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撞く緑の乙女  作者: 翼 翔太
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第一話

挿絵(By みてみん)

 芝生に一脚の椅子。離れたところにある餌台には鳥が数羽きて餌をついばんでいる。それをエメロウド・ジョワは座ったまま微笑んで鳥たちを眺めていた。太陽の光で長い緑色の髪がその名前のとおり緑色の宝石のように艶めいていた。

「愛らしい鳥たち。もっと近づけたらいいのに」

 エメロウドはぽつりと続けてつぶやいた。

「あなたたちの世界は、この髪を受け入れてくれるかしら? この忌み嫌われた、魔物の色を」

 この国デュールスフェールでは緑色の髪の人間は、前世で悪魔と関わりを持ったものとされている。

「前世のことなんて誰も知りはしないのに、どうしてそんな風に言われるのかしら」

 そのとき鳥たちが慌てて羽ばたいていった。背後から声がかかる。

「エメロウド様、ラム様がお出でです」

 使用人は頭を下げていた。それは使用人として当然のことではある。

(でも私は知っている。皆、私の髪を見たくないからうつむいている)

 それでも彼女は使用人を責めることはできなかった。

「わかりました。部屋に通してください」

「かしこまりました」

 使用人が去ると遠くでピィ、チチチッと鳥の鳴き声がした。エメロウドはゆっくりと腰を上げた。

「ラムが待ってるわ。行かなくちゃ」

 エメロウドは自身の部屋へと向かった。鳥の鳴き声はすぐに聞こえなくなった。

 

 キングサイズで天蓋付きのベッドに大きな衣装だんすがある、人ひとり用にしては広すぎるとも言えるそこがエメロウドの部屋だ。楓のベージュ色のドアを開けると友人であるラム・フィエリテグランが円卓にひじをついて庭を眺めていた。

「待たせちゃってごめんなさい、ラム」

 ラムは青とも銀ともとれる髪を揺らしエメロウドのほうを振り向いた。そして静かに立ち上がった。

「いや、さほど待っていない。気にしないで」

 その口調はエメロウドと同じ貴族でもはきはきとしている。そんな彼女にエメロウドは席を勧めた。ラムは再び腰を下ろした。

「今日は騎士団長としての仕事は休みなの?」

「ああ。ひさしぶりだよ。……ここまでくるのに、本当に長かった」

 ラムは庭のほうを見て言った。

「私の家系は、王国の騎士団長を代々数多く輩出してきた。それはきみも知っているだろう、エメロウド。父に代わって騎士団長の地位に就いたが、まだ若輩でしかも女だ。当時はなかなか部下の信頼を得られなくて、思い悩んだよ」

そのとき二人の使用人が飲み物を運んできた。

「グリューワインか。いいね」

「ええ。よかったら飲んで」

「ありがとう、いただくよ」

使用人はテーブルとドアの前の二回お辞儀をして部屋を出た。赤いワインの色を見ながらラムは言葉を続けた。

「父に近づこうとすればするほど、部下の心は離れていった。

でもある時、気が付いたんだ。私は父を尊敬するあまり、父のような騎士団長になろうとした。それが間違いだった。貨幣に価値があっても、その模造品には価値はあるまいってね。それから父が出来なかった事、まだ行っていなかった事、そして自身がやりたかった事を見つけ、新しい騎士団に創り上げていった。まあまだまだだけれどね」

ラムはグリューワインを口に運んだ。

「ラムはとっても立派よ。すごいわ」

 そう言ってエメロウドもグリューワインに手をのばした。口の中に渋みと砂糖の甘味、クローブなどの香辛料が香る。ラムは静かに首をふった。

「まだまださ。……うん、おいしいっ」

「よかったわ。騎士の方々はどんなお酒を飲むの?」

「ん? そうだな、エールやミードかな。こんなワインは我々くらいしか飲めないだろうよ」

 ラムはもう一口グリューワインを味わうように飲んだ。

「私はエールもミードも好きだけどね」

「ラムはお酒が得意なのね」

「部下たちといると自然とね」

 今度はエメロウドがもう一口グリューワインを口に含んだ。

「きみのほうはどうだい?」

「そうね。……ああ、そういえばこの間絵を描かれたわ」

「ほう。なんだ、見合いでもするのかい?」

「まさか。でも本当に急だったの。お母様に『絵描きが来たから描いてもらいなさい』って」

「うーむ。なんか怪しいな。あのおば様が言い出したことだと特に」

 エメロウドと今の母とは血が繋がっていない。血の繋がった母はエメロウドを産んだときにこの世を去ってしまった。

「あまり疑いたくはないけれど……。

 ごめんなさい、やめましょう。こんな話」

 エメロウドは仕切り直すようにグリューワインを飲んだ。

しばらく雑談をしているとラムが唐突に言い出した。

「そうだ、このワインを飲み終わったらキャロムビリヤードをやろう」

「ええ? 私がキャロムビリヤード苦手なの、わかってるでしょう?」

「だからといって避けて通れないじゃないか。キャロムビリヤードは我々貴族の嗜みだからね」

 キャロムビリヤード。ビリヤード競技の一つで、手球を撞き一度のショットで手球を二つの異なる球に当てることが目的の競技だ。これがエメロウドは苦手だった。いくつもあるゲームの方法に、球が何度当たった、バウンドしたなど数え方。うまく手球を当てるために必要な計算。考えなくてはいけないことがたくさんあるのだ。

「ほら、私が教えてあげるから。四つ球から、ね?」

 エメロウドは渋々頷いた。グリューワインからは刺激的な香りも味もなくなってしまった。

 グリューワインを飲み終えたエメロウドとラムはキャロムビリヤード専用の部屋へ移動した。

 腕を広げた人二人くらいの長さに、同じく一人分ほどの幅。けばつきの少ない布を使った、穴一つない台。外側には上下左右それぞれ等しい間隔で白い丸が描かれている。壁には何本も立てかけられたキューと呼ばれる専用の棒。

 ラムは並んでいるキューの中から一本選んだ。

「エメロウドはどれにする?」

「どれでもいいわよう。結局一緒だもの」

「だ、め。キューの太さと重さで撞ち方が変わってくるんだから」

 エメロウドは溜息を吐いた。ラムは二本のキューを手にとりエメロウドに差し出した。

「太くて重いとパワーショットが撞てる。細くて軽いと回転を中心とした撞ち方ができる。どっちがいい?」

「……軽いほうがいいわ。重いのは嫌だもの」

 エメロウドの意見を聞いたラムは選ばれなかったほうのキューを片付けた。エメロウドは仕方なくキューを受けとった。

「四つ球でやろう」

 四つ球。名前のとおり、手球二つと得点になる球二つの計四つを使ったゲームだ。それぞれの手球が白と黄色、当てると得点が入る球二つは赤色だ。手球に赤い球が当たると得点が入るゲームで、キャロムビリヤードでは最も簡単なゲームだ。

「点数はそうね……エメロウドが三十点、私が百点でどう?」

 キャロムビリヤードにはどのゲームにもゴールになる点数がある。ゼロの状態から始め、決まった得点を先にとったほう、もしくは得点の取得率が高いほうが勝ちとなる。

「いいわよ……」

 二人は横一列にそれぞれの手球を置いた。同時に手球を撞く。それぞれの手球は真っ直ぐ転がりバウンドして戻ってくる。戻ってきた球が手前の側面に近かったほうが先攻後攻のどちらかを選ぶことができる。今回は中指一本分しか手前の側面と離れていないラムが、どちらかを選ぶことになった。

「後攻を選ぼうかな」

「じゃあ私が先攻ね」

 エメロウドは言った。エメロウドは白い球を撞いた。赤い球二つを、台の中心部分に縦一列で並べた。エメロウドは白い球を撞こうとした。そのときラムが声をかけた。

「もう少しフォームをきれいにすれば当たりやすくなるかもしれない」

「フォーム?」

 ラムは頷いてエメロウドの隣に立った。

「まずブリッジはできる?」

 ブリッジとは空いている手でキューを支えることだ。撞く球によって作るブリッジの種類も異なる。

「スタンダードブリッジはできるわ」

 エメロウドは自身の手を台の上に置いた。手のひらに空間を作って人差し指を上げ、中指の第二関節に親指をくっつける。そのまま人差し指を下ろして輪を作る。その輪にキューを通した。

