第三章「五里霧中」
何も見えない中、止まり続けたいと思いが一番強くあった。それでも、先を見なければならなかった。
第三章「五里霧中」
朝、いつも通りの時間に目を覚ました佐々木は、身支度を整えて出社した。
ワイドショーで昨晩の八木の事件が話題になっていたが、昨日よりは扱いが小さくなっていた。
むしろマスコミは、昨晩のプロ野球の試合の結果、朝一都内で起きたトラックの横転事故といった新しいニュースに興味を映しているようにも思えた。
絶えず情報が入るこの世の中では、13年前の殺人犯等、すぐに忘れされてしまうのだろう。
事件後、何度も住所や連絡先を変えた結果か、昨晩は、マスコミから連絡が入ることもなかった。
今頃、13年前の事件の生き残りである自分を探しているのかもしれないが、もしかしたらマスコミの興味自体、次の事件に移ってしまっているのかもしれなかった。
事務所に入ると、ちょうど浅井が電話をしているところだった。
大した要件ではないのか、佐々木が事務所に入ってくるのを見ると、早々に電話を切り上げた。
「おい、大丈夫か?」
電話を終え、こちらを見た浅井は、佐々木の顔をマジマジと見た後に、そう声をかけてきた。
「すいません。少々寝不足なもので。顔に出ているほど体調は酷くありません。大丈夫です。」
心配をかけないように、できる限り普段通りの口調で返す。
実際、眠気はそこまで酷くなかった。
むしろ寝不足の疲れよりも、昨晩の自身の夢の内容の方がひどく心を動揺させている状況だった。
犯人が捕まり、そしてその正体を垣間見た昨日。
それは、佐々木の心に巣くっていた悪魔、自身の体験を打ち消すほどの衝撃を与えてくれた。
彼にとって、殺人犯とは、自身にいつまでも恐怖を与えてくる存在、忘れえぬトラウマとなりつつあった存在であった。
されど、昨日見たニュース等で見た男には、そのような恐怖は全くなかった。
哀れな中年男性。
世の中に見捨てられた負け犬のような存在。
同時に佐々木の脳裏に浮かんだのは、13年前の事件の時の恐怖が、まやかしであるという思い。
当日の異常な状況、そして未成熟だった自身の精神性が見せた、実物以上の恐怖の思い込みが自身を苛んでいたのではないかという思い。
しかし、そのような思いと裏腹に昨晩の夢は、佐々木に未だ当時の恐怖を残し続け、恐怖と一体化した当時の犯人像が消え去っていないことを教えてくれた。
つまるところ佐々木は、自身の当時のトラウマから逃げ出せず、その恐怖にいまだ苦しめられていたのであった。
「さっきの電話、どこからか分かるか?」
浅井は、こちらに気を遣うように声をかけてくる。
「いや、仕事の件じゃないんですか?」
とりあえず、体調を整えながら仕事をこなすことを考え、佐々木は応える。
「I新聞の記者からだ。昨日の犯人逮捕について、色々と話を聞きたいらしい。」
つまりマスコミからの取材申し込みが入ったのだろう。
「他にも何社からか似たような話も来ているし、警察の方からも連絡が来ていた。全員、直接の連絡先を知らないから、とりあえず勤め先からあたろうと考えているんだろう。」
言われてみると、佐々木は、事件後何度も電話番号を変えていた。
その理由の一つに、このようなマスコミ達の取材が嫌になり、同時に13年前のあの事件から逃げたいという気持ちが強く出るたび、その場所から逃げるという代替行動があったと思う。
「まあ電話の件は別として、体調は大丈夫なのか?」
浅井は、改めてこちらを気遣う様子で話を振ってくる。
「ただの寝不足だとしても、昨日の今日だ。少し休みが必要なら、融通はできるぞ。」
余程、体調が悪く見えるのだろうか。確かに夢のせいで、少々本調子でなかったのは確かであり、体と心は休みを求めているようにも感じられた。
「いえ、大丈夫です。何かしている方が気が紛れるので。」
ただ、下手に休みをもらう気にもならなかった。
夢のせい、そして八木という存在のせいで、自身のリズムを崩していることを認めるのが癪でもあったし、同時に今この場から離れたところで、無駄に考え込むだけになると
考えたのであった。
それなら、仕事をして気を紛らわしたほうがいい。
浅井はこちらをもう一瞥すると、「分かった」といい、そのまま仕事の指示を与えて自分のデスクに腰を掛けて書類の整理を始めた。
佐々木もそれに倣い、PCを立ち上げ必要なファイルを開いていく。
キーボードを叩きながら仕事をしているうちに、佐々木の頭の中は、今取り掛かるべき仕事の内容に占められていき、同時に今朝の夢を意識の奥に追いやりつつあった。
仕事を初めてしばらくしたタイミングで電話が鳴った。
