7 鏡
まさかの浮気発覚?
王妃の国葬後、スヴェアルト宮殿はどこか奇妙な空気の中にあった。
まだ喪中であることに変わりないのだが、国王リシャルドには連日の謁見を求める者が絶えなかった。それに加えて、故王妃の実弟であり亡国の王子という立場のセルゲイ・ブロンスキィの滞在が浮ついた雰囲気を作っていたのだ。
最大派閥の長であるポニャトフスキ公爵は傷心の国王に次々と側室を勧める者には苦々しい表情を隠さなかったが、国王の義弟については静観の構えを見せていた。
今日もまた、美貌の青年に貴婦人たちが群れをなす勢いで取り囲んでいた。
「セルゲイ様、モルゼスタン国王陛下はいかがお過ごしですか」
「お国が失われてから亡命生活でしたの?」
「ご家族はどこの国に身を寄せていらっしゃいますの?」
立ち入った質問にも嫌な顔一つせずに、流浪の貴公子は彼の一族を襲った不幸を淡々と語った。
ザハリアス帝国と国境を接する草原の王国モルゼスタン。その昔に帝国を脅かした騎馬民族の血を引き優秀な軍馬を生産してきた小国は帝国と並ぶ軍事国家アグロセン王国に属していた。
独立した国家となってからはロウィニアと同盟して帝国相手に共闘したこともあった。騎兵部隊がめざましい戦果を上げたことが国全体に慢心をもたらしたのだろうか。
独立後も属州扱いを辞めないアグロセンに反発が募り、遂に通商条約を一方的に破棄するという暴挙に出てしまったのだ。これを反逆と見なしたアグロセンは激怒し、長年の敵であった帝国や隣国リーリオニアと手を組み三国でモルゼスタンに軍事介入した挙げ句に分割統治という最悪の結果になってしまった。
「侵攻を受け正規軍が壊滅状態になったため、私は親衛隊を率いて離脱し、以後は傭兵の真似事をしながら諸国を転々としていました。親族とは手紙で様子を知るのみです」
貴婦人たちはセルゲイの言葉を吟遊詩人の歌であるかのようにうっとりと聞き入っていた。
聴衆の中には王太子とその婚約者も含まれていた。スタニスワフが叔父に尋ねた。
「モルゼスタンにいた頃の母上はどんな風でしたか?」
姉とよく似た金髪を揺らし、青灰色の瞳で遠くを見やるようにしてセルゲイは答えた。
「あの頃から弱者に手を差し伸べる、とても優しい方でした」
スタニスワフは頷いた。その隣で公爵令嬢カトレイン・ポニャトフスカは無言で新参の宮廷人を見つめていた。
宮殿を歩いていたポニャトフスキ公爵は一人の人物に呼び止められた。
「ちょっといいかい、公爵」
尼僧姿の老婦人、先王の妹バルバラだった。
「何かご用でしょうか、バルバラ様」
「ザモイスキ領から献上されたお茶があるんだよ」
公爵はその誘いを受けた。
聖ツェツィリア修道院長が逗留している西翼の部屋に行くと、尼僧がお茶を淹れてくれた。色と香りを楽しみながら、バルバラが口を開いた。
「国王陛下の義弟をどう思う?」
「今のところは何とも。宮廷での役職を要求するでもなく、客人というだけですから」
「陛下とナタリア妃とのご成婚にあの弟君が来ていたね。大した美少年だったよ」
老尼僧は笑い、公爵は十年以上前の記憶を辿った。
「そうでしたか」
「荒事が出来るようには見えなかったが、モルゼスタンは過酷な歴史だったからね」
「環境で変わることはあり得ますが」
「話の裏付けくらいは取っておこうと思ってね」
何気ない言葉には、ザモイスキ家独自の諜報機関を動かすという意思が含まれていた。
「では、こちらもできる限りの情報を集めます。王太子殿下に少しでも疑わしい者を近づける訳にはいきませんので」
「間が悪いことに、母親を亡くした直後に親族が現れたんだ。近寄るなとも言えやしない」
苦々しく愚痴を言いながら、老尼僧はお茶を飲み干した。
宮廷内にある噂が流れ出したのはそれから間もなくだった。
「まさか、ポニャトフスキ公爵令嬢が?」
「それがただ事でないご様子で」
「まだ子供ですし、単なる憬れでしょう」
「しかし、王太子殿下の婚約者でありながら、いかがなものかと」
嘆かわしげに、または面白おかしく、カトレインとセルゲイの仲が囁かれていたのだ。
宮殿内の公爵家控え室で、長男エドムンドが深刻な顔で父親と対峙していた。
「父上はお信じになられるですか、あのような噂を」
「カトレインがセルゲイ殿と親しくしているのは事実だろう」
「婚約者の叔父です。礼節を欠くわけには」
