8・アリエルについて(※ロイアス視点)
「ロイアス様、今日くらいはゆっくりお休みを取られてはいかがですか?」
カイルが紅茶を入れながら俺に休暇を促してくる。
「いや、そうもいかないだろう。結婚したからといえ、仕事は休めぬ。急いで事務作業を終わらせる。午後からは訓練所に行く予定だからな」
「その割には、全く進んでいないようですが」
カイルが呆れながら机に山積みになった書類に視線を落とした。俺は返す言葉もなく、書類の上に突っ伏した。
仕事が手に付かない!こんな事は初めての事だ。頭の中からアリエル・アルクレスタ伯爵令嬢…いや、今や我が妻、アリエルが頭から離れてくれないのだ。
今朝、隣で目覚めたアリエルは、開口一番、こう言った。
「初夜を無事に終えたわたくし達の仲の良さを証明するためにも、お互いの呼び方を変えましょう!今からわたくしは、侯爵様の事を、ロイアスと呼びますから、わたくしの事はアリエルとお呼び下さい」
急かすようにアリエルから言われて、名前を呼ぶも、途中で口ごもってしまった。
「ア、アリエ…」
言えなかった。恥ずかしすぎる。
こんなことをするくらいなら、戦場で剣を振り回している方がマシだ。
「侯爵様、しっかりして下さい。こんな調子では、わたくし達が白い結婚だとバレてしまいますわ」
真っ直ぐな目で俺を見つめてくるアリエル。
少女のように愛らしい顔立ちをしながら、時折見せる凛とした表情が美しい。
何不自由なく守られてきた伯爵令嬢ではない。
一度、絶望を味わったゆえの強さを身に付けているからだろう。まさか…自分がこんな思いをするとは思わなかったが。
アリエルは…魅力的な女性だ。
戦しか取り柄のない俺に不釣り合いなのは、誰に言われずとも分かっている。
名前を呼ぶだけで、心臓が騒ぎ出すようだ。
俺は咳払いをして、己を鼓舞するかのごとく、言った。
「アリエル…」
アリエルが少しばかり照れたように、ニッコリと微笑んだ。
「そう、その調子ですわ。よくできました。ロイアス」
女神か…俺は女神を見ているのか?
深く輝くエメラルドグリーンの瞳。
ふんわりと揺れる長い金色の髪。
全てが、神々しく、美しい。
そして、柔らかく、心地よいのだ。
女性というものは、粗野で横暴でワガママな生き物だと思っていたのだが…アリエルはまるで俺が知っている女性とは違う。
ふわふわと青空に浮かびながらも、きちんと行き先を知っている雲のようだ。強い風にも流されず、しっかりと目的地を目指す強い雲だ。
たった一晩共に過ごしただけで、これほど印象が変わるとは思わなかった。
正直、誰でも良かったのだ。
手当たり次第に見合いを申し込んでみたが、名のある貴族令嬢からは断られ続けた。
悪評取り巻く俺と結婚したい変わり者などいない。それでも、関心を寄せてくれた数人の令嬢には正直に「白い結婚」となることを告げた。
当然だが、キッパリと断られた。
最後にカイルが差し出してきた釣書が、アリエルだった。
「没落してはいますが、爵位は返上しておらず、伯爵令嬢です。かなり困窮しているようですので、言い方は良くないですが、大金を積めばよいお返事をもらえるかと」
カイルが打算に満ちた笑みを浮かべながら耳元でささやいた。感情よりも金でまとまる方が話が早い。
「よし。金はいくらかかっても構わん。厚待遇で迎えると伯爵家に伝えろ」
俺はカイルにそう告げた。
そうして、やってきたのが、アリエルだった。
ハエのように付きまとい俺を罵倒してくる女…イザベラ…ああ、思い出しただけで悪寒がする。
心底苦手な女、イザベラの厄介払いに使うためのお飾り妻だったはずなのだが。
妻が魅力的過ぎて困る。
こんなことを思う世の中の夫は、おそらく俺ぐらいだろう。
昨夜、ベッドに寝ながら、赤いバラで二人の間に線を引かれて、ショックだった。それを上回るショックだったのが、俺がショックを受けたという事実だった。
元々、白い結婚なのだから、線引きされた所で痛くも痒くもないはずだが。俺は確かに自分の胸がズキンと痛むのを聞いた。
「緊張して眠れるか心配ですわ」とか何とか言っていたクセに、三秒で眠りについたアリエル。
男として全く意識されていない。いや、「白い結婚」だからと油断しているのか。
その割には、やけに刺激的な下着を用意していた。真っ赤な…透けた…クソッ!ダメだ!
