8 旅
ロウィニア鉄道は首都パデレシチを中心に王国各所へと触手を伸ばすように拡張されてきた。
この年霧月に開通するのは王国の北東部、国境の町グロースに至る路線だった。そこはザモイスキ伯爵領のあるサクス県の県都であり、鬱蒼とした森と広大な草原地帯を抜ければザハリアス帝国の国境線に達する場所だ。
グロースと王国東部の町セービンを繋ぐ鉄道施設工事の完成は、王国にとって久しぶりの祝事だった。地元の領主、王国鉄道幹部、関連産業の主立った者が開通式に出席し、王室からは王太子スタニスワフと彼の婚約者カトレインが主賓として招かれた。
本来であれば国王リシャルドが赴くべきなのだが、最近の体調不良を考慮されてのことらしかった。
「実際の所、陛下を囲い込みたい後宮の側室とその親族が首都から出したくないわけだ」
王都のポニャトフスキ公爵邸で、当主ヴァツワフ公が皮肉めいた見解を述べた。彼の年長の息子達も同様の表情で頷いた。
「早くも、後宮では懐妊した側室の噂が出ています。真偽はともかくあの伏魔殿は騒がしくなりそうですね」
長男エドムンドが報告し、次男テオドルは嫌悪もあらわに顔をしかめた。
「使用人から仕入れた話だけでもうんざりだよ。自分こそが誰より先に男児を産んで王妃の座に納まるんだって牽制が凄まじいとか」
「確かに、新たな王妃が立つとすれば男児を産んだ者が最も可能性が高いな」
今現在、国王は特定の側室を寵愛することなく、某侯爵に勧められればその娘の元に通い、某伯爵に懇願されればその養女の元に通うというどっちつかずの状況らしい。
「陛下の優柔不断さが、かえって後宮から国政を弄しようとする者どもを混乱させることになるとはな」
本人がそれを狙ってのことなのか、何も考えずにした結果なのかまでは、公爵には分からなかった。
「カトラにとっては、初の本格的な王室の一員としての公務だ。我々も全面的に協力する」
父親の言葉に息子達は頷いた。公爵は長男に確認した。
「例の、カトラとセルゲイ殿との噂はどうなっている」
「可愛い惚気話で落ち着いてます。セルゲイ殿が笑い話にしてくださったこともありますし…」
言いよどむ息子に、父親は不審げな目を向けた。
「気になることでもあるのか」
「あの場にいましたが、カトラと殿下のやりとりにセルゲイ殿が笑い出す前のほんの一瞬、全く違った顔をしておられました」
「違うとは?」
「強烈な怒りか憎しみか、印象としては邪悪としか言いようのない…」
「子供のダシにされたのが腹が立ったんじゃないのか」
弟の言葉に兄は首を振った。
「一瞬で切り替わったから余計に不気味に感じたよ」
「人が見かけどおりであることの方が極小だ」
父親が息子の違和感を肯定した。エドムンドが彼に提案した。
「東部公領軍はいつでも動かせます。僕も先行してセービンで警戒に当たりたいのですが」
「よかろう、領軍の隊長と打ち合わせが必要だな」
公爵家の親子は細かい計画を詰めていった。思い出したようにテオドルが言った。
「カトラにも簡単な護身術を教えておいたよ」
「危険なものじゃないだろうな」
非難がましい兄に、弟は肩をすくめた。
「訓練もしてない女の子に本格的な武術なんて無理だよ。教えたのは時間稼ぎ。相手を怯ませて隙を作って逃げるための。女性の装飾品は意外と使える物が多いから」
公爵は難しい顔をしたが、それ以上言及しなかった。
セービン―グロース間の鉄道開通式典のことは、王太子にも報告が来ていた。
久しぶりに晴れ晴れとした笑顔で、スタニスワフは婚約者に興奮気味に語った。
「王国鉄道総裁から記念に模型が贈られてきたんだよ、こっち」
手を引かれて入った部屋で、カトレインは目を瞠った。部屋のほとんどを王国内の鉄道路線のミニチュア模型が占めている。模型は非常に精巧で、全ての路線と駅、途中の引き込み線までもが忠実に再現されていた。
王太子は設置台に乗り出すようにして説明した。
「ここが王都で、出発点のパデレシチ中央駅。ここから乗って、ウラムを経由して、セービンに着くんだ」