「こうでしょ?」

「そうそう。じゃあVブリッジは?」

「それもできるわ」

 エメロウドはスタンダードブリッジを解いて、もう一度台の上に手のひらを置いた。その下に空間を作り、親指を人差し指の付け根に添える。その親指の上にキューを乗せた。

「ほらね」

「うんうん。よく使うブリッジはできてる。次はフォームだ。足は無理のない範囲で広げる。そして横ではなく、狙う方向へ真っ直ぐ。狙い、キューの先、頭、足が一直線になるのをイメージして」

 エメロウドは右足を前に出した。するとラムは「あ、エメロウドは右利きだから左足を出して」と言われ構え直した。

「それから空いている手をキューの下でめいっぱい伸ばして。そうそう、親指の上でキューを構えて。中指も使って支えて。……そうそう、中指が三角形に近くなるように。その状態でできるだけ顎をキューに近づける。視点が定まりやすくなってショットの命中率も上がる。

 フォームはこれでオッケー。あとは肘を動かさずに撞つ。そうじゃないとキューの先がぶれてしまうから。さあ、撞ってみて」

 エメロウドは言われた通りにしようとした。しかし肘がぶれてしまった。カンッと赤い球になんとか一度当たりはしたが、球はバラバラの位置に飛んでしまった。赤い球はラムの手球といっしょに二等辺三角形を描いていた。

「ぜ、全身ぷるぷる震えるわ」

「意外と筋力使うからね」

「あら、そんな簡単なゲームで音を上げるだなんて、ジョワ家の人間が情けないですこと」

 エメロウドとラムは部屋の入口のほうをふり返った。そこには長い髪を高い位置でまとめ、まつ毛の長い女性が立っていた。年齢は四十代に見えるが家の中にも関わらず派手なドレスを着ている。

「お母様」

「ラムさん申し訳ありませんわ。娘が不出来で」

「いえ。そんな風には思っておりませんのでご安心ください、おば様」

 ラムはエメロウドの母をにらんだ。エメロウドはぐっとキューを力強く握った。

「そんな娘相手にしなくても、この国で一、二を争う腕前のあなたならもっと楽しくゲームをできる人がいらっしゃるでしょうに」

「私はエメロウドとゲームをしたいのです。お気になさらず」

「あらまあ、お優しいこと。でも嫌になったら、いつでも『切って』くださってよいのですからね。それでは失礼」

 エメロウドの母はビリヤード部屋を出て行った。ラムは閉められたドアを敵のように睨みつけていた。

「相変わらずだな、きみのおば様は」

「ええ。しょうがないわ。……血が繋がっていないもの」

 継母は三年前、エメロウドが十一歳のときに父親が再婚してやってきた。

「それにこんな髪に生まれてしまったんだもの。どんなことを言われても仕方ないわ」

「髪の色がなんだっていうんだ。緑色の髪が前世で悪魔と関わりがあったからなんて、根拠がないにもほどがあるじゃないか」

 エメロウドはふわりとラムに微笑みかけた。

「ありがとう、ラム。私、あなたの言葉に何度助けられたかわからないわ」

「よしてくれ。当たり前のことじゃないか」

 エメロウドは首を横に振った。

「でもね、本当にもう平気。お母様にも使用人の態度にも慣れた。お父様も愛してくださっているけれど、どこか私を恐れてらっしゃるの。でも大丈夫。多少恐れられようが、嫌悪の目で見られようが。……もう平気」

 エメロウドは微笑んで心の中で一、二、と数字を数えた。そうではないと笑みが崩れてしまいそうだった。投げかけられる言葉や視線に対する心はずいぶんと痛みが感じにくくなっていた。それでも友の前では泣いてしまいそうだった。ラムは不服そうにエメロウドを見ていたがその内大きく溜息を吐いた。

「まったく。とにかくなにかあれば絶対に言ってほしい。いいね?」

「もちろんよ。ありがとう」

「さて、じゃあゲームに戻ろうか」

 そう言って四つ球のゲームは再開された。

 キャロムビリヤードは手球が二つ以上の球に当たらない、ファウルをするといったことが起こらない限り撞き続けることができる。エメロウドは地道に二点ずつ、赤い球とラムの手球に一度ずつ当てて点数を稼いでいた。しかし五度目、赤い球に当たることなく終わった。ラムに順番が変わる。

 ラムは子どもがおもちゃを散らかしたような球の配置から、見事に赤い球二つを当てた。赤い球を一度に二つとも手球に当てると、三点入る。それからさらに赤い球二つにエメロウドの手球にも当て、五点入れた。すべての球に当たると五点もらえる。

 ラムの撞き方は見事だった。回転を巧みに使いバックスピンをかけたり、手球が撞いた少し転がった先でぴたりととまるなど、エメロウドにはとてもではないができない技を披露していた。ラムがようやくショットを外したのは、二十点とったときだった。この撞き合いをあと九回、互いに撞き終わって一回、一キューの合計十キューで一ゲームとなる。

 素晴らしい腕前のラムが撞き終わった後は、ボール同士が近い位置にあり撞きやすくなっている。エメロウドはそっと撞き、三点、五点と高い点数をとっていた。しかし回数を重ねるとだんだん球は互いの距離が開いていった。今では四つの球でひし形を描いていた。

「うーん、どうしてラムはあんなに球が集まって私は広がっていくのかしら」

「エメロウドはまだ回転がかけられてないからね。回転がかけられるようになると、近づけることもできる。それからどれを撞くとどういう角度で跳ね返るか計算をするかとか、もっとできることが増えれば球も撞きやすくなるし、高い得点をとれるようになるさ。

キャロムビリヤードはどこに行ってもすることになるだろうし、ある程度はできて損はないと思うけれど……」

「その繊細さが苦手。少しでもずれてしまえば当たらない。もっと寛容でもいいと思うわ」

 エメロウドの言葉を聞いたラムはくすくすと小さく笑った。

「そんな理由だったのか」

「だってえ……」

「ごめんごめん、からかうつもりはなかった。ほら、エメロウド。まだ君の番だよ」

「わかってるわ」

 エメロウドは唇と尖らせながら手球を撞いた。しかし赤い球には一つも当たらずラムの順番になった。

「ねえ、なぜラムはそんなにキャロムビリヤードができるの?」

 カンッと赤い球二つに当たりラムに三点入る。

「父は騎士として私を育てるのと同時に、貴族としての教育を欠かさなかった。私が恥をかかないようにってね。そのせいかな。剣の練習並みに厳しかったけれど」

 ラムは回転をかけて球を引き寄せ赤い球二つを当てた。何度も撞いている内に球は再び肩を寄せ合うように集まった。球同士の距離はとても近くなるとラムはキューの角度を上げた。まるで高いところから下に向かって槍を投げるような姿だった。そしてそのまま撞いた。

「すごい、今のマッセっていう撞き方なんでしょう?」

「ああ。下手をすると台を傷つけてしまうから気を遣うけれどね」

 マッセは通常では難しい強い回転をかけることができる。そのおかげかひそひそ話をするように集まった球三つはそれほど離れずに済んだ。そのままラムの番が続いた。

挿絵(By みてみん)

