6 弔問者
「おやおや」
呆れたような、からかうような声をかけられて王太子スタニスワフは目を覚ました。腫れぼったい目を開けて横を見ると、彼の婚約者が眠っていた。
叫びそうになると口を塞がれた。目の前に尼僧姿の老婦人がいた。自分の手がカトレインのドレスの袖を掴んでいるのに少年は気付いた。彼は慌てて手を離した。
昨夜からの醜態の連続の記憶が一気に押し寄せ、十歳の自尊心は粉々になりそうだった。
「その子も疲れているんだよ、そっとしておやり」
尼僧が少年に告げた。この威圧感に溢れた声に聞き覚えがあるような気がして、スタニスワフは彼女を見上げた。老尼僧はにやりと笑った。
「何年か前に王妃様と一緒に聖ツェツィリア修道院でお目にかかったんだよ、忘れたかい?」
「大叔母上……」
お祖父様の妹に当たる方だと母が教えてくれたのを少年は思い出した。尼僧は満足げに笑った。
「一晩泣いて寝て、頭が冷えたようだね。昨日は殿下が逃げ出して泣きたいだけ泣くのをここの人達が許してくれた。でも今日はそうはいかない」
再び涙を浮かべながらも、少年は頷いた。その頭を撫でて、先王の妹は言った。
「なら、着替えて食事をして、母上にお別れを言いに行くんだよ。私もこの子も付いてるんだ、一人じゃないことを覚えておくんだね」
再度頷くと、話し声で目が覚めたのかカトレインが寝返りを打った。スタニスワフは一瞬で耳まで真っ赤になり、寝台から飛び降りると寝室から駆け出した。
公爵令嬢が覚醒したとき、隣の寝台は空っぽだった。不思議そうに室内を見渡し、カトレインは王宮に逗留したことを思い出した。
「嫌だわ、あのまま寝入ってしまったのね」
「気にすることはないさ」
部屋にいた尼僧に言われ、カトレインは不思議そうに彼女を見た。そして、胸に下げられた聖光輪十字に聖ツェツィリアのメダイユが付いているのに気づいた。
「バルバラ様……でいらっしゃいますか?」
「そうだよ。スタニスワフが世話になったね」
「いえ、私は…」
慰めることも出来ず、側にいただけだと少女は苦く回想した。
「あの子に付き添ってくれたんだろう? それで充分だ」
王太子にしたように公爵令嬢の頭をくしゃりと撫でると、修道院長は女官たちに言った。
「公爵家の者は来てるのかい?」
「はい、バルバラ様」
宮殿に足を運んだカトレイン付きの侍女たちが入室し、公爵令嬢を着替えさせた。
様々な思惑や感情が渦巻くスヴェアルト宮殿で三日に渡る魂浄夜が終わり、故王妃がパデレシチ大聖堂の霊廟に納められる日が来た。
収穫月下旬二曜日。小雨の降る中を、ロウィニア王妃ナタリア・ブロンスカヤの国葬は粛々と執り行われた。
王宮から馬車行列でパデレシチ大聖堂に移動し、王家の霊廟に王妃の棺が収められるのを、カトレインは王太子と並んで見送った。少年は俯いていたが泣きわめくことはしなかった。
子供たちの側には常に尼僧姿の老婦人――先王の妹で先代のザモイスキ伯爵夫人バルバラがいた。
魂の安寧のための祈念歌を少年合唱隊が澄んだ声で歌う中、クレメンス大司教が直々に祈りを捧げた。
全ての儀式が終わった後、彼女に歩み寄る者がいた。
「ご無沙汰しております、バルバラ様」
「ああ、エデルマンとこの坊やか」
小僧扱いされて、王国の陸軍元帥アルトゥル・エデルマンは苦笑した。
「父は思うように立ち歩けず、ご挨拶にうかがえないことを残念がっておりました」
「あの戦役を知る者も少なくなるばかりだね」
溜め息交じりに、修道院長は言った。
西方大陸屈指の軍事国家である北の大帝国ザハリアス。かつて不凍港を求めた帝国の南下政策に抵抗したロウィニアとの間で戦争が勃発した。元帥の父エデルマン伯爵とザモイスキ伯爵は紙一重の勝利の立役者であり、王国の盾と呼ばれ称えられた。