「セルゲイ殿が姿を見せれば熱い視線を送っている、子供のお守りに飽きるのも無理はないと、スズメどもがうるさくてかなわん」
公爵は苦々しげな顔をし、エドムンドは尚も懐疑的だった。
「殿下を放置してセルゲイ殿にまとわりつくというならともかく、あれほど人目を引く方であれば見るくらいは問題ないはずです」
「それを大問題にするのが宮廷という所だ」
公爵は苛立たしげにテーブルを指で叩き、長男は溜め息をついた。
「カトレインに忠告しておきます」
公爵は頷いた。
宮殿内でエドムンドが妹の姿を探していると、まさに問題の人物と一緒にいる所を発見した。
王太子も含めてだが、セルゲイ・ブロンスキィと親しげに話し込むカトレインを見て、兄は頭痛を覚えた。
彼より先に、鼻息荒く公爵令嬢に近寄る者がいた。
「あなた、はしたないと思わないの?」
派手なドレスで登場したのはチャルトルィスキ侯爵令嬢アンゲリカだった。カトレインは王太子と顔を見合わせ、困惑した様子で彼女に向き直った。
「どういう意味でしょうか」
「王太子殿下の婚約者でありながら、そうやってセルゲイ様にべったりすることよ」
「殿下と一緒にお話ししているだけですが」
「みんな知っているのよ、あなたがセルゲイ様に熱愛の視線を向けているのを」
その言葉に面くらったのは王太子スタニスワフだった。
「そうなの?」
彼に不安そうに言われて、カトレインは侯爵令嬢に反論した。
「見ることの何が悪いのですか」
勝ち誇った様子で、アンゲリカは言い募った。
「それは不貞行為よ。他の殿方に目を奪われるなんて」
「見ていて楽しいから見ているのです。不貞など考えたこともありません」
きっぱり言い切るカトレインに、王太子は訳が分からない様子だった。
「叔父上を見ていて楽しいの?」
「はい、成人された殿下を見ているようですもの」
彼の婚約者は笑顔で答えた。スタニスワフは思わず叔父を見上げた。
「大人になった僕?」
「殿下は王妃様似ですし、セルゲイ様の十歳頃は殿下と同じくらいの背丈だったのですって」
嬉しそうな公爵令嬢の言葉に、アンゲリカは口の開閉を繰り返すだけだった。微妙な空気を、当のセルゲイ・ブロンスキィの快活な笑い声が吹き飛ばした。
「これはこれは。殿下の婚約者にとって、私は甥の鏡という訳だったとは」
スタニスワフは真顔でカトレインに尋ねた。
「僕が叔父上みたいにならなかったら、がっかりする?」
「スタシェク様は髪の色も違いますし、セルゲイ様のようなどこか近寄りがたい雰囲気ではなく、自然と周囲に人が集まるような殿方になられますわ」
少女の答えに迷いはなかった。王太子はほっとしたように頷いた。周囲の人々は、疑惑やあら探しの視線から笑いを堪えるものに変わっていた。悔しげなアンゲリカが足音荒く撤退するのを見届けて、公爵家の長男はそっとその場を立ち去った。
セルゲイと別れて二人で奥宮に向かう中、スタニスワフがぼそりと言った。
「カトラは、叔父上が婚約者の方が良かった?」
「何故ですか?」
「だって叔父上は大人で、カトラより大きいし…」
未だ婚約者の肩ほどしかない王太子は、つい劣等感を口にしていた。カトレインの回答は簡潔そのものだった。
「でも、あの方はスタシェク様ではありませんわ」
足を止め、スタニスワフは彼女を見上げた。琥珀色の瞳が真剣な表情で彼に向けられている。
まだ成長は追いつけないが、婚約者を見上げる角度は去年よりわずかでも浅くなっている。少しずつでも大人に近づいているのだ。そう確信し、王太子は再び歩き始めた。
故王妃の納棺後の喪の儀式を終え、バルバラが聖ツェツィリア修道院に戻る日がやってきた。
スタニスワフとカトレインは、出発を控えた彼女に挨拶に行った。
「もう行ってしまうのですか」
バルバラは残念そうな甥の息子の頭を手荒く撫でた。
「修道院をあまり長く空けられないんだよ。これでも色々忙しくてね」
「道中ご無事で」
カトレインの言葉に老尼僧は笑った。
「今度来るときはもっと便利になってるさ、ザモイスキ領の国境地帯まで鉄道が通るからね」
子供たちは目を瞠った。バルバラは頷いた。
「開通式には殿下達も来賓で呼ばれるはずだよ。楽しみにしておくんだね」
大叔母を見送ったスタニスワフは興奮を隠せない様子で言った。
「鉄道があんな遠くまで延びるんだ」
「きっと賑やかな行事になるのでしょうね」
王国中が服していた喪の明けにふさわしい式典になるのだろうと、彼らは話し合った。