 その後エメロウドにも順番は回ってきたが結局、ラムの圧勝だった。

「点数と後攻というハンデがありながら負けるなんて笑い話にもならないわ……」

 エメロウドは言った。

「でも前より点数がとれるようになったよ」

「そうだけれど……」

 ラムはキューを片付けながらエメロウドを慰めた。エメロウドもキューを片付ける。

「さて、もうそろそろお暇するよ」

 ラムはそう言って帰った。

 その日の夜、自分の部屋の鏡台に向き合ってエメロウドは自身の髪を眺めた。毛先まで艶があり、どこからどう見ても緑色だった。

「緑は魔物の色。木々が緑色でも嫌われないのは、人ではないから。そういうものだから。私の髪は? そういうものではないの?」

 エメロウドは髪をぐっと掴んだ。その声色は助けを求めるようにも涙を堪えているようでもあった。

「お母様……どうして私を普通の女に産んで下さらなかったの?」

 この世にはもういない産みの母に対するその一言を聞いた人は誰もいなかった。


 ラムとキャロムビリヤードのゲームをしてから一週間。いつものように鳥を眺めていると使用人が慌ててやってきた。

「エメロウド様、エメロウド様っ」

「どうしたのですか?」

「こ、こちらが、エメロウド様にっ」

 使用人が差し出したのは一通の封筒だった。それは赤い縁取りがされていて裏には王家のエンブレムの蝋印が押されていた。

「お、王家からっ? あ、ありがとう」

 使用人は頭を下げてその場から立ち去った。エメロウドは何度も裏と表を見た。確かに表には『エメロウド・ジョワ様』と書かれている。エメロウドは恐る恐る封筒を開けてみた。


『エメロウド・ジョワ様


 この度は王子の妃候補のご応募ありがとうございます。エメロウド・ジョワ様はこの度最終候補にまで残られたことをお知らせいたします。つきましては以下の日程に城にお越しいただけますようお願い申し上げます。

 六月二十日午前十一時 舞踏の間


 デュールスフェール国王子 サージェ・アム』


「王子っ? 妃候補って一体……」

 エメロウドは、はっとした。ドレスのすそを持ち上げて継母の元へ小走りで向かった。

「お母様っ」

 エメロウドは継母の部屋の前に使用人がいるのにも関わらず、自身の手で開いた。

「なんですか、エメロウド。ノックもせずに。ああ、部屋には入ってこないでちょうだい。あなたには入られたくないわ」

 継母の汚いものを見るかのような目つきなど気にせず、エメロウドは封筒を肩の高さまで持ち上げた。

「お母様、妃候補って……これは一体どういうことなんですか? 先日絵描きに絵を描かせたのは、まさかこの為だったのですか?」

「あら、通ったの? 王子もずいぶんと変わってらっしゃるのね」

 まるで他人事のように話す継母にエメロウドは再び尋ねた。

「どうしてこんなことをなさったのですか? 私にはなんの相談もないだなんて」

 継母は刺すように鋭い視線でエメロウドを見た。

「相談? なぜ私があなたなんかに相談しなければいけないのです。王子が妃を募っていると聞いたから退屈しのぎに絵を送ってみたけれど、まさか最終選考の八人の内に残るとは思っていなかったわ。まあ頑張るのね。緑髪のあなたなんか、この先どうなるかわからないんだから。むしろ結婚のチャンスを作った私に感謝してほしいわね」

 エメロウドは手紙を持っていないほうの手で拳を作った。爪が皮膚に食い込み血がにじむ。

「……失礼いたします」

 エメロウドは頭を下げることなく継母の元から去った。

 自身の部屋に戻るとエメロウドは天蓋付きのベッドに身を投げ出した。うつむいて布団を握りしめる。

「お母様、そんなに私をここから追い出したいのね。それにわざわざ王室に私の絵を……。あの人のことだから私が恥をかけばいいと思って妃候補に出したんだわ」

 エメロウドの心は岩よりも重く沈んだ。継母が来たばかりはこっそり涙を流していたが、今ではそれもなくなり、落ちこむ回数も減った。今日はずいぶんと久しぶりに精神的に大撞撃を受けた。

「王室のことだからやめます、なんて言ったらどうなるか。やっぱり行くしかないのね」

 恋愛結婚ができるとは決して思っていなかったエメロウドであっても、嫌がらせで結婚を決められるのは悔しかった。

「それにしてもなぜ王子様は私を選んだのかしら。……実は王子様もお母様と同じように私に恥をかかせる為だとか? それとも『だれも差別しません』っていうパフォーマンスの為?」

 エメロウドの心はさらに重く苦しくなった。

「どうでもいいわ。笑われたり嫌そうに見られても平気なように覚悟しておかなくちゃ」

 エメロウドはそのままゆっくり目を閉じた。


 王子が十九歳になると国中に妃候補を募集するおふれが出される。貴族の女性はこぞって絵描きに自画像を描かせ、王室に送る。そして落選した女性には順番に真っ白な封筒が、最終候補の八人に残ると縁が赤い封筒が送られてくることになっている。

 最終的な妃候補八人が城にやってくるときには、城下町に住んでいる貴族たちは一目でも最終候補者を見ようと、馬車が通るたびに窓からこっそり顔を覗かせる。

 そして最終候補に残った貴族の娘はやることがたくさんある。物をまとめるだけでなく、親族や付き合いのある貴族に挨拶をして回らなくてはいけない。その数も二百年以上続くジョワ家ともなれば一日に何軒もの貴族の家を訪問しなくてはいけない。

 あいさつ回りの三日目の十一時過ぎ。ラムがやってきた。普段着ではなく、騎士団長としての服装に身を包んでいた。応接間にエメロウドの父、継母、エメロウド、ラムの両親の計六人が三人ずつ向き合うように、雲のように柔らかいソファーに座った。先に口を開いたのはラムの父だった。

「実は王子の妃の最終候補に残りまして、そのご挨拶に参ったのです。これまで娘によくしていただいてありがとうございます」

 それを聞いたエメロウドは驚きのあまり、父親よりも先に口を開いてしまった。

「えっ、まさかラムもなの?」

「まさかって……エメロウドも妃の最終候補に?」

「ええ、そうなのです。私たちも挨拶に伺おうと……」

 エメロウドの父はそう言葉を続け男性同士で挨拶をしていた。ラムが身を乗り出して小声でエメロウドに話しかけてきた。

「もしかして先日絵を描かれたのは……」

「ええ。この為みたい」

 エメロウドもラムと同じ音量で返事をした。

「それにしてもラム、あなただって意外よ。まさか妃候補として絵を送っていただなんて」

「私の意志じゃない。お母様だよ。あの人は私を騎士としてではなく、女として育てたがっていたから。勝手に描かせて送ったんだよ、私の承諾もなしに。封筒が来た日なんか揉めに揉めたさ」

 ラムが怒っているのは小声でもよくわかった。互いの父親の咳払いに気がついた二人は再び背筋を伸ばした。

「よろしければ城へ行っても娘のことをよろしくお願いします」

「いやはやこちらこそよろしくお願いしますよ」

 父親二人は気楽そうに笑った。エメロウドも内心ほっとしていた。

(ラムがいればほかの人に笑われても大丈夫。味方がいるだけでだいぶ違うわ)

 ラムとラムの父親はほかにも挨拶をしなくてはいけないため、ジョワ家を去った。

「エメロウド、我々も行くよ。準備なさい」

「はい、お父様」

 エメロウドは湯浴みをするために浴室に向かった。

 全体の三分の二は紺色で、体の中央に水色のバラの柄が描かれている布が縫われているドレスにエメロウドは身を包み、父親とともに挨拶回りに行った。どの貴族も大変驚いたあと慣例に倣って祝いの言葉を述べた。

 城に行くまでのあいだ、荷物をまとめた。衣装はエメロウドの意志に関係なく豪奢なものを新たにあつらえられ、家具も一新された。これまで使っていたものはエメロウドが城に入ると処分される。それは一種の願掛けで、見事妃になれるように新しいものだけを持って古いこれまでのものを捨てることになっている。そうだとわかっていてもエメロウドは寂しかった。

(まるでもう一生帰ってくるな、と言われているようだわ。もう必要ないと言われているかのよう)

 鳥の餌台も新たに作られたものが城に運ばれ、これまで使っていたものは潰される。城はこれまで使っていたものを持って行くことを禁止してはいない。ただ、貴族が願掛けでそうしているだけだ。王族はこんな願掛けも知らないかもしれない。

