5 魂浄夜
慌ただしく喪服に身を包み、王宮へ向かおうとするポニャトフスキ公爵と長子エドムンドにカトレインが追いすがった。
「私も同行させてください。王太子殿下が心配なのです」
彼女の必死な様子に父と兄は顔を見合わせ、馬車に同乗することを承諾した。
「着いたらすぐに殿下の元に行くんだ。今の王宮は弔問に訪れる者で騒がしいからね」
兄の言葉にカトレインは頷いた。あれほど王妃の快復を願っていたスタニスワフがどれほど悲しんでいるかを考えると、いても立ってもいられなかった。
白亜の宮殿はクロバトの羽をあしらった喪の旗が掲げられ、黒い服の人々が一つの塊のようにうごめいていた。
弔問客は外国の者も多くいるようだった。婚約以来語学に力を入れてきたカトレインはアグロセン語とザハリアス語を聞き取った。
喪服の集団の中に見知った者がいた。
「ジュワウスキ伯爵夫人」
カトレインが呼びかけると、王妃の主席侍女だった伯爵夫人は公爵一行にお辞儀をした。ヴェールから覗く彼女の目は赤く腫れていた。ポニャトフスキ公爵が伯爵夫人に告げた。
「呼び止めてすまない。娘を王太子殿下の元に案内して欲しい」
「畏まりました。カトレイン様、どうぞこちらに」
伯爵夫人に先導され、公爵令嬢は婚約者のいる奥宮へと歩き出した。それを見た一人が聞こえよがしに言った。
「ふん、御一門の小娘が、もう王妃面か」
伯爵夫人は顔色を変えたが、カトレインは構わず歩き続けた。今はあのような者に関わる暇などない。自分にはもっと大事なことがある。
歯を食いしばるようにして王太子の婚約者は歩き続けた。
長子を連れた公爵は主宮殿奥の一室に向かった。そこは亡くなった王族が先祖の聖霊に魂の浄化を受ける黒鳩の間だった。
中央に安置された王妃の棺は、紫色の光沢が光の加減で浮かび上がる濃灰色のクロバトの羽で縁取られていた。その側に、国王リシャルドが憔悴しきった様子で座っている。
ポニャトフスキ公爵はうなだれる国王に何やら耳打ちするチャルトルィスキ侯爵を見て眉をひそめたが、まずは丁寧に弔意を述べた。
「陛下、王后陛下のご逝去お悔やみ申し上げます」
公爵と子息が頭を下げると、国王は力のない声で言った。
「ああ、ポニャトフスキ公か。よく来てくれた」
チャルトルィスキ侯爵はちらりと公爵を見て、再度熱心に国王に話しかけた。
「では陛下、先ほどのことをよくお考えください。何しろ王国には国母が必要ですから」
「チャルトルィスキ侯、王后陛下の棺も閉じられぬうちから何を言っている」
公爵が怒りの声を上げると、国王の背後に控えるようにして侯爵は冷笑した。
「王家の男児が王太子殿下一人では心許ない。今後のことを考えるのは当然だろう。それとも、新しい王妃が冊立されては貴公の令嬢には不都合か」
怒りのあまり声も出ない公爵は国王を挟んで侯爵と睨み合った。緊張が走る中に、呆れたような声が乱入した。
「まったく、久しぶりに山から出てきてみれば何て有様だろうね」
現れたのは尼僧服の威厳のある老婦人だった。王国の重鎮である大貴族二人は雷に打たれたように頭を下げた。
「失礼しました、バルバラ様」
「ご無沙汰しております、内親王殿下」
「おやめ、その呼び方は」
うんざりしたように老尼僧は言った。
「何十年も前に降嫁して、今は俗世も捨てた尼なんだから」
バルバラ・ザモイスカ。先王の妹であり、辺境伯と呼ばれたザモイスキ伯爵夫人であった女性だ。ザハリアス戦役で夫が戦死した後は息子の家督相続を見届けてから尼僧院に入り、今は聖ツェツィリア修道院長となっていた。
彼女は面倒くさそうに公爵たちをいなすと、悄然としている甥の前に進み出た。
「お久しゅうございます、陛下」
「……叔母上」
「少し休まれては。医学の心得のある者がお世話しますので」
修道院長は引き連れてきた尼僧に国王を引き渡した。そして、名だたる貴族たちを睥睨した。
