4 睡蓮
この話から時間が進み、カトレイン14歳、スタニスワフ10歳になります。
年が明け季節が巡り、初夏を迎えた収穫月のスヴェアルト宮殿を今日もポニャトフスキ公爵令嬢カトレインが通う姿が見られた。
正式な婚約式の後、王太子の婚約者として登城するのは彼女にとってほとんど日課となっていた。口さがない宮廷の人々は年下の王太子に飽きられないよう必死なのだと底意地悪く囁き合うが、表だって攻撃するような者はいなかった。
ポニャトフスキ公爵家が『御一門』と呼ばれるほどの名門貴族であること、社交界デビュー前の妹を保護するように公爵家の長男か次男が必ず付き添っていることが大きな要因だった。
王太子スタニスワフは母親が病床にいることもあり、優しい幼馴染みが来てくれることを喜んだ。傍目にはまだ姉弟に見える二人だったが、いずれ王太子が成長すれば似合いの一対になるだろうというのが大方の意見だった。
今日の付き添い役の長兄エドムンドに、カトレインが質問した。
「私、ヘンリクたちを見ているからあの年頃の男の子のすることは大体分かっているつもりでしたけど、殿下は少し違うような気がします。お兄様はどう思われます?」
「僕はお前ほどお側にいる訳ではないが……、どこが違うと?」
五歳年長の兄は首をかしげた。カトレインは記憶をたぐるように答えた。
「殿下はとても素直で利発な方です。ただ、興味を引いた物があったり思いついたことがあったりすると突然突飛な行動に出るというか……、いえ、それが嫌だと思ったことはありませんけど、いつかお怪我をされないか心配で……」
「そうか、殿下の周りには貴族子弟だけでなく出入りの平民の商人もいるらしいから、その影響もあるかもしれないな」
「そういえば、グレツキ商会の人を何度か見かけました」
平民との交流がいいことなのか、十四歳の少女には判断が付かなかった。悩む妹に、兄は笑いを堪えながら言った。
「害になる者ならロステン夫人や護衛が寄せ付けないはずだ。お側にいることそのものが合格点なのだろう」
「そうでしょうか」
考えてみたものの、スタニスワフは相変わらず素直で元気な少年で、ひねたりすさんだりという様子も見られない。現状維持ということにしようと、カトレインはしかつめらしく頷いた。そんな妹を兄はからかった。
「それにしても、小さなカトラから惚気が聞けるようになるなんて、考えもしなかったなあ」
「お兄様!」
真っ赤になって怒る妹に長兄は軽く詫びた。随行していた侍女と護衛は兄妹のやりとりに微かに微笑んでいた。
出迎えてくれたロステン夫人に妹を預けると、エドムンドは護衛一人だけを連れて城に付随した大きな建物に向かった。
そこは王国一の蔵書量を誇る王立図書館だった。内側は円形になっており、同心円状に作られた書架の間を歩いていると迷路よ迷ったような錯覚さえ覚えた。
公爵家の令息は奥に進み、会議にも使える閲覧室に入っていった。室内には彼と同年代の青年たちが集っていた。いずれも公爵家の派閥に属する者だ。
「遅れてすまない」
エドムンドが詫びると、彼らは構わないと笑った。
「お姫様の護衛役だったんだろ? 殿下との仲は良好のようだな」
「婚約者と言うより親鳥みたいに世話を焼いてるよ」
「仕方ないだろう。十歳と十四歳だ」
腕白坊主と忍耐強い姉のような二人の姿は、彼らには好意的に捉えられていた。
一人が公爵家の次男がいないことを不思議がった。
「テオドルは来ないのか?」
「あいつは単独行動の方が性に合ってるらしい。報告は欠かさないから父上も黙認している」
苦笑気味に説明した後で、公爵家の継嗣は表情を改めて重大な話題に移った。
「それで、王妃様のご容態は?」
「侍医はこの夏を越せるかどうかと言っている」
医学院所属の友人が言いにくそうに返答した。その言葉に室内は沈痛な空気が流れた。
「国王陛下はこんな時に後宮に入り浸りか」
苦い声で一人がぼやいた。国王リシャルドは温厚で優しい人物だが、苦境から逃避しがちな一面がある。
「ここぞとばかりに諸侯が娘を送り込む動きを見せている」
「面倒なことにならなければいいが」
御一門派閥の若き俊英たちはその場合の対策を話し合った。