(そんな願掛け、意味があるのかしら)

 そんな風に思いながらもエメロウドは逆らうことができなかった。

(どうして逆らうことができるのかしら、娘が父親に。……私は緑色の髪。なおさらだわ)

 エメロウドのそんな気持ちとは裏腹に準備は着々と進み、城へ向かう前日となった。

 その夜眠ろうとしていたとき、継母がエメロウドの部屋にやってきた。

「お母様、どうされたんですか?」

「あなたに渡さなくちゃいけないものがあるのよ」

 継母はそう言って使用人に黒檀のケースを持ってこさせ、エメロウドに渡させた。

「開けなさい」

 エメロウドはそう言われ、ケースを開けた。そこには二つに分解されたキューがベルベットの生地に包まれていた。

「このキューは……?」

「あら、あなた知らないの? 王家の最終候補に残って入城する際にはキューを持って行くのよ。あなたはキャロムビリヤードができないし、ろくなキューを持っていないだろうからこれをあげるわ」

 エメロウドはもう一度キューを見た。トラのような黄色のしま模様の上半分とインクよりも真っ黒な下半分。それは妖しいほど艶がありずっと見ていると吸いこまれてしまいそうだった。エメロウドは慌てて視線を外した。

挿絵(By みてみん)

「あ、ありがとうございます、お母様」

「ふん。それを持ってさっさと出て行ってちょうだい。私はあなたのお父様のことは愛しているけれど、あなたのことは決して愛していないの」

 最後にその言葉を残して継母は部屋に戻った。

「そんなの、とうの昔に知っているわ」

 誰もいなくなった部屋でエメロウドはぽつりと呟いた。そしてキューの入ったケースをベッドの側に置いて眠ることにした。

 

 次の日、とうとう城に入る日となった。城にはエメロウドだけで行くことになっている。家の紋章が入った馬車と荷馬車で王都ボークに向かう。人々の視線が馬車の中にいてもわかった。城下町に住んでいるわけではないエメロウドにとって、この城下町を通り過ぎるだけではもったいなく感じた。窓の外を見ていると同じように城に向かう馬車が何台も走っていた。

「これ、私と同じ最終候補に残った人たちなのかしら」

 エメロウドはぼんやりとそんな風に思った。

 しばらくすると城下町の真ん中に建っている城の足元まで近づいてきた。エメロウドは窓から城を見上げた。雪のように真っ白な壁に赤い屋根。三つに分かれた棟。

「まあ、とても大きい。家なんてめじゃないわ」

 そのときふと視線を感じた。並走している馬車の窓から女性が見えた。タレ目で左目に泣きぼくろがある。窓にかけているカーテンのせいで顔が半分しか見えないが、女性だろう。その人は微笑みかけていた。急に恥ずかしくなったエメロウドは軽く頭だけ下げて、窓にカーテンをかけて外を見るのをやめてしまった。

「田舎者と思われてしまったかしら。まったく、私ったら。城での私の行ないがジョワ家の評判にも繋がるんだから、しっかりしなくちゃ」

 エメロウドは頬を叩いた。

「……ごめんなさい、お父様。私が緑色の髪で。ジョワ家が悪く言われてしまうかもしれない」

 さっきまでの興奮がしぼんでしまったエメロウドは窓に頭を預けた。


 跳ね橋が下りてくるギギイという音がした。

「そうか、もうお城の中なのね」

 自然とエメロウドの背筋が伸びた。しばらく再び走っていると馬車が止まった。三十秒もしない内にドアが開けられた。エメロウドはいつも通り御者に手を預けゆっくり二段の階段を下りた。するとすぐに真っ青で金糸の刺しゅうが入った服に身を包んだ男性がエメロウドの元にやってきた。

「エメロウド・ジョワ様でございましょうか」

「はい。ごきげんよう」

 エメロウドはドレスの裾を持って足を軽く曲げ挨拶をした。男性も右手を胸に当て頭を下げた。

「舞踏の間までご案内いたします。お荷物はまだこちらに置いたままでお願いいたします。キューのみお持ちください」

 御者がキューの入った箱を馬車の中からとってきた。待っておいてほしいとエメロウドが頼むと御者は頷いた。

 男性が先を歩き、エメロウドはそのあとをついて行った。

 門の内側は赤い絨毯が敷かれており、天上にはシャンデリアが当たり前のように設置されていた。目の前の階段を上がり二階につくと、真正面に踊っている男女の彫刻が施されている扉があった。

「王子がいらっしゃるまでこちらでお待ちください」

 男性はそう言って扉を力いっぱい開けた。エメロウドが入ったことを確認すると男性は一礼して扉を閉めた。

 白い大理石の床、横に長いテーブルが一脚。テーブルの中央にある椅子には宝石などが飾られているので王様の席であろうことは容易に想像できた。次に左隣の椅子、そして右隣の椅子の順に煌びやかなので、女王と王子の席だとわかる。

「まあ緑の髪っ! 不吉だわっ」

 舞踏の間を見ていたエメロウドにそんな言葉が投げかけられた。声は舞踏の間中に響いた。

「なぜ悪魔と関わったものが? 王子は一体どういうおつもりなの?」

 エメロウドはその場にいる四人に挨拶をした。

「初めまして、エメロウド・ジョワと申します。どうぞお見知りおきを」

 エメロウドの耳にひそひそ話が聞こえた。それは幼い頃から何度も体験していることだった。

「王子がお決めになったことよ。わたくしたちがどうこう言えることではないじゃない。いちいち騒ぐとお里が知れますわよ」

 そう言うと一人の少女がエメロウドのほうをふり返った。絹のような金髪に大きなルビーのブローチがよく似合う。薄いオレンジ色で裾や胸元から腹部にかけて描かれたバラのドレスを着ている。少女はエメロウドに挨拶をした。

「わたくしはヴィクティ・アルシェンティ。どうぞよろしく」

 そのとき扉が開かれた。皆の視線が一斉に扉に集まる。入ってきた妃候補の一人はエメロウドを見て「あ、悪魔と関わったものがこんなところにっ? おお、神よ」と言って胸の前で十字を切った。ヴィクティはそれを見てつまらなそうに溜息を吐いた。

(信心深い方なのね。ならこの緑髪は恐ろしいでしょうね)

 信心深い人ほどエメロウドの髪の色を恐れる。それはエメロウドの十四年の人生で学んだことの一つだった。

 皆それぞれのために用意された椅子に腰かけて静かに待っていた。ただ一人、エメロウドのあとに入ってきた少女はロザリオを握りしめてぶつぶつとなにか唱えていた。

 さらに一人やってきて、最後に入ってきたのはラムだった。

「お待たせして申し訳ない。騎士団の仕事が押してしまいました」

「あら、あなたが騎士団長のラム・フィエリテグラン様? お勤めお疲れ様ですわ」

 そう労ったのはヴィクティだった。ラムはエメロウドと目が合うと小さく手を振った。エメロウドも振り返す。ラムが来て妃候補が揃うと一層空気が張りつめた。互いに目があえば火花が散っているのがエメロウドには見えた。

 いくつも火花が散り合って花火になるのではないかとエメロウドがこっそり思うようになったころ、扉が開きエメロウドをこの舞踏の間に案内してくれた男性が入ってきた。

「皆様お揃いになりましたので、王子を呼んでまいります。もうしばしお待ちください」

 そう言うと男性は頭を下げて去った。八人の間にさっきまでとは違った緊張が走った。

(そういえば王子ってどのような方なのかしら? ……なぜ私のような緑色の髪の女をお選びになったのかしら)

 ギィと重そうな音がして扉が開いた。

「サージェ・アム王子、ご入室うっ!」

 入ってきたのはエメロウドよりも四歳か五歳ほど年上の青年だった。長いすみれ色の髪に優しさと厳しさを兼ね備えた目つき、しゃんとして自信に満ち溢れた歩き方。エメロウドを含めた妃候補八人は慌てて跪いた。ふわりとドレスの裾が花のように咲く。サージュ王子は普段自分が座っている椅子に腰を下ろすと八人に言った。