「死者の魂を浄める儀式を何だと思ってるのかね。諍いなら外でおやり」
「同感です、バルバラ様」
新たに黒鳩の間に登場した人物が彼女に賛同した。聖光輪教会大司教クレメンスだった。人々は恐縮した様子で黒鳩の間から退出した。
「これだから騒々しい小僧どもは嫌いなんだよ」
バルバラが憎まれ口を叩くと、大司教は彼女に礼を取った。
「久しぶりにお目にかかるのがこのような場とは」
「ああ、不幸なことさ」
棺に横たわる王妃の元に立ち、修道院長は眠るような亡骸を前に呟いた。
「こんなに若く、十やそこらの子供を置いて逝くなんて、さぞ心残りだろうよ」
彼女は跪き、大司教と共に聖光輪十字を掲げて魂浄夜の祈りを捧げた。尼僧と司祭が乳香を焚いた香炉を振りながら広間を歩き、先祖の聖霊による死者の魂の浄化が始まった。
カトレインが奥宮に到着したとき、王太子の乳母ロステン夫人は混乱状態だった。その竜を聞き、公爵令嬢は愕然とした。
「殿下がいない?」
「喪服に着替えていただこうとしたら逃げ出されてしまって…」
女官たちが右往左往する中、カトレインは王太子の心境を推測した。喪服を着てしまえば母親の死を認めることになると抵抗したのだろうか。彼女は外に目を向けた。
「庭園を探してみます。この宮からは出られていないでしょうし」
日は落ちているが宮殿は照明がともり弔問客は尚も引きも切らない様子だ。夏の花が妍を競う庭園で、カトレインは王妃が好きだった花を探した。
「睡蓮は池だし、あとはガーデニア…」
灌木の茂みに近寄ったとき、しゃくり上げる声が聞こえてきた。そっと覗くとうずくまって泣いている王太子スタニスワフの姿があった。カトレインは近くの護衛に場所を知らせ、待機するように合図した。
そして、何も言わず茂みの近くの縁石に腰を下ろした。耳に入る泣き声は小さかったが痛々しく、哀切に満ちていた。最後に会った王妃の、自分のような子供に縋る姿が思い出され、カトレインはそっと涙を拭った。
やまない泣き声に、もう少し離れていた方が良いのだろうかと彼女は立ち上がりかけた。途端に袖を掴まれ、公爵令嬢は尻餅をついた。王太子は婚約者の服の袖を握ったまま泣いていた。
泣くのを見られたくない、でも一人になるのは嫌だ。相反する葛藤の結果だろうかとカトレインは忖度した。それならば彼が泣き止むまで付き合おうと、彼女は夜空を見上げた。宮殿に目をやり、ここに来る途中に言われたことを思い出す。
あそこには、人の死を利用して勢力拡大を図る者がいるのだ。母親を失った十歳の子供の涙など考えもしない者が。
悲しみが徐々に怒りに変わっていった。あの優しい王妃はもういない。父親である国王はおそらく頼りにならない。王太子を守れるのは御一門の人間だけになるかもしれない。
それでも、気の毒な王妃との約束を果たしてみせる。カトレインは決意した。
いつしか泣き声がやんでいるのに彼女は気がついた。片手を上げて護衛を呼ぶと、すぐに屈強な衛士が駆けつけた。
「殿下をお部屋に」
護衛は泣き疲れて眠ってしまった王太子を丁重に抱え上げた。しかし、少年はまだカトレインの服の袖を握ったままだった。迷ったが、仕方なく彼女はそのまま連行されるように王太子の部屋に移動した。
「まあ、殿下は余程寂しかったのでしょうね」
ロステン夫人が声を詰まらせながら、涙で汚れたスタニスワフの顔をそっと拭った。問題は服を人質に取られたカトレインの処遇だった。
「お手を無理に外させて起こしてしまうのも可哀想ですわね」
少年の婚約者が言うと、乳母は申し訳なさそうに頭を下げた。
「公爵家に使いを出しますので、それまでこちらでお休みいただけますか」
急遽公爵令嬢のための寝台が用意され、カトレインは王太子の寝顔を見ながら横になった。幼い寝顔を眺めるうちに、彼女もいつしか目を閉じた。