普段電話を一番に取る事務の女性たちはそれぞれ別の電話に出ており、対応が出来そうもなかったので、佐々木は受話器を取ることにした。
「はい。こちら浅井法律事務所。」
「おや、佐々木さんか。ちょうどよかった。先日、八木容疑者が逮捕されましたが、そのことで少しお話を頂けませんかね?」
電話先の声の主より八木の名前が出た瞬間、佐々木は頭が真っ白になり、そのまま受話器をたたきつけ、電話を切った。
音が響いたのだろうか。
他の席のメンバーが心配そうにこちらを見ている。
仕事に戻ろうとしたが、さっきの電話が反芻し、どうしても作業に身が入らずにいると浅井がこちらにやってきた。
「どうした?」
詰問するわけでもなく、ただ事実だけを確認するようないつもの平坦な声色を聞くことで、佐々木は少々落ち着きを取り戻した。
浅井は、身振りで佐々木を呼ぶと人がいない応接間に入っていった。
佐々木も続いて応接間に入る。
応接間は、黒を基調とした落ち着きのある家具が配置され、訪れた人がリラックスできるような空間を演出していた。
この品のいい家具は、浅井が妻と相談をしながら決めた、自慢の一品ということを聞かされたことがあった。
お互いにその品のいいソファーに腰を掛けると、浅井から口火を切った。
「さっきの電話、どうしたんだ?何かあったのか?」
先程と同じように、事実確認をするような落ち着いた口調を続けながら浅井は話しかけてくる。
この声に落ち着きを取り戻しながら、佐々木は応える。
「実は、八木の名前を電話口で聞きまして。」
浅井は、特段反応も示さず、頷くようにして、言葉を続けるように示した。
「それで、取り乱してしまったというか。すいません。」
何も言わない浅井に急かされるように佐々木は言葉を続け、会話を切る。
浅井は、相変わらず黙ったままこちらを見ている。
それは一瞬だったかもしれない。
だが、言葉が完全に途絶えた静寂を打ち破ったのは浅井だった。
「何故、謝るんだ?」
それは、こちらを責めるような、詰問するような口調ではなく、ただ純粋に疑問に思った質問を口に出したような自然な問いかけだった。
「いえ、皆さんの仕事のペースを乱すような真似をしてしまったので、申し訳なく思い。」
どこか言い訳するような口調で、とりあえずの理由を述べる。
浅井は、それを聞くと少し考えるようにして、改めて口を開いた。
「八木の件、大丈夫なのか?」
八木の名前が耳に入る。しかし浅井の口から出たその名前は、不思議と佐々木を怯えさせることはなかった。
「はい、実は今朝も夢を見まして。」
「夢?」
浅井の声には、どこかこちらを落ち着かせるような響きがあった。
佐々木は、その言葉に流されるように、今の自身の状況をすべて話すことにした。
今朝見た夢の事。
八木に怯え続けているようなこの13年の事。
八木の逮捕にも関わらず、夢の中の八木は、未だに自分にとって拭えない恐怖を与えてくること。
佐々木が全てを話し終えた後、浅井は、少し考えた後に口を開いた。
「藤井先生には、話しているのか?」
藤井先生は、事件後お世話になっているカウンセラーの先生だった。
事件後に当時の親代わりだった祖父母が知り合いの伝手を頼り、とりあえずで紹介をしてくれたことが出会いだった。
今でも月に一度のペースで会ってはいる。
「過去に見た夢のことは話していますが、最後に会ったのは三週間ほど前なので、昨晩の夢のことは話していないですね。」
その言葉を聞いた浅井は、また考え込むように黙り込む。
それから五分ほどだったタイミングだろうか。
応接間の入り口がノックされ、事務の女性の一人がドアを開けて入ってくる。
「先生、井上様がお見えですが。」
来訪者の報告を聞くと、浅井は、時計を見て慌てて立ち上がる。
お互いに話し込むうちに、すっかりと予定していた来客の時間になってしまったのだ。
「すまん、この話の続きは後でしよう。」
浅井は、服装を軽く整えつつ、入り口に向かって歩きながら、そう声をかけてくる。
「はい。」
慌てて佐々木も、頭を仕事に向けて切り替えながら、自分の席に向かう。
しかし、そんな佐々木に衝撃的なことを浅井は話してきた。
「八木に会いに行くか。」
聞き違いかと思った佐々木は、慌てて浅井を見る。
浅井はこちらを見ながら、されど次の仕事に向かいながら、言葉を続ける。
「八木の件、後で詳しいことは相談しよう。」
そう話すと、浅井は、こちらを振り返らずに客の対応に向かった。
後に残された佐々木は、今一度、浅井の言葉の意味を考えながら、自分の席に着くことにした。
”八木に会いに行く。”
それは、今の佐々木が、一番望んでいる事であり、同時に一番恐れている事でもあった。
~第四章へ続く~