「どうか椅子にお座りください。どうぞ、肩の力も抜いて」

 声は低くも威圧感は与えず、愛しみに満ちていた。八人は同時に椅子に座った。

「ご足労いただきありがとうございます。どうか今日から一年、ここを自分の家と思って過ごしてください。この中に僕が尊敬できて人生を共に歩める方がいることを確信しています。どうか、皆さんのお名前などを教えてください」

 王子の言葉が終わると男性が「それでは入室した順番に王子にご挨拶を」と言った。するとエメロウドの右斜めにいた少女が腰を上げた。十五歳くらいに見える。

「オネット・サジュフィーユと申します。一刻も早く王子にお会いしたくて一番乗りしてしまいました。このような心をどうかお笑いになってください」

「オネット、そのように思ってくださってどうして笑うことができましょう。とても嬉しく思います」

 オネットはもう一度かがんで自分の席に戻った。するとオネットの隣の妃候補がすうっと立ち上がり屈んで王子に挨拶をした。タレ目が印象的で左目のところにほくろがある。

(さっき馬車で見かけた人かもしれない)

 エメロウドはそんな風に思った。

「シャルル・アルミチエと申しますう。王子といっしょにいろんなお話をしてみたいですう」

「シャルル、僕もです。互いの好きなこと、好きなものを紅茶でも飲みながら語らいましょう」

 シャルルの次に立ったのはヴィクティだった。

「ヴィクティ・アルシェンティです。王子、キャロムビリヤードはお得意ですか? ぜひ一度、いえ一度と言わず何度でもお手合わせ願いたいものです」

「ええヴィクティ、得意ですよ。どのようなゲームもできますのでぜひやりましょう」

「たとえ王子がお相手であっても負けませんわ」

「ふふ、とても強気だね。僕も気合を入れないといけないな」

 ヴィクティは満足そうに席に戻った。次に王子に挨拶をしたのはつり目が印象的な人だった。

「アンビー・テナシテでございます。王子、得意なキャロムビリヤードをぜひご教授ください」

「ええ、もちろんですよアンビー。またそちらに伺った際には丁寧に教えましょう」

 エメロウドの番になった。エメロウドはゆっくり王子に近づき挨拶をした。

「エメロウド・ジョワと申します。王子、どうか一つ教えていただけませんでしょうか」

「なんだい、エメロウド」

「……なぜ私を妃候補にお選びになったのですか? 王子もご存知でしょう、この緑色の髪の言い伝えを。それなのに、なぜ……」

 エメロウドは自然とうつむいていた。そんなエメロウドに王子は優しく声をかけた。

「どうか顔を上げて、エメロウド。宝石と同じ名の人よ。あなたの髪はとても美しい。それに緑色は恋の色でもあります。だからあなたを妃の候補として選んだのです。その艶のある、恋の色の髪を持つあなたを。だからどうかそのように思わないで。きれいな髪の色の人」

 そのようなことを言われたのは初めてだった。エメロウドは一瞬息がつまった。そしてまるで温かい液体が一滴落ちて水面を揺らすように、その言葉が全身に染み込んだ。

(恋の色。この髪の色が、恋。恋の色。美しいなんて……きれいな色だなんて、そんな言葉、初めて言われたわ)

 自分の席に戻るエメロウドの心は気持ちよく高鳴っていた。彼女にとって蜂蜜のような甘い王子の言葉が胸の中で何度も繰り返された。

挿絵(By みてみん)


「……それではこれより妃候補の皆さまの親睦を深めていただくために、親善大会を行ないます。皆さま、キューをご用意ください」

 男性の声でエメロウドはようやく現実に帰ってきた。エメロウドのあとにきたラムを除く二人の名前がラークル・プリエー、ジョリー・リュヌラだということは辛うじて頭の片隅に残っていたが、ほとんど脳内で王子の言葉が繰り返されていた。

 使用人たちが重そうなビリヤード台を四台運んできた。何度も地面に置いて、舞踏の間の四隅に設置した。そして白と黒の円盤がいくつもついた、得点を記録する台を持ってきた。得点の台の白と黒の円盤はそれぞれ分かれていて交互に並んでおり計六段ある。

「それではまずはオネット様とラム様、シャルル様とアンビー様、ヴィクティ様とジョリー様、エメロウド様とラークル様で一戦をお願いいたします。点数は一人五十点とします。ゲームはバンドゲームとさせていただきます」

(バンドゲームって、二つ目の球を当てるまでに、台の側面に一バウンド以上しないといけないやつでしょ? どうしよう、四つ球でも苦手なのに……)

 王子は舞踏の間を見渡した。エメロウドは急に焦り始めた。

(王子にかっこ悪いところを見られてしまう……どうしよう。でも逃げられないし……)

「ちょっと、早く準備してくださいます?」

 冷や汗をかいているエメロウドにいらついた声でそう言ったのはあの信心深いラークルだった。エメロウドは「すみません」と謝りキューをとり出した。二つに分かれたキューをセットして台についた。すでにラークルの手で赤い球を頂点に縦に長い二等辺三角形を作られていた。エメロウドとラークルは横に並んで立ち、同時に自分の手球を撞った。赤い球を当てないように気をつける。ラークルのほうが近かった。

「私は先攻をとらせていただきます」

 ラークルは自分の白い球をエメロウドの隣に置いてその位置から撞いた。まずは赤い球に当たり奥と右側の側面にバウンドしてエメロウドの手球に当たった。これで一点だ。四つ球は当たった球の数や当たり方によって入る点数が変わるが、このバンドゲームを含むいくつかのゲームはどれだけ球に当てても入る点数は一点ずつだ。ラークルは続けて撞く。一点また一点と点数が追加されていく。六点とったところでラークルはバウンドさせることなく二個目の球に手球を当てた。順番はエメロウドに交代した。

 エメロウドはキューの先端をチョークの入った立方体で磨く。こうすれば滑らないようにできるのだ。エメロウドが継母からもらったキューは細くて軽いタイプのもの、つまり回転を多用するタイプのものだ。エメロウドはキューを構えた。しかしエメロウドも一バウンドする前に二つ目の球に当たってしまった。つまり、一点もとれていない状態で、だ。

「交代ですわ」

 一キュー目が終わった。ラークルが球同士離れている状態から何度も撞いていると、惹かれ合うようにボール同士の距離が短くなり、一まとまりに近い状態になった。

(あんなに球同士が近い状態でバウンドなんてできるのかしら)

 しかしエメロウドの疑問など吹き飛ばすように、ラークルはどれだけ球同士が近くても必ず一度台の側面にバウンドさせていた。集合の号令がかかったかのような三つの球は次第に離れていく。すると反対に撞きやすくなったのか続けて得点を入れた。ラークルは二回目の自分の番でさらに六点加点した。合計で十二点だ。再びエメロウドの順番が回ってきた。エメロウドはかつてラムに言われたことを思い出しながらキューを構えた。

(狙いに対して直線をイメージして、空いている手をめいいっぱい伸ばして親指の上で構える。肘は固定して……)

 カンッと耳障りのいい音がした。赤い球にエメロウドの手球が当たった。そのまま一番近い側面にバウンドしてラークルの手球に当たった。

(よしっ)

 ころころと三つの球は好き勝手に転がり、ラークルの手球は奥へ赤い球は左側へ、エメロウドの手球は赤い球の側で止まった。

(まずは赤い球を当てて、奥にバウンドさせてラークルの手球に当てれば……)