図書館の重苦しい空気と対照的に、奥宮では明るい声が響いていた。
「こっち、カトラ! ほら、あそこに花が咲いてる」
王太子スタニスワフが婚約者の手を引っ張りながら庭園内の池へと連れ出し水面に浮かぶ薄紅色の花を指さした。
「本当、睡蓮ですね」
「母上のお好きな花なんだ。モルゼスタンの王宮にあの花で一杯の池があったって」
今は他国に占拠されている王妃の実家を思い、カトレインは胸が痛んだが努めて明るい声を出した。
「今度ボートを出してもらいましょう。そうすれば近くで見られますわ」
「そうだ!」
叫ぶなりスタニスワフは池に突進した。嫌な予感に囚われてカトレインは護衛に合図をした。少年は躊躇せず池に飛び込んだ。
「スタシェク様!」
公爵令嬢は悲鳴を上げ、池を泳ぐ彼をおろおろと見ていた。すぐさま護衛が池に入り、王太子を連れ戻した。少年は睡蓮の花を手にしていた。
「あげるよ」
「……ありがとうございます。でも、先に着替えを」
「殿下、こちらに」
おろおろするカトレインと対照的に、ロステン夫人が妙に手慣れた様子で女官たちを手配してスタニスワフを確保した。カトレインは睡蓮を持て余しながら少年を見送った。
ふと、彼の足が止まる。少年の見上げる先にある物に彼女は気づいた。王妃の居室の窓だった。
名状しがたい思いに胸が詰まり、王太子の婚約者はそっと花を抱いた。
「でも、どうすればいいかしら」
公爵邸に戻り、カトレインは考え込んでしまった。真っ先に睡蓮の花を花瓶に生けてもらったが、やがて枯れてしまう花を残す方法が見つからない。侍女たちも妙案を出せなかった。
「押し花にも向きませんし」
「絵にでも残すしかありませんね」
その言葉を聞き、カトレインはあることを思いついた。
「薄手の肩掛け用の布を用意して。それと刺繍糸を」
計画を知らされた侍女たちは一斉に動き出した。
スヴェアルト宮殿、奥宮の王妃の居室。
王妃ナタリア・ブロンスカヤとの面会は時が経つにつれ困難になっていった。薄いカーテン越しと言うことでどうにか侍医の許可を得たカトレインは、お見舞いの品を侍女から渡した。
「私に、これを?」
「スタシェク様がくださった睡蓮の花を刺繍しました」
それは羽根のように軽い肩掛けだった。可憐な花の刺繍を指でたどり、病床の王妃は小さく笑った。
「ありがとう、嬉しいわ」
「きっと、スタシェク様は王妃様にもご覧に入れたかったのだと思います」
未来の王太子妃の言葉に、王妃は幾度も頷いた。何かを言おうとして咳き込み、看護婦が水を飲ませる。
カーテンの隙間から彼女は手を伸ばした。白い手は記憶より遙かに痩せていた。王妃は絞り出すように言った。
「あの子をお願いします…、ごめんなさい、まだ小さなあなたに重荷を背負わせて」
反射的にカトレインはその手を握った。
「約束します。私と我が一族の全てを賭けて殿下の即位に力を尽くします」
王妃の返答はなく、苦しげな呼吸音がするだけだった。侍医はカトレインに退出を促した。
「王后陛下はお疲れですので」
侍女たちにもせかされ、公爵令嬢は王妃の部屋を出た。そっと振り向いたが王妃の姿はカーテン越しにぼんやりと見えるだけだった。
重苦しい気持ちでカトレインが庭園に出ると、彼女を見つけた王太子スタニスワフが駆け寄ってきた。
「カトラ、母上にお目にかかったの?」
目を輝かせる少年に、彼の婚約者は必死で笑顔を作った。
「はい、スタシェク様からいただいた花を刺繍した肩掛けを差し上げましたら、とても喜んでくださりました」
「なら、今度はもっと綺麗な花を贈るんだ」
庭園を見回す彼に、公爵令嬢は釘を刺した。
「池の中や高い木に咲いているのは他の人に手伝ってもらいましょうね」
できれば自分で採取したいのが見て取れるスタニスワフだったが、心配そうな婚約者の顔を見て上目遣いに頷いた。そして、母親の部屋を見上げる。
「…いつか、母上と一緒に見られるようになるといいな」
「そうですわね」
ささやかで切ない希望にカトレインは心から同意した。奇跡が起きてくれることを願わずにいられなかった。
しかし、それは呆気なく打ち砕かれた。
十日後、収穫月中旬八曜日。ロウィニア王妃ナタリア・ブロンスカヤの訃報が王国全土に発表された。まだ三十一歳の若さだった。