1 婚約決定
スタニスワフ9歳、カトレイン13歳から始まります。
夜風に秋の終わりが忍び寄る葡萄月中旬五曜日。
ロウィニア王国首都パデレシチ。スヴェアルト宮殿周辺の貴族街の中でも最も豪壮な邸宅に主が帰宅した。
ポニャトフスキ公爵ヴァツワフは出迎えた執事に家族の所在を訪ねた。
「イザベラと子供たちは?」
「奥様はお嬢様方と遊戯室においでです。ご子息たちは自室に」
恭しい返答を聞き、公爵は妻と娘たちがいる部屋に向かった。ドアを開くなり、挨拶も省略して彼は告げた。
「元老院が承認した。カトラに決定だ」
末の娘たちを遊ばせていた公爵夫人イザベラは、夫の短い言葉で事情を悟った。傍らの長女、『カトラ』の愛称で呼ばれるカトレインを見つめて侍女を呼ぶ。
「この子たちを子供部屋に連れて行って。それからエドムンドとテオドルに肖像の間に来るようにと」
「はい、奥様」
侍女に呼ばれた乳母たちが幼い娘らを連れて行き、別の者が上の息子たちの元へと急ぐ。一足先に部屋を出て行く公爵を見送り、イザベラは長女に声をかけた。
「カトラ、一緒に来て」
「はい、お母様」
ポニャトフスキ公爵令嬢カトレインは今年十三歳。十一人兄妹の第三子で、母親の鹿毛色の髪と父親の琥珀色の瞳を受け継いだ両親自慢の惣領娘だ。
広大な公爵邸を二人は歩いた。ポニャトフスキ家はロウィニア王家をも凌ぐ富と権勢で知られ、『御一門』と呼ばれるほど貴族間でも抜きんでた存在だ。敵対勢力はいても表だって対立することはなく、揺るぎない地位を築いている。
母娘は肖像の間に入った。この部屋はそれほど広くはなかったが、壁には公爵家の先祖の肖像画が並んでいる。昔から一族の重大事を決定する場所となってきた部屋だ。
ポニャトフスキ家の長男エドムンド、次男テオドルがすぐに入室した。十八歳と十六歳の兄弟は緊張した様子で母や妹と並んで椅子に座った。やがて着替えを済ませた公爵が肖像の間に姿を現し、家族の前に座った。彼は妻子に告げた。
「スタニスワフ王太子殿下の婚約者にカトレインが決定した」
公爵家から未来の王妃が出るということだが、手放しで喜ぶ者はいなかった。
「他の勢力から反対は出なかったのですか」
エドムンドが尋ねると、公爵は首を振った。
「元老院ではなかったが、反動はこれからだろう。殿下はカトレインの四歳下だ。そのことを突いてくることも考えられる」
年齢的には必ずしも釣り合いが取れているとは言えないが、公爵家の子供たちはカトレインの下は弟が続き、妹たちはまだ幼児と乳児という状況だった。公爵は重要事項を話した。
「今回の件では、王后陛下がカトレインを強く推してくださった」
「王妃様が…」
公爵夫人が呟き、納得したように娘を見た。王太子の母であるロウィニア王妃ナタリア・ブロンスカヤは胸の病でここ数年伏せっている。幼い息子を支えられる女性を婚約者にしたかったのだろう。
「カトラ、これからは王太子殿下とお前で小宮廷を作っていくことになる。殿下の側近候補として多くの者が集まってくるだろう。お前もよく吟味することだ」
父親の言葉にカトレインは頷いたが、同時に気になることがあった。
「お父様、ヘンリクはどうなさるおつもりですか?」
公爵家の四男ヘンリクは王太子と一歳違いで、よく一緒に遊んだ仲だ。しかし、公爵は首を振った。
「ヘンリクを側近に加えれば、我が一族が殿下を囲い込んでいる印象を与えかねない」
「分かりました」
カトレインは父の意見に従った。そして、王太子に会えなくなり寂しい思いをするだろう弟を傷つけない方法を考えた。
隣に座る公爵夫人が、そっと娘に囁いた。