思い出すと恥ずかしくて死ねそうだ。赤い透けた下着には剣と同じレベルの殺傷能力があるようだ。
「さっきから、表情が忙しいですね~奥様の事でも考えているのですか?」
顔を上げると、カイルがニヤニヤしながら俺を見下ろしていた。そういえば、コイツがまだ部屋にいることをすっかり忘れていた。
一部始終を見られていたのか。主人としての威厳も何もあったもんじゃない。
「断じて違う。俺が考えるのは常に戦の事だけだ」
我ながら苦しい言い訳だ。顔を赤らめながら戦の事など誰が考えるか。
「いやいや、照れなくてもよろしいのですよ。ロイアス様が女性に思いを寄せる日が来るとは…感無量です」
わざとらしく、ポケットからハンカチを取り出し出てもいない涙を拭う。
喰えないヤツだが、有能なのは認めよう。
カイルは俺が団長を務める騎士団に所属するただの一隊員にすぎないやつだったが、戦場での活躍は凄まじかった。
訓練の時はさほど目立つ所もなかったのに、本番での変わりように周りも驚きを隠せなかった。もちろん、俺もだ。
それから、何かと目を掛けてきた。
カイルはこの戦争が終わったら騎士団を辞めるつもりらしかった。何がやりたいことがあるのか?と問えば特にないと答える。それならばと、俺の執事に採用した。
長年務めていた執事が老齢の為、体調不良が続き、執事を辞する事を申し入れて来ており、丁度良かったのだ。
地頭のいいやつなのだろう。
執事の仕事も要領よくこなしてくれる。
周りに溶け込むのも早かった。
外出の多い俺よりも侯爵家を知り尽くし、今や、侯爵家に欠かせない人物となっている。
「ロイアス様、世の中、悪い女性ばかりではございませんよ。今まで出会ってこられた女性がたまたま悪女だっただけです。アリエル様は信じて良い女性だと思いますよ」
たまたまか…。思い出して、苦笑が漏れた。
俺は貴族令嬢の間で「冷酷悪魔」と呼ばれている。
戦の勝利を祝うパ-ティーを王宮主宰で催す事となり、面倒だったが今回ばかりは断りきれず出席する事にした。気乗りしないまま、会場の入り口に足を踏み入れた瞬間に、聞こえてきたのだ。俺の名が。
10人程の女性達が集まり、噂話をしていた。
「ロイアス・ジャンヌ-ル侯爵の事ね。冷酷悪魔と呼ばれているとか」
さも恐ろしげな震え声だった。
「わたくしは、その冷酷悪魔とお会いしたことがありますけど、容姿も醜くて横暴な方ですわよ。いくら戦場で活躍した英雄とはいえ、結婚なんてとても無理ですわ。わたくしならジャンヌ-ル侯爵家から縁談がきたとしても、即座にお断り致しますわ」
隣の令嬢の問いかけに大声を張り上げながらそう言っていたのは、イザベラ・ブリザッシュ伯爵令嬢。
イザベラの言葉に周囲の令嬢が即座に反応した。
「まあ、怖い!わたくしもお断りですわ」
「わたくしもです!」
また、こいつか。俺は右手の拳を震わせた。
イザベラは、俺の顔を見るなり、シッシ!と言わんばかりに右手を振って、追い返すしぐさをした。
イザベラの言うとおりにするのは癪に触ったが、この場にいるのも我慢ならず、逃げるように立ち去った。
パ-ティーを欠席した事で、皇帝からは小言をくらったが、元々、表舞台に立つのが苦手な性格だと周知してあるおかげか、それ以上のお咎めは無くて済んだ。
イザベラ・ブリザッシュ。
俺が結婚したと知って、どういう反応を見せるか。想像の追い付かない程、悪どい行動を取る女だけに、得体の知れない不安が渦巻くのだった。
昼までにどうにか家での仕事を終わらせた俺は急いで馬車に乗り込んだ。3時間程走らせると、王都に王室が所有する騎士達の訓練所がある。
男ばかりのむさ苦しい訓練所だ。
戦も終わり侯爵家を継いだ身としては、潔く騎士団長の座を退きたいと皇帝にも申し出たが、なんだかんだと理由を付けてはぐらかされている。
今では隊員達に稽古をつける為と、街の見回りの為、週に3日程、王都まで遠征している。
王宮から大金を渡され、王都に引っ越してくるように懇願されたが、断った。