周囲でくり広げられる弔問外交を、彼らは冷ややかに眺めた。
寡夫となった国王リシャルドを取り巻くのは、後宮に血縁者を送り込みたい貴族たちだ。頷くのみの国王の様子からすると、近々後宮は一気に賑やかになりそうだ。
王太子が傷つかないだろうかと、カトレインは隣の彼の様子を見た。スタニスワフは貴族たちよりも大聖堂外の様子に気を取られていた。
「どうされましたか?」
声をかけられた王太子は、窓に顔を向けたまま答えた。
「馬車から見えたんだ。王都の人達が母上の棺に祈って泣いているのが」
「王妃様は民衆に慕われていましたから」
亡き王妃ナタリア・ブロンスカヤは救貧院や孤児院といった弱者救済の施設経営に力を入れていたため、その活動に賛同した教会からも尊敬を集めていた人だった。自分に彼女の意志を継げるだろうかと公爵令嬢は思案した。
大人に劣らず、子供たちの弔問外交も活発だった。貴族の子弟が次々と王太子にお悔やみを述べるのを、カトレインは一歩引く形で見守った。彼の交友関係には基本的に彼女は口出しせず、気になる者がいれば父か兄に報告することにしていた。
やがて、王太子の前に対照的な少年二人が進み出た。
「お悔やみ申し上げます、殿下」
理知的な印象のある眼鏡をかけた少年がトマシュ・アシュケナージと名乗り、彼の隣で体格のいい少年グスタフ・エデルマンが直立不動の体勢をとっていた。顔立ちと体型が陸軍元帥に似ているような気がしてカトレインがそちらをうかがうと、元帥は公爵令嬢に頷いて見せた。
「スタシェク様、アシュケナージ宰相のご子息と、エデルマン元帥のご子息です」
そっと王太子に耳打ちすると、少年は驚いた顔をした。王太子の婚約者は二人に微笑みかけた。
「喪が明けたら王宮にいらしてください。ご一緒に勉強や運動をしてくだされば殿下も気が晴れるでしょうし」
彼らは快く承諾した。
大聖堂の隅の方では、貴族同士の外交が散見された。息子の手を引いていたミクリ準男爵は王太子を遠くに見ながら拝謁を半ば諦めていた。
「あの中に割って入るのもなあ…」
「殿下って割と普通な感じなんだ」
落胆する父親と対照的に、幼い息子は周囲の観察に余念がなかった。準男爵は慌てて静かにさせた。
「滅多なことを言うな、アンジェイ。誰が聞いているか分からないんだぞ」
「はーい」
聖堂の天使像にも劣らぬ愛らしい少年は、王太子に群がる同年代の貴族子弟を見下し気味に眺めた。
大聖堂の敷地外、聖堂に面した道路では、塀に多くの花束が手向けられていた。一人の男性が、彼の息子と一緒に花束を添えた。塀を埋め尽くすような花の数に息子は驚いていた。
「父さん、みんな王妃様が好きだったんだね」
「そうだよ、レフ。下々の者にまで惜しまれるなんて滅多にないぞ」
喪服の人々が泣きながら花を供える光景に、レフ・グレツキは感銘を受けた様子だった。
「次の王妃様もいい人だといいな」
「王太子殿下が成人するにはまだ時間がかかるからなあ、それまでどんな事が起きるやら」
預言めいたことを言いながら、政商と言われるグレツキ商会の会頭は息子と共に家路についた。
大聖堂内の空気がざわつくのにカトレインは気付いた。バルバラが供の尼僧に何かを指示している。
「どなたが見えたのかしら」
人々の視線を占める者が国王に近寄るのが見えた。輝くような金髪と青灰色の瞳。亡き王妃と酷似した非常に端正な容貌の若い男性だった。
「ご無沙汰しております、国王陛下」
「……そなたは」
驚く国王に向けて、男性は深々と頭を下げた。
「セルゲイ・ブロンスキィです、……義兄上」
それはかつてのモルゼスタン王国第二王子、亡くなった王妃の弟の名だった。
人々は息を呑んで彼を見つめた。
これで主な登場人物が大体揃いました。