 しかしエメロウドの作戦は失敗に終わり、赤い球に当たりはしたもののラークルの手球には当たらなかった。

「あなた、まるで素人ですわね。回転も使わないなんて。それともなめられているのかしら?」

 二キュー目が終わり、自分の番がきたラークルがばれないように小声でエメロウドに言った。エメロウドは悔しさも湧かなかった。それくらい腕前が違いすぎていた。

 結果、ラークルが五十点とってエメロウドの負けに終わった。

「あなたのあと、とても撞きにくかったわ」

「え」

「下手でしたから。上手な方のあとは撞きやすいのですよ」

(言われてみればラムのあとって、とても撞きやすかったわ。そういうことだったのね)

 ラークルの言葉はまだ続いた。

「なぜ王子はあなたのような魔物の色に魅入られたのかしら。

 ……そうだわ、これはきっと神が信仰によって王子を助けるようにおっしゃっているのだわ。修道院にずっといたいと思っていたけれど、それなら話は別です。わたしの信仰によって王子の目を覚まして差し上げなければ」

 ラークルは先程までとは撞って変わって目を輝かせていた。

「続いてはオネット様とエメロウド様、ラム様とアンビー様、シャルル様とジョリー様、ヴィクティ様とラークル様で試合を行なってもらいます」

 どうやらいつの間にかすべての試合が終わったらしく男性が告げた。ラークルは「ふんっ」とヴィクティがいる台へ移動した。エメロウドの元にウェーブがかった茶色の髪の少女がやってきて、右手を差し出した。

「オネット・サジュフィーユですわ。楽しみましょう」

「エメロウド・ジョワです」

 エメロウドは恐る恐るオネットの手を握った。幼い頃、握手をしようとして棘を仕込まれていることや、握手をするふりなどをされたことがあったからだ。オネットの手は温かかった。

 今度はエメロウドが先攻となった。球は白だ。しかし赤い球に当たることはできたが、オネットの手球である黄色の球に当たらなかった。

「エメロウドさんは回転をかけるのがあまりお得意ではないのですか?」

 順番が回ってきたオネットがエメロウドに尋ねた。エメロウドは気まずそうに答えた。

「実はキャロムビリヤードそのものがあまり得意ではなくて……」

「あら、そうなのですか? そういう方もいらっしゃいますわよね」

 オネットは自分の手球を撞いた。先に一バウンドさせた球は、滑らかな回転をしながら赤い球とエメロウドの白い手球に当たった。キューを台の縁にある白い目印の上に当てていた。

(角度の計算かしら? ゲームごとに計算の仕方が違うから苦手だわ……)

エメロウドはオネットが球を撞いている姿を見ながら思った。オネットが三回ほど繰り返して撞いてから、再びエメロウドの番が回ってきた。

「実は自分にぴったりな撞き方もわかっていないんです。回転をかけるのは苦手だけれど重いキューは持ちたくありませんし……」

「あら、どうしてですの? たしかに私も細いキューを使っていますが、太くてしっかりしたキューもそれはそれで素晴らしいんですのよ」

「うまく構えられなくて……」

「たしかにそうですわね」

 エメロウドはさっきよりもリラックスして球を撞けているのがわかった。オネットは決して髪の話題をしてこない上に、表面上だけかもしれないが歩み寄ろうとしてくれているような気がした。

(でもこの人、王子に会いたくて一番に来たって言っていた)

 エメロウドの胸がちくりと針で刺したように痛んだ。そして気がついてしまった。

(私、王子に本気で恋をしてしまったんだわ。信じられない、だれかを好きになるだなんて……)

 エメロウドは顔の温度が上がっていくのが自分でもわかった。

「あら、エメロウドさんお顔が赤いけれど……熱がおありなの?」

「い、いえっ。大丈夫ですわ、ありがとうございます」

「どうぞ、エメロウドさんの番ですわ」

「あ、は、はい」

 その後のエメロウドは散々だった。二度撞きと呼ばれる、ファウル二種……手球にタップが二回当たってしまう、床から両足が離れてしまう……や一球目に当たらないなど普通ならしないミスばかりだった。

「エメロウドさん、本当に大丈夫ですの? 体調が優れないのでは?」

「大丈夫です。オネットさん、ありがとうございます」

 試合が終わると順にビリヤード台は片付けられて始めた。部屋の隅に移動した。するとラムがこちらにしっかりとした足どりでやってきた。

「エメロウド」

「ラム」

「ひどいじゃないか、何度もきみを見たのに無視するだなんて」

「ええっ、そうだったの? ごめんなさい……」

 エメロウドが心から申し訳なさそうに謝ると、ラムは小さく笑いながら「冗談さ」と言った。

「でも本当に大丈夫かい? ずいぶんぼーっとしていたから。熱でもあるのかい?」

「い、いえ。本当に平気なの。さっきオネットさんも心配して下さったけれど。その、ただ……」

「ただ?」

「お、王子がこの髪のことを、こ、恋の色で、う、美しいって言われたのが、う、嬉しくて……」

 エメロウドはそう説明しながらまた自分の顔が赤くなっていくのがわかった。ラムはにやりと笑った。

「そうかそうか、だったら仕方ないな。それはぼーっとするな。そうかそうか。その様子だとエメロウド、初恋だな?」

「えっ。そ、そんなっ。は、初恋の相手が王子だなんて恐れ多いわ」

「いいじゃないか。私たちは妃の最終候補なんだから」

 しかしラムは表情を固くした。

「でもエメロウド。この妃の最終候補の中から王子に選んでいただくには、寵愛を受けるだけじゃだめなんだ。キャロムビリヤードの腕前も必要だ。王族でキャロムビリヤードができない、というわけにはいかないから。だから、がんばろう」

「ラム……。ありがとう」

 そのとき、男性が口を開いた。

「皆様、親善試合お疲れ様でございました。ただいまから皆さまに一年お住みいただく屋敷についてご説明させていただきます」

 皆の動きがぴたりと止まって、男性のほうを見ていた。

「先ほどの親善試合の結果を参考にさせていただきました。

 まず黄の屋敷はラム・フィエリテグラン様。

 青の屋敷、ジョリー・リュヌラ様。

 白の屋敷、アンビー・テナシテ様。

 桃の屋敷、シャルル・アルミチエ様。

 橙の部屋、ヴィクティ・アルシャンティ様。

 緑の部屋、オネット・サジュフィーユ様。

 茶色の屋敷、ラークル・プリエー様。

 黒の屋敷、エメロウド・ジョワ様。

 以上でございます」

そのとき王子が立ち上がった。

「落ち着いたころ、ご挨拶に伺います。皆さん、一年間よろしくお願いします」

 八人の女性はほぼ同時に足を屈めて挨拶をし、王子が去るまでそれを続けた。王子が去ると女性の使用人が九人やってきた。八人はそれぞれ屋敷と同じ色の服を着ていて、まるで虹のようだった。その八人の上司らしき使用人が口を開いた。

「皆様お疲れ様でございました。これより皆さま専属の使用人がお屋敷にご案内いたします。以降はこの子たちにご用をお申し付けください」

 八人は同時に頭を下げた。上司の使用人が手を三回たたくと八色の使用人たちは仕える主の元に真っ直ぐ歩み寄った。エメロウドの前に黒い使用人の服をきた女性が立っていた。

「エメロウド・ジョワ様。お初にお目にかかります。わたくしの名前はプロプール・パルティと申し上げます。どうぞよろしくおねがいします」

 プロプールは再度おじぎをした。はっきりとしているけれど丸みのある声にエメロウドはほっとした。

「よろしくおねがいしますプロプール」

「まずはお屋敷にご案内いたします。荷馬車のお荷物はすでにお屋敷のほうにありますので、ご安心ください。キューをお持ちします」

「ありがとう」

 エメロウドはプロプールのあとに続いた。どうやらこの舞踏の間を出るのも順番があるらしく、エメロウドとプロプールは最後である八番目に屋敷へ向かった。

(来た順番ではない。もしかして腕前の順番? ということは与えられた屋敷もそうかもしれない)

 そんな風に思ってしばらくすると屋敷に着いた。黒の屋敷と呼ばれるのにふさわしく、門も外壁も黒だった。しかしその黒の中でも濃淡をつけ暗い雰囲気にならないように気を遣われているのがわかった。荷馬車はすでに到着していて、そばには男の使用人が四人立っていた。

