12 幕間
夜中に婚約者とはいえ淑女の寝室に侵入するなど論外の行為なのだが、カトレインは驚きの方が勝っていた。
「どこからバルコニーに入られたのですか」
婚約者の当然の問いかけに、王太子はあっさりと白状した。
「僕の部屋のバルコニーから飛び移ったんだ」
ここは十階だという事実に気が遠のく思いで、公爵令嬢は冒険に心を躍らせている少年を見た。ロステン夫人が知れば出発まで禁固状態かも知れない。
「そんな危険なことを…」
おろおろする少女に、スタニスワフは後ろに隠していた物を差し出した。それは薄紅色の花弁も可憐な八重咲きの花束だった。
「これを渡そうと思って。あ、勝手に取ったんじゃないよ。中庭で綺麗に咲いてたからカトラに贈りたいって言ったら、ここの人が花束にしてくれたんだ」
「…そうですか」
花束を抱え、カトレインは婚約者と共にソファに座った。スタニスワフは興奮気味に言った。
「今日の式典でカトラが技師の人たちにローディン語で挨拶してたの、凄く堂々としてて格好良くて、綺麗だった!」
「ありがとうございます」
思いきり直截に褒められて、公爵令嬢は戸惑った。そして、恐怖の記憶に呑み込まれそうになったときのことを思い出し、少年に告げた。
「スタシェク様がいてくださったからです。私一人では逃げ出していたかもしれません」
「そんなこと…」
否定しようとした王太子は、花束を抱えて嬉しそうに微笑む婚約者を前にして言葉を失った。
「本当です。気弱になった私を励ましてくださったことは忘れません」
「当たり前だよ。昨日は怖い目に遇わせちゃったんだし、カトラは僕の婚約者なんだから」
「…はい」
再びの微笑は薄く涙を含んでいた。ふわふわした気持ちを堪えてスタニスワフは立ち上がった。
「明日はまた汽車に乗るんだよね。おやすみ」
「おやすみなさい」
当たり前のようにバルコニーに向かう王太子に、カトレインは言った。
「スタシェク様、お帰りは廊下を利用してくださいね」
有無を言わせぬ笑顔で指示され、スタニスワフは反転してドアから出て行った。
静寂が戻ってきた寝室で、カトレインは花束を眺めて溜め息をついた。これを渡してくれたときのスタニスワフの手を思い出す。
まだ自分より小さな手が、あの恐怖を払いのけてくれた。頭を上げ前に進むことでしか打ち勝てないと教えてくれた。優しく力強かった温もりを思ううち、ある考えが浮かんだ。
いつかあの手は自分よりも大きくなることを。
その思いは彼女の鼓動を一気に跳ね上げた。はしたないと鎮めようとしても動悸は収まらない。
薄紅色の花に顔を埋めるようにして、カトレインは座り続けた。
そっと入ってきた王太子を見て、ロステン夫人は目を瞠った。
「いつの間に出て行かれたのですか」
「カトラにお休みを言ってきたんだ」
「花束を渡してこられたのですね」
王太子の乳母は納得顔で頷いた。スタニスワフは上機嫌で室内を歩いた。
「だって、今日のカトラは凄く立派だったよね。みんな褒めてたし」
「左様でございますとも。さすがは御一門の姫君、殿下の婚約者に相応しいお振る舞いでした」
「うん」
その後寝台に追いやられてからも、スタニスワフはなかなか寝付けなかった。人々の歓声と拍手がまだ耳の奥に残っているような気がする。喝采の中でお辞儀をするカトレインの姿に誇らしい気分が湧き起こった。誰もが王太子の婚約者を褒め称えた。
「……僕の、婚約者」
さっき本人に言った言葉が今口に出すとどこか違った意味合いを持つような気がした。
「僕だけの人」
いつも優しい年上の幼馴染みが花束を抱えて微笑む姿は彼から見ても可愛らしかった。あと何年かして彼女の背丈を追い越し釣り合いのとれた婚約者になれたとき、自分の目に彼女はどう映るのだろう。彼女には自分はどう見えるのだろう。
落ち着かない気持ちを抱え、スタニスワフは何とか眠ろうとした。
翌日、王太子一行は市庁舎などを表敬訪問した後で再びお召し列車に乗り込んだ。客車内には立派な花瓶が置かれ、薄紅色の花が飾られていた。見覚えがある物にスタニスワフがカトレインを振り向いた。彼女は頷いた。
