2 王太子と王妃
普通の子供のスタニスワフと複雑な事情がある王妃。
翌日、ポニャトフスキ公爵と共にカトレインは王宮に伺候した。スヴェアルト宮殿は首都パデレシチ郊外にあり、公爵家の馬車は広大な森を抜けると白亜の宮殿に到着した。
登城してすぐに、カトレインは周囲の視線が全く違うことに気付いた。かつて弟と一緒に遊びに来たときは微笑ましそうな好意的なものがほとんどだったのに、今はどこか探るような視線が全方位から浴びせられてくる。
自分が王太子の遊び仲間ではなく、婚約者として見られているためだと彼女は自覚した。そしてここで怯えた様子を晒してつけ込まれてはならないと頭を上げる。
娘の気丈な態度に、公爵は満足げな顔で宮殿を歩いた。謁見の間に向かう途中の回廊で、彼は知り合いに挨拶した。
「これはチャルトルィスキ侯、陛下にはもう拝謁されたのかな」
声をかけられたチャルトルィスキ侯爵エウゲニウシュは尊大な口調で答えた。
「国王陛下は大層上機嫌なご様子で、閣議にも参加されるとか。そちらの御令嬢のおかげかな」
言葉とは裏腹な冷え冷えとした目を向けられ、カトレインは淑女の礼をした。侯爵の背後には彼女と王太子妃の座を争ったアンゲリカとその弟クシシュトフがいる。揃って非友好的な顔をしているのは見なくても分かった。
アンゲリカはレースとフリルに埋もれるようなドレスで体積を五割増しにしていた。侍女たちの試行錯誤の結果、すっきりとしながらも少女らしさを前面に出した薔薇色のカトレインのドレスとは対照的だった。
「ご機嫌よう、侯爵閣下、アンゲリカ様。これから王太子殿下にご挨拶と王妃様のお見舞いに参りますの。では」
笑顔で登城の目的を述べると侯爵は顔をこわばらせ、姉弟は顔を真っ赤にさせた。
ポニャトフスキ公爵と令嬢がさっさと立ち去ると、同じような横広がり体型の侯爵令嬢と令息は口々に父親に不満を訴えた。
「何、あの勝ち誇った態度。御一門の権力ごり押しで婚約者になれたくせに」
「そうですよ姉上。私を無視するなど何様なのだ、あの女は」
それには答えず、侯爵は政敵の後ろ姿を睨み続けた。
宮殿の奥、王族の私的な区画に来てカトレインは父親と別れ、紅葉も鮮やかな庭園で婚約者と対面した。
王太子スタニスワフは九歳。枯草色の髪と青灰色の瞳を持つ健康でやんちゃな少年だった。彼は公爵令嬢をまじまじと見上げた。
「カトラが婚約者になったんだよね。じゃあ、ずっと一緒にいられるの?」
「そうです、殿下」
未来の伴侶の返答に、王太子の眉毛が情けなく下がってしまった。
「婚約者は『殿下』って呼ばなきゃ駄目?」
数度瞬きした後に、カトレインは側に控える王太子の乳母ロステン夫人を見た。彼女は苦笑気味に頷いた。公爵令嬢は王太子に向き直り、昔からの愛称で呼びかけた。
「お望みのままに、スタシェク様」
「うん!」
ぱっと笑顔に切り替わった王太子は、いつも婚約者と一緒に遊びに来ていた幼馴染みを探すようにきょろきょろした。
「ヘンリクは?」
この質問を予期していたカトレインは焦ることなく答えた。
「あの子はこれから勉強が始まりますので、今までのようにご一緒は出来なくなりました」
「ふうん」
残念そうに、彼は庭園に植えられた赤樫の木を見上げた。
「木登り競争したかったのに」
「ヘンリクは三本目の枝まで登れたと言っていましたわ」
同じように木を見て、公爵令嬢は何の気なしに言った。スタニスワフは口を結び、決意の表情で大きく頷いた。そして、さっさと靴と靴下を脱ぐと赤樫に駆けていき、するすると登り始めた。
呆気にとられたカトレインはすぐに我に返ると、ロステン夫人や護衛に言った。