何のためにわざわざ王宮から離れた場所に住んでいるのかまるで分かっていない。
王都に住んだが最後。
毎日のように呼び出されて皇帝の話し相手をさせられるに決まっているからだ。
王室に絡むとろくなことがない事は歴史が証明している。面倒事は極力避けたい。
「おや?新婚さんが、こんな所で何してるんだ?てっきり今日は来ないものだと思っていたがな」
大口を開けて笑いながら近づいてきたのは、エバンス・オルキアン副団長。年齢は30歳。
年上だが部下という、複雑な関係性だが、二人きりの時は敬語抜きでフランクに話をする。
陽気で気さくな雰囲気ではあるが、侯爵家の4男。体格が良く豪快に笑う。
表情が豊かで喜怒哀楽がハッキリしている。
俺とは違う性格だが、どういう訳か気が合う。爵位を継ぐ責任もなく、伸び伸び育ったせいだろう。良い意味で貴族らしくない性格をしている。
話していて気が楽な相手で、顔を合わせる度に軽口を叩きあっている。
不在がちな俺に代わり、実質、部隊を率いているのが、このエバンスだ。
本当なら、エバンスに団長の座を譲り俺は身を引きたいのだが、そうもいかない状況だ。
それとなくエバンスに団長になることを打診する度に、「いや。お前が団長というだけで、隊員の士気が高まるんだ。居てもらわねば困る」そう言って、エバンスからも残留を求められる。なかなか俺もつらい立場にあるのだ。
「白状しろ。嫁さんはどんな女性なんだ?」
俺の肩に腕を回しながら、エバンスが冷やかしてきた。
「うむ。一言で言うと…」
アリエルはどんな女性か?
俺にはこの言葉しか浮かばない。
「…女神?」
エバンスの視線を正面で捉えながら大真面目に答える。
「お前…正気か?」
数秒間、魂を抜かれたような顔をしていたエバンスの鼻が、徐々にヒクヒクと動き、肩と唇が震えだした。そしてすぐに、それは爆笑へと変わった。
普段からよく笑うヤツだが、ここまで爆笑した姿を見たのは久しぶりだ。
「め、女神!嫁さんを女神だと!!まさかお前の口からそんな言葉を聞こうとはな!!ウハハハハハッ!!あぁ、笑いすぎて腹が痛い!!」
何がそんなに面白いのか全く理解出来ないのだが。アリエルについて聞かれたから答えたまでの事だ。事実、女神としか言いようがないのだから。
「つい最近まで女性嫌いだったはずだがな。女神さまと結婚して克服したか!まあ、お前のような男前と結婚出来て、女神様も喜んでいることだろうよ」
男前だと?バカも休み休み言え…と言いたい所だったが、エバンスが心底嬉しそうにしている様子を見て止めた。エバンスの気遣いに、今だけは甘えるとしよう。
「今度、ぜひ会わせてくれよ。お前の女神様に!」
エバンスがニヤリと微笑む。
何!?アリエルに会いたいだと?
そんなのは無理に決まっている。
なぜなら、エバンスにアリエルを会わせる時間があるなら、俺がアリエルを独占していたいからだ。以上!!
「ダメだ。誰にも会わせるつもりはない」
「おおっ!まさかお前が嫉妬するとは!本当に信じられん。一体、どんな女性なんだ!?これは…ますます興味をそそられるな…」
しまった。答え方を誤ったか。
諦めてもらうはずだったのだか、逆に興味をそそってどうする。。
自責の念に捕らわれていると、数人の隊員達がいつの間にか俺たちを取り囲んでいた。
「団長!ご結婚おめでとうございます!」
「今度、ぜひ訓練所に奥様を連れてきてください!」
「団長の奥様…ぜひお会いしたいです!」
若い隊員達が次々に声を掛けてくる。
全く、冗談じゃない!アリエルをここに連れてくるなど、狼の群れに子羊を放つようなものだ。アリエルに興味を持たれるだけで腹が立つ!
「お前ら。今すぐに木刀を持ってこい!稽古をつけてやる」
「は、は、はいっ!すぐに持って参ります!」
俺の迫力に気圧されたのか、青ざめた隊員達が足をもつれさせながら走っていく。
「嫉妬に狂った男は恐ろしいな…」
ポツリ、とエバンスが呟く。
何とでも言えばいいさ。
全員まとめてそのスケベな性根を鍛え直してやる。