「殿下がくださった花と一緒に旅をしたいと思いまして」
「そうだね」
二人で経験したことや育っていく気持ちも共に旅をするような気がして、スタニスワフは嬉しそうに花瓶を眺めた。
彼らを見送る群衆の中にグレツキ商会の者もいた。
「殿下はなかなか肝が据わってるじゃないか」
先代会頭ミハウが面白そうに言うと、彼の息子モリスはやや複雑そうに同意した。
「まだ王妃様がご存命の時にレフを連れて王宮に行ったとき、自然に仲良くなって泥団子を作ってたな」
それを聞いてミハウは声を立てて笑った。
「そうかそうか、面白いことなら平民からでも吸収するんだな」
そして、彼は息子に告げた。
「ちょっとグロースに行ってくる。レフ坊を借りるぞ」
「何するつもりなんですか」
疑わしげな現会頭に、隠居した先代は食えない笑顔を向けた。
「玩具で遊ぶだけさ」
セービンの南西、王都パデレシチ。
スヴェアルト宮殿の奥にある後宮は一見平穏を保っていた。あくまでも水面上ではあるが。
水面下は激流そのものだった。昨日は某伯爵の肝いりで入宮した側室が国王の寵を賜って懐妊したようだと噂が流れれば、今日はそれはなかったことにされ某侯爵の養女が懐妊したらしいと話にのぼる。
事実は当人のみが知ることだが、懐妊と囁かれた者が何故か体調を崩し部屋に引きこもるのが後宮の日常となっていた。時折、部屋からは悲鳴と泣き声、怨嗟の言葉が聞こえてくる。
それらを心地よい伴走曲のように聞きながら、最も格式高い部屋に住まう側室ヴェロニカ・ブラウエンシュテットは客人を迎えていた。
黒髪の美女はゆったりとした室内着で船型の長椅子に寝そべり、来客であるスコルプコ男爵に微笑みかけた。
「新参の小娘どもが騒がしいでしょう」
「どれも取るに足らない小者。いずれ命を惜しんで逃げ出すのが関の山ですな」
「酷いお言葉ね」
笑う彼女は王妃の生前から後宮に入ってきたチャルトルィスキ侯爵派閥の側室で、国王リシャルドとの関係も長い。王妃の死後はあちこちふらついていた国王だが、最後はいつも彼女の元で愚痴をこぼすのが常だった。
「陛下も義理のお渡りがすめば、名前も覚えていないような小娘のことなどすぐに頭から消し去ることてしょう」
「ヴェロニカ様に勝る者などここに存在しません」
「それでも、一時の気の迷いからの落とし胤もありうること」
「そちらはお任せください」
男爵は冷酷な微笑を浮かべ、後宮の奥の部屋に顔を向けた。そこでは、閉じ込められた若い側室が必死に助けを呼んでいた。
「誰か! お医者様を呼んで! 陛下の御子が!」
彼女の叫びは無視され、侍女たちは何事もなかったかのように廊下を行き来した。
式典の成功を見届けたポニャトフスキ公爵家の長男エドムンドは急ぎ王都に戻り父公爵に事情説明をした。
「まさか直接別荘を襲ってくるとはな」
「兄さんが間に合わなかったらどうなってたか」
同席していた次男テオドルが眉をひそめると、エドムンドは自身の見解を述べた。
「ですが、あれは殿下のお命を狙ってのことでしょうか」
「何を言う、死者も出ているというのに」
「しかし、確実に殿下を亡き者にするのであればもっと大人数で、あるいは別荘に爆薬を仕掛ければすむことです」
「ならば、どんな目的があると言うのだ」
「殿下を式典に参加させないことでは」
「王太子の地位に相応しくないと思わせるためか」
しばらくの沈黙の後、公爵は息子たちに言った。
「エデルマン元帥にこのことは伝えてある。グロースではザモイスキ家の守備隊が厳重警護をしてくれる。我々は宮中に巣くう害獣をあぶり出すぞ」
御一門の令息たちは頷いた。そして、エドムンドがあることを確認した。
「宮殿でセルゲイ殿を見かけませんでしたが」
「あの御仁は自分の親衛隊を率いて王都を出て行った」
エドムンドは意外そうな表情を浮かべた。
「行き先は?」
「国境地帯の有力貴族に雇われるとか聞いたが」
流浪の王子は傭兵として身を立てるのだろうかと彼らは推測した。




