給仕は空間に埋め込まれたからのように馴染んでいて、声をかけられるまで僕はその存在に気づかなかった。お好きなコーヒーでも紅茶でもなんでもお申し付けくださいと宣うので、試しに軽くて繊細な茶葉でと依頼すると完璧なサーブをしてくれる。部屋の隅から短い廊下がのび、そこに|nah ve sinhもついていて、僕が望む用具と洗剤での掃除が行き届いていた。全てを味わい終わるまで、この部屋から一歩も出なくて良いというわけだ。
些事に気を使うことなく、僕はケーキをたっぷり堪能した。血糖値はぐんぐんと上がり、ここちよい睡魔がすぐそこまで迫っているのを感じた。一瞬、あの歌姫たちが今どうしているか考えかけるも、それはまともな形にならなかった。サングリア、ピスタチオ、チョコレート。そしてココナッツミルク。甘くて重い、とろけるような夢がやってきた。
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