「殿下をお助けして。殿下、危ないですわ!」
「カトラ、見て! 四本目の枝まで登れたよ!」
「分かりましたから、そこを動かないで!」
得意げに枝に跨がる少年を梯子を持ち出した護衛が救出するまで、カトレインは生きた心地がしなかった。
「申し訳ございません、私が付いていながら殿下を危険にさらしてしまいました」
木登り騒動後に王妃の居室を訪れたカトレインは、部屋に入るなり平身低頭で謝る羽目になった。
そんな彼女に王妃ナタリア・ブロンスカヤは優しい声をかけた。
「いいのよ、怪我もなかったのだし、そんなに自分を責めないで」
侍女たちが用意した椅子に座り、カトレインは王妃の様子を伺った。
胸の病で公務から遠ざかっている王妃は今日は体調がいいのか、ゆったりしたドレスで長椅子に座っている。美しい金髪をゆるく三つ編みにまとめた彼女はどこか少女めいて見えた。
「でも、私が迂闊に弟の木登りのことを口にしたせいですから」
「あなたに良い所を見せたかったのね」
王妃が笑い、侍女たちも笑顔を見せた。息子とよく似た青灰色の目を庭園に面した窓に向け、ナタリア王妃は呟くように言った。
「ここから、よくスタシェクが遊ぶ声が聞こえるの。あなたの弟たちと一緒に駆け回って、転んだり落ちたりしたらあなたが助けて叱る声も」
カトレインは頬が熱くなるのを感じた。
「……それは、お騒がせしてるとは気付かず…」
「あの子の元気な声が聞こえて嬉しかったわ。あの子があなたを慕っているのもよく分かったし」
王妃は細い腕を公爵令嬢に伸ばした。
「婚約者があなたに決まって本当に嬉しいわ」
その手を握り、カトレインは真摯に答えた。
「ご期待に添えるよう、殿下をお守りします」
王妃は微笑み、少女の薔薇色の頬にそっと触れた。
「愛してあげて。それだけでいいのよ」
そう囁いた後で彼女は咳き込み、侍女たちが長椅子に寝かせた。王妃が薬を服用し眠りに落ちるのを見届けて、カトレインは部屋を辞去した。
主席侍女であるジュワウスキ伯爵夫人が庭園まで見送ってくれた。公爵令嬢は彼女に尋ねた。
「王妃様のご病状は」
伯爵夫人は哀しげに首を振った。カトレインは沈んだ声を出した。
「スタシェク様…王太子殿下は面会も出来ないのですね」
王妃の病気は伝染性のもので特に幼い子供には危険が大きいこともあって、彼女はほとんど息子と会えていない。
「最初は、軽いものだと聞いていたのに…」
「多分、モルゼスタンのことがあってから悪化されたかと」
王妃ナタリア・ブロンスカヤはロウィニアと友好関係にあったモルゼスタン王国の王女だった。だが彼女の祖国はザハリアスやアグロセンなどの列強の侵攻を受け、分割統治という形で地図から消えてしまった。
父である国王は離宮に幽閉され、家族は離散という状況が王妃の心身を打ちのめしたであろうことは想像に難くない。
このことは息子であるスタニスワフにも影響を及ぼした。母親の実家の後ろ盾がなくなったのだ。
おそらく、国内貴族の最大派閥の領袖であるポニャトフスキ公爵家に縋ったのは強力な外戚が彼を保護してくれることを期待したからだろう。
一国の王女が実家を失い病で我が子を守ることも出来ないのはどれほどの無念かと、カトレインは王妃の心中を推察した。
哀しげに王妃の居室を見る彼女に、ジュワウスキ伯爵夫人が告げた。
「このような折ではございますが、ご婚約おめでとうございます。王妃様の見込まれた方を私どもも応援しております」
「ありがとうございます」
どうにか礼を言って、カトレインは迎えに来た父親と共に宮殿を後にした。