「家具の運び入れはこの者たちが行ないます」

 男の使用人たちは頭を下げた。エメロウドは「よろしくおねがいします」と笑いかけた。プロプールが黒く塗られた鉄の門を開けた。

「どうぞ、お入り下さい」

「ありがとう」

 中に入ると玄関までの間にハーブや花が植えられている。花の明るい色や鮮やかな緑が黒の壁や地面に埋め込まれているレンガに映える。プロプールが玄関のドアを開けた。屋敷の廊下は白の大理石に、黒豹のように真っ黒で柔らかい絨毯が敷かれている。廊下を進むとその部屋には横長の楕円のテーブルに八つの椅子が置かれていた。壁も床も黒い。床は黒檀で壁は黒曜石でできているようだった。

「こちらは食卓兼応接間となっております。左奥がお手洗い、その右隣が浴室となっております」

 次にプロプールは食卓兼応接間の左側の部屋を案内してくれた。そこにはビリヤード台があった。壁にはキューが数本立て掛けられている。

「こちらはビリヤード部屋です。いつでもお好きな時間に練習が可能となっております」

「真夜中でも?」

「はい。屋敷同士は離れているので音がするから、と文句を言われることはありません」

「……私にはとても必要な部屋になりそうね」

 エメロウドは自嘲気味に笑った。プロプールはエメロウドを真っ直ぐ見つめた。

「わたくしたち使用人からすれば、キャロムビリヤードができるということがすごいと思います。そこまでご自分を貶めることは……」

 プロプールははっとして「申し訳ありません、出過ぎたことを」と謝った。エメロウドは首を横に振った。

「いいえ、ありがとう。……あなたは真っ直ぐ私を見てくれるのね」

 プロプールはきょとんとしていた。エメロウドは自分の家の使用人を思い出した。プロプールと彼女たちが重なる。

「私の家の使用人はこの髪を恐れていたから……。常に頭を下げて見ないようにしていたわ。知っているでしょう、この髪の色のこと」

「はい。前世で悪魔と関わりがあった、魔物の色だと。ですがわたくしにはエメロウド様が魔物のようには思えません」

 エメロウドは王子のときとは違う温もりが心に染みていくのがわかった。それは幼い頃ラムと初めて会って「きみのかみはまものの色なんかじゃないぞ。ちゃんと人だからな」と言ってくれたときと同じだった。

「ありがとう、プロプール。ほかの部屋も案内してちょうだい」

「かしこまりました」

 次にプロプールは食卓兼応接間の右側の部屋を紹介した。そこにはまだなにもなく、広々としていた。

「こちらは寝室となっております。家具はこのあと運ばせますので、お好きな位置をご命令ください。それからこちらは衣装部屋となっております」

 衣装部屋は廊下と同じ方角にあった。壁と一体化した空のクローゼット、大きな鏡などが置かれていた。

「最後は庭です。お好きなように触っていただいて結構ですし、なにを置いていただいても大丈夫です」

「ねえ、ここには小鳥は来る?」

「はい、もちろんでございます」

「よかった。じゃあまた餌台が置けるわね」

 エメロウドの声は自然と明るくなった。

「家具は今すぐ運びこませます。そのあいだ、どうぞお休みなってください。紅茶はお好きでしょうか?」

「ええ。お砂糖をたっぷりおねがい」

「かしこまりました。すぐにご用意します。キューはビリヤード部屋に置いておきます」

「ええ、わかりました」

 そう言ってプロプールはビリヤード部屋にキューを置くと一度姿を消した。そして代わりにさっき外にいた男の使用人たちが入れ替わりで入ってきた。

「エメロウド様、家具はどのように置けばよろしいでしょうか」

「そうね……」

 エメロウドは寝室のほうへ移動して、家具の場所を指示した。男の使用人たちは言われた通りに家具を運び始めた。ベッド、鏡台、机、衣装、餌台など。その内プロプールが紅茶を淹れて戻ってきた。

「お待たせしました」

「もしかしてわざわざ一度屋敷を出て淹れてきてくれたの?」

「いえ、廊下のところに使用人専用の作業部屋があるのです。そこで様々な準備ができます。そのため土や砂、虫が入ることはございませんのでご心配ありません」

「そうなのね、ありがとう」

 温められたカップの中に音を立てずに紅茶が注がれる。エメロウドは紅茶を一口飲んだ。茶葉の香りと贅沢な甘味が口の中で広がる。

「おいしいわ」

「痛み入ります」

 紅茶を飲んでゆっくりしている間に家具がエメロウドの希望通りに設置された。部屋に入って正面の壁際にベッドを横向きに置いて、頭側に鏡台を、足側に机。庭には小鳥たちの餌台。箱に詰められた衣装はそのままだ。

「衣装はどうされますか?」

「わたくしが片付けます」

 男の使用人たちの質問にそう答えたのはプロプールだった。

「ありがとう。これで結構です」

 男の使用人たちはエメロウドの言葉を聞くと去って行った。

「エメロウド様、衣装を片付けて参ります。なにかご用があればお呼び下さい」

「ええ。よろしくね」

 プロプールは一礼して衣装部屋へ向かった。一人になったエメロウドは自然と王子と会ったときのことを思い出していた。優しい微笑み、穏やかな物腰。エメロウドは自身の髪の先を指先に巻きつけた。

「恋の色……。美しい恋の色。そんな風におっしゃっていただけるなんて……。あのお言葉は私だけに向けられたもの。私だけのもの」

 そう思うと心が今飲んでいる紅茶より甘くとろけた。


 夕食はエメロウドの好きな魚料理だった。丸々としたマスを蒸したものだった。香草で香り付けしておりバターもたっぷり使われていた。

 おなかいっぱい食べるとプロプールには下がってもらい、エメロウドは寝間着に着替え寝室でベッドに腰を下ろしていた。

「そうだわ、キューを壁にかけておこうかしら。おそらくケースに入ったままでしょう。……まあわたしもどれくらい使うかわからないけれど」

 エメロウドはビリヤード部屋に向かった。予想通り持ってきたキューはケースに入ったまま置かれていた。エメロウドはケースを開け、キューを組み立てた。するとキューから紫色の煙のようなもやのようなものが出てきた。

「な、なにこれ?」

 その煙のようなもやのようなものは一塊になり次第に形をとった。二足歩行のなにかのように見えた。二足歩行のなにかとなったそれの中から手が現れた。その手が煙のようなもやのようなものを払う動作をした。

「きゃっ」

 その手にぶつかりそうになって避けようとしたエメロウドはそのまま尻もちをついてしまった。

 そこに現れたのは真っ黒な獅子だった。だがただの獅子ではない。洋服を着ていて二本足で立っている。

挿絵(By みてみん)

「ほう、此度の持ち主はお前か」

「……あなたは悪魔なの?」

「いかにも」

 エメロウドは溜息を吐いて立ち上がった。床に転がっているキューを拾い上げ獅子の悪魔の前を通りすぎて壁に立てかけた。

「……驚かんのか?」

 獅子の悪魔は意外そうに言った。エメロウドのさっきの甘美な気持ちが信じられないくらい重く暗くなった。

「お母様がものを下さるなんて変だと思ったわ。あの人はいつだって私に優しくしたことなんてなかったもの」

 獅子の悪魔は「ほう」と声をこぼした。

「その母親を不幸にしたいとは思わないのか?」

「別に興味ないわ」

 エメロウドは即答した。

「血も繋がってないし、この髪だもの」

「髪?」

「あら、悪魔のくせに知らないのね。緑色の髪の人間は、前世で悪魔と関わった証拠なのよ。魔物の色。これで来世の髪の色も決まったわね」

 エメロウドは自嘲気味に言った。

「ふん、人間は愚かだな」

「なんですって?」

 エメロウドは振り返った。そのときすでに獅子の悪魔はエメロウドの髪をその手のひらに載せていた。

「この緑を、自ら喜んで享受する短い夏の色を魔物の色とするか。これほど美しい髪を」

 獅子の悪魔はエメロウドの髪に口づけをした。エメロウドは全身に鳥肌が立った。

「やめてちょうだいっ」

 エメロウドは一歩退いた。そして獅子の悪魔が口づけたところを寝間着の袖で拭いた。

(ああ、王子の言葉のほうがよっぽど嬉しいわ)