得意気な少年に、カトレインは素直に感心した。
「お詳しいのですね」
「セービンまでは母上と一緒に汽車で行ったんだ。町の郊外に王家の別荘があるんだよ。仕掛けが一杯で面白かった」
楽しい旅の記憶を辿っていたスタニスワフが、ぽつりと言った。
「グロース駅も一緒に見たかったな…」
幼い婚約者の肩に手を置き、公爵令嬢は提案した。
「王妃様の分まで国境を見てきて、大聖堂の礼拝の時に報告しましょう」
「うん! カトラに別荘を案内するね」
元気を取り戻したスタニスワフは、再び目を輝かせながら鉄道の解説を延々と続けるのだった。
妙な疲労感を抱えて公爵邸に戻ったカトレインは、今度は弟たちから新路線について質問攻めに遭った。
「いいなー、開通式に行けるなんて」
二歳下のヘルマンを筆頭に、弟たちは「見たい」の大合唱を始めた。たまりかねたように公爵夫人が息子たちに言い聞かせた。
「カトラは遊びに行くのではないのよ。王太子殿下と公務があるのですからね」
「だって、専用列車でグロースまで行けるのに…」
なおも言い募る弟の耳を軽く引っ張り、カトレインは言った。
「ローディンから来た鉄道技師の方たちにローディン語で挨拶するのよ。あなたが代わってくれるの?」
「……いや、いい…」
渋々ながら姉の公務を理解した弟たちは引き下がった。カトレインは溜め息交じりに母親に言った。
「どうして男の子って、汽車や機械にあんなに夢中になれるのかしら」
「そういう生き物なのよ」
あっさりと片付けると、公爵夫人は娘に確認した。
「ローディン語の先生に授業を増やしてもらいましょう。あと、式典のドレスも決めなければ。旅行の付き添いは私が選んでおきます」
「はい、お母様」
侍女たちも加わり、公爵家の女性陣は楽しげに旅の準備を始めた。
霧月中旬三曜日、王太子スタニスワフと彼の婚約者ポニャトフスキ公爵令嬢カトレインを乗せた専用列車がパデレシチ中央駅から東部の街セービンへと出発した。
汽笛を鳴らし、トンネルを抜けたお召し列車が王国北東部に向けて走る。
「ほら、向こうに光ったのがエスト湖だよ、別荘はあのほとりにあるんだ」
王太子スタニスワフが窓から身を乗り出そうとするのを、彼の乳母ロステン夫人が慌てて止めた。
「殿下、危のうございますから」
隣に座るカトレインは、彼の指さす車窓の景色に目を向けた。青空の下に紅葉に彩られた山がいくつも重なっている。公爵令嬢は溜め息をついた。
「本当に綺麗…。王都より季節がひと月も進んでいそうですね」
ロウィニアの西部から中部にかけては平原が多いため、彼女にとっては新鮮な光景だった。
やがて汽車は速度を落とし、車窓から見えるのは町の風景に代わった。車掌が彼らの客車を訪れ恭しく告げた。
「間もなくセービン駅に到着いたします」
王太子付きの従僕と侍女たち、ポニャトフスキ公爵家の使用人が荷下ろしの準備に入る物音がした。列車はゆっくりと駅のホームに停止した。
ドアが開けられ、スタニスワフはホームに降りた。飛び降りたい様子だったのが出迎えの人々を見て居住まいを正し、続いて降りてくる婚約者に手を貸した。その手を取ったカトレインは王太子と一緒に赤い絨毯の上を進んだ。
「よくいらしてくださいました、王太子殿下。セービンの町を挙げて歓迎いたします」
セービン市長、レーマク県知事、王国鉄道総裁が並んで頭を下げた。スタニスワフは頷いた。
「出迎え感謝します。明日の開通式典が良き日になるように」
少年がはきはきと答えると、人々は嬉しそうに微笑んだ。王太子と婚約者は馬車に乗り、宿泊先である王家の別荘に向かった。
カトレインは駅前広場に面した建築物に目を奪われた。明らかに落成したばかりの、周囲から抜きん出て高いものがひときわ目立った。
「大きな建物」
「グレツキ商会系列のホテルですね」
思わず呟くと侍女が教えてくれた。沿道には国旗を持った人々が並び、王太子とその婚約者は窓から手を振った。