「側近でなくても殿下のお役に立つことは出来るわ」
カトレインは頷き、公爵は息子たちに向けて言った。
「これより、我が御一門の最優先事項は殿下が無事に国王に即位されることだ。王后陛下が我々を支持したのなら、国王陛下を籠絡しようとする者が必ず出てくる」
将来公爵家を担うことになる息子たちは真剣な顔で父の言葉を頭に染みこませた。エドムンドが彼に質問した。
「対抗勢力の筆頭はチャルトルィスキ侯爵家でしょうか」
「考えられるな。娘を王太子妃にしそこねたのなら後宮工作をしてくる可能性は大いにある」
長男の言葉に公爵は同意した。ロウィニア王国は建国期に南方大陸文化の影響が強かったため、西方大陸には珍しく後宮が存在する。王宮奧の宮、かつて「花鹿苑」と呼ばれた離宮がそれだ。
王国内で最大勢力となっているポニャトフスキ公爵家を敵視する大貴族の中でも、対抗意識を隠さないのがチャルトルィスキ侯爵家だ。現在、後宮で最も影響力の大きい側室ヴェロニカ・ブラウエンシュテットはかの侯爵家の派閥から送り込まれた女性である。
侯爵の長女アンゲリカは王太子の婚約者の座を最後まで競っていたが、肝心のスタニスワフには近寄らせてももらえない有様で周囲の失笑を買っていた。
「アンゲリカ様は初対面の印象が悪すぎましたから」
公爵夫人が回想した。
ただでさえ威圧的な体格の彼女が幼い王太子めがけて突進した挙げ句に猛獣扱いされてしまったことを子供たちは思い出した。兄たちがくすくすと笑い、テオドルが冗談めかして言った。
「殿下が弓矢で撃退したのは痛快だったな」
兄の言葉にカトレインが反論した。
「笑い事ではありませんわ、お兄様。玩具だからよかったものの、もし怪我でもさせていたら侯爵家がどんな強硬手段に出ていたか」
「確かに、責任を取れと王太子妃にねじ込むくらいはやっていただろうな」
次男の見解は辛辣だった。公爵が娘に言い渡した。
「殿下はまだ幼く感情のままに動きがちだ。それを抑えるのがお前の役目と思え」
公爵家の子供たちは頷いた。
やがて公爵と息子たちはより詳しい話をするために書斎に移動した。残された公爵夫人イザベラは娘の髪を撫でて溜め息をついた。
「とても光栄なことだけど、できればもっと苦労の少ない所に嫁がせたかったわ」
心配する母を慰めるようにカトレインは笑った。
「私、スタニスワフ殿下のことは好きですから」
無邪気な発言に公爵夫人は再度溜め息をついた。
「今日は早く休みなさい。明日は殿下と王妃様にご挨拶に伺うのだから」
カトレインは立ち上がり、母親に挨拶をして私室に下がった。
寝室では、彼女付きの侍女たちが興奮を隠せない様子で口々にお祝いの言葉を述べた。
「おめでとうございます、お嬢様」
「公爵家の誉れですわ」
「きっとお似合いのご夫婦になられますよ」
実感の湧かない未来のことを言われても、カトレインは曖昧に笑うだけだった。年長の侍女頭が浮かれた空気を引き締めた。
「さあ、お嬢様は明日のご登城が控えているのですよ。早くお休みにならねば」
侍女たちはうって変わった様子で令嬢を着替えさせ、寝室から退出していった。
一人で寝台に横たわったカトレインは、自分の運命が大きく変わったことをぼんやりと考えた。
彼女にとって一番古い王宮の記憶は片手に弟、片手に王太子の手を引いてとことこと庭園を散歩したことだ。
それからは、弟と一緒に宮殿に行っては王太子が弟たちと遊ぶのを見守るのが常だった。正直、手のかかるもう一人の弟という認識以外を持ったことがなかった。
「でも、好きなことには変わりないわ」
それ以上のことが必要なのか、カトレインにはまだ理解できていなかった。