序章「それは突然に」
貴方が憎んでいる相手が、没落をしている事を知った時、貴方はそこに幸せを見出せるだろうか?
序章「それは突然に」
弟の悲鳴が聞こえる。
助けてくれと叫んでいる。
自分は、その声が聞こえないよう必死に耳をふさぎながら、そいつにばれない様、音もたてずに物陰に隠れている。
目の前には、母親が倒れている。
首筋をきられ、血が止まらずにぽたぽたと流れ出る。
その目にすでに光はない。
弟の声が聞こえなくなる。
そいつがこちらに向かってくる音がする。
息を止めて、必死にこらえる。
そいつの音は、そのまま自分に気づかず、階下に降りて行ったようだ。
一安心した自分は、ふと隣を見る。
そこに、正気を失ったような目をしながらも、満面の笑みを浮かべたそいつが座っていた。
目を覚ます。
時計は朝の5時20分。
布団の中の佐々木は、汗にまみれて荒い息を吐いていた。
上体を起こし、携帯を開く。
同時にテレビをつけ、適当に今日のニュースを見る。
ニュースキャスターの声を聴きながら、自分が見ていたことが、夢だったことを実感しながら、佐々木は落ち着きを取り戻した。
布団をかぶりなおし二度寝をするには、時間は遅かった。
佐々木は、そのまま起きあがると少し早い朝食の準備に入った。
出来上がった朝食をテーブルに並べると、コーヒーを飲みながら一息をつく。
新聞には、いつものような取るに足らない記事が並べられている。
しかし、新聞の日付をみてふとため息をつく。
8月21日。
13年前のその日、佐々木の家族は、皆殺された。
強盗だった。
父親、母親、姉、弟、全員殺された。
その時の記憶をふと思い出し、先ほどの夢と結びつける。
家族を一夜に亡くした悲しみ。
自分自身の死を実感した恐怖。
しかし、佐々木の心に残り続けたのは、自身が助かったときの喜びと、家族の死を糧に生き延びた自分の喜びに対する罪悪感。
そして、自分の家族を殺した犯人の顔を見たとき、その目に込められた殺気を直に感じ取った畏怖。
これらは、13年経った今でも、佐々木の心に深い傷を残し続け、時折、今朝の夢のように佐々木を苦しめ続けていた。
犯人は、分かっていた。
近所に住んでいた、八木浩一郎という失業したサラリーマンだった。
別段、お互いに交流があったわけでもない。
同じ町内に住む者として、面識はあり、顔を合わせれば会釈をする程度の中だった。、
そんな男が、リストラを苦にし、一家皆殺しの殺害強盗。
当時のマスコミは面白おかしく騒ぎ立て、八木は全国に指名手配をされ、警察も必死に行方を追った。
しかし彼は捕まることなく、この13年間を逃げおおせ、今に至るのである。
当時、40代前半だった彼は、今は50台中盤になったのだろうか。
事件が合った時、佐々木は、17歳の高校生だったが、その後、大学に入学、卒業し、今は社会人となっている。
佐々木の記憶に親の仇である彼の顔は残っているものの、これほどに時間が経った今、彼を町で見かけたとしても、それが八木であると断言はできないであろう。
それほどに、この13年は長く、佐々木の記憶から当時の事件は、徐々に薄れていたのである。
車に乗り、勤め先に向かう。
家族を皆殺しにされた男が選んだ職場は、小さな弁護士事務所だった。
事務所に入ると事務員の中年の女性が「おはよう」と声をかけてくれる。
それに応えながら、自分の席に向かうと、彼の雇い主である、浅井が自分の席で書類をまとめていた。
中年といえる世代を終え、既に初老に入りつつある浅井は、背が低いものの、そのがっしりとした体つきと焼けた浅黒い肌で、白髪が目立ちつつあるものの、その衰えを感じさせない存在感がある男だった。
あの事件の後、佐々木には様々な支援活動があった。
カウンセラー、奨学金、犯罪被害者の遺族の会…。
そのような活動の中で当時、未成年であった佐々木への遺産の問題に関する弁護士として出会ったのが浅井だった。
当時、家族を皆殺しに会った佐々木家の遺産は、もうすでに年金で地方で暮らしている祖父母と佐々木自身で分けることとなっていた。
しかし、判断力が疎く、力もない未成年を食い物にしようとする輩は世の中に多く、また、当時大々的に放送された佐々木は、そのような輩にもカモとして広く認知されていたのである。
そのような佐々木の現状を鑑み、同時に佐々木を守るために、親族の何名かが相談を持ち込んだ税理士や弁護士の中に浅井がいたのである。
浅井は、当時の佐々木の現状を確認するとすぐに動き、自身の仕事を進めていくと同時に、当時未成年であった佐々木に親身に対応をしてくれた。
「俺には、女房がいたが子供はいなくてな。それもあってか未成年が関係している案件にかかわることが多いんだ。」
親交が深くなってから、酒を飲むたび、浅井はそのような台詞をよく話した。
それは、今現在、佐々木が浅井の事務所で働くことになったことときっと無縁ではないだろう。
「今日は、夕方まで戻れないから、佐々木は事務所にいてくれ」。
席に着くと、浅井は、こちらを一瞥し指示を出してくる。
その言葉にうなずきながら、今日中にまとめるべき案件の資料を確認する。
浅井は、行ってくる。と一言述べるとそのまま事務所を出て行った。
佐々木は、それを見送ると、書類の作成を始めることにした。
午前中は何事もなく時間が過ぎた。
そして書類の作成に目途がついたタイミングで、浅井から電話が入り、仕事の状況の確認と、何件か指示が入る。
それらを確認しながら時計を見ると、ちょうど13時を回ったタイミングだった。
少し遅いが昼食を取りに外出をすることにし、事務所内の他のメンバーに声をかけて事務所を出る。
そのまま行きつけの蕎麦屋に行き、かけそばを食べ、一服をする。
時刻はちょうど14時前。
午後からの仕事に思いをはせながら事務所に戻り、仕事に入る。
ペース良く仕事をこなしながら、浅井に電話で言われた案件の確認を進めていく。
浅井から佐々木の携帯に電話が入ったのは、ちょうど仕事の終わりに目途もついた16時頃であった。
勤務中の時間帯の電話は、普段は事務所の電話に掛けられる中の携帯電話への着信を訝しみながら、電話に出ると浅井の声が電話口で響いた。
「忙しいところ、すまないな。仕事の状況はどうだ?」
人ごみの中にいるのか電話の後ろから多くの人々が騒いでいる声が聞こえる中、浅井の声は、普段通りの話し方のようでありながら、どこか上ずっているような印象があった。
「ご指示を頂いていた書類の準備については、大体終わりました。後は細かい修正と確認ぐらいです。」
「そうか、ご苦労様。ところで今、近くに誰かいるか?」
事務所を見回す。他のメンバーは外出、パートの事務員は先程タイムカードを押して帰宅をしていた。
「いえ、自分だけですが。」
それを聞いた浅井は、そうかと呟くと、そのまま静かな口調で言葉を続けた。
「八木が捕まったぞ。」
~第二章へ続く~