獅子の悪魔は「くっくっ」と笑った。エメロウドは獅子の悪魔を睨みつけた。

「あなたに美しいって言われたって嬉しくないわ」

「ほう。それではほかに言われて嬉しくなる相手でもいるのか」

 獅子の悪魔はにやにやしながら尋ねてきた。エメロウドは目の前の悪魔を睨んだ。

「あなたには関係ないわ。消えてちょうだい」

「この国の王子か」

 エメロウドはどきりとした。獅子の悪魔はにやついている。

「図星か。さっきも王子からの言葉のほうが嬉しいと思っていたようだしな」

「な、なぜそれを……」

「ふん。人の心を覗くなど他愛無い」

 エメロウドは自身の胸元を隠すように手を置いた。

「最低ね」

「気を悪くしたなら一応謝っておこう」

 獅子の悪魔はエメロウドをじいっと見つめた。エメロウドは体を固くする。

「王子の妃になりたいか」

「え、ええ。でも悪魔の力は借りたくないわ」

「ならば一教師としてならどうだ?」

「一教師、ですって?」

「そうだ。ここにキャロムビリヤードの台があるということは、するのだろう? オレはキャロムビリヤードが得意だ。教えてやるぞ?」

「結構よ」

 そう言いながらエメロウドの頭に昼間のラムの言葉を思い出した。

(キャロムビリヤードの腕前がなくては、いくら王子が愛してくれていても妃になることはできない……。今の私の腕前じゃたとえ寵愛を受けることができたとしても、妃になることはできない。四つ球もろくにできない私に)

「なんだ四つ球もできんのか」

 獅子の悪魔はあきれ気味にそう言った。

「心を読むのはおやめなさいっ」

「そうそう、オレがキャロムビリヤードを得意なのは悪魔だからとかではなく、オレ個人があの玉撞きが好きだからだ。つまり悪魔であるかどうかなど関係ない部分だ。悪魔の力など使う必要もない。……どうだ? オレをキャロムビリヤードのコーチにするのは」

 獅子の悪魔は右手をエメロウドに差し出した。

(この悪魔、なにが狙いなの?)

「狙いなどない。ただオレを見て驚きもせんお前を気に入っただけだ」

「だから心を読むのはやめて」

 獅子の悪魔は甘い言葉を続けた。

「お前の周りの女は皆ライバルだろう? それにこれは滅多にないオレの、悪魔の気まぐれだ。次はないぞ。どうする?」

(王子はどう思うかしら。私が悪魔と通じていると知ったら……。きっと嫌われてしまうわ。でもこのままじゃどうにもならない。一体どうすれば……)

 獅子の悪魔はにやりと笑った。

「一晩だけ猶予をやろう。明日の夜までに決めるんだな」

 そう言うと獅子の悪魔は煙になって姿を消した。エメロウドはその場で座り込んだ。

「悪魔が憑いているキューだなんて、ね。お母様は大したものを下さったわ」

 少ししてエメロウドは立ち上がり、獅子が憑いているものとは別のキューを手にとった。台の側に置かれている赤い球二つと白の球、黄色の球をとり出した。台の上に白を手前、奥に黄色の球、その間に赤い球二つを、一直線になるように並べた。エメロウドはキューを構えた。

(体を一直線、体を一直線……)

 ラムのアドバイスを思い出しながら撞く。力が入りすぎたせいで手球である白い球は赤い球と黄色の球に当たりはしたものの、球はまるで仲が悪い人間同士のように離れてしまった。

「なんだその下手くそな撞ち方はっ」

「きゃあっ」

 撞然継母がくれたキューから獅子の悪魔が飛び出してきた。

「な、なんですのっ?」

「お前が球を撞くようだったからこっそり見てやろうと思ったらこれだ。ひどすぎる」

 エメロウドの心はひそかに傷ついた。獅子の悪魔は「決めたぞ」という言葉のあとに続けてこう言った。

「オレがキャロムビリヤードを教えてやる。見てられん」

「た、頼んでいないわ」

「あきれたんだ、そんな腕前で妃になぞなれるはずないだろう。いいから好意を受けとっておけ。いいか、悪魔が好意を出したんだぞ? それだけお前の腕はひどい」

「は、はっきり言いますわね……」

 悪魔は言葉を続けた。

「四つ球は球を寄せるゲームだ。球同士が離れていると点数がとりにくくなる。だから回転を利用して球同士を寄せる。構えろ」

 エメロウドは渋々キューを構えた。その上に獅子の悪魔が被さってきた。

「ちょ、ちょっと。なにしますのっ」

「こうしなければキューの扱いを教えられんだろ」

 予想していなかった温もりにエメロウドは戸惑った。

「く、口で言えばいいじゃありませんか」

「そんなもので上達するんならとっくにしてるだろう。文句を言うな。

 真っ直ぐに撞くことはできるか?」

「ええ」

「じゃあ中心を撞いたときの反射角は覚えているか?」

「反射角なんて覚えるものですの?」

 獅子の悪魔は大きく溜息を吐いた。

「覚えるものなんだ。必ず今日中に中心を撞いたときの反射角を覚えてもらうぞ」

 獅子の悪魔のレッスンが半ば強制的に始まった。

「そもそも入射角、反射角というのはどういうものかわかっているか?」

「ええっと、撞いたときに球に当たるときの角度が入射角、当たったあと手球が転がる角度を反射角っていうのよね?」

「それはわかっているのか。いいか、さっきも言ったが反射角は覚えるものなんだ。

 まずは撞く場所によるもの。手球の上を撞けば前に進む回転がかかり、反射角は鋭いものになる。反対に手球の下を撞いたときはさっき話した回転とは逆のものがかかり、大きな角度になる。どちらでもない、普通の力加減なら入射角と反射角は同じになる」

「……わけがわからないわ」

「まあ実際にやってみればわかる。まずは普通の力加減だ。覚えておけ」

獅子の悪魔はエメロウドの体を使って球を撞いた。力は入りすぎず、それでも確実に球に当たり撞いたときと同じ角度で側面に当たった球が跳ね返る。

「まずこれを体に覚えこませろ。もう一度だ」

 獅子の悪魔はもう一度撞いた。先程と同じように球が転がる。

エメロウドは球を睨みつけた。キューで撞くと左に曲がってしまった。

「今のは中央から左に逸れたからだ。真ん中をつけ。いつも先攻後攻を決めるときにやっているだろ」

 エメロウドはもう一度白い球を撞いた。今度は手球の中央に当たったが、側面に当たったときのバウンドが広がった。

「それは撞いたところが下だったからだ。もう少し上でもいい」

 獅子の悪魔が再びエメロウドの体に重なった。

「それからフォームが崩れてきてる。オレとやったときの感覚をきちんと覚えろ」

 獅子の悪魔はそう言ってエメロウドと一体となってキューを撞いた。最初のように横に回転したまま転がる球が撞けた。

「力加減や撞く場所は慣れるとわかってくる。今はひたすら球を撞け」

 エメロウドはそう言われ仕方なく球を撞き続けた。夜は更けていく。カン、コン、と球にキューの先端が当たる音が絶え間なくしていた。

「ただ撞くだけじゃだめだ。考えて撞け」

「考えて撞いていますわっ。一日でできるはずないじゃありませんの」

 エメロウドはいらついた声で反論した。獅子の悪魔は冷静に言い返した。

「だがお前の場合、あまり呑気にできんぞ。王子の妻になりたいのならな」

 エメロウドには返す言葉がなかった。キューを力強く握りしめる。

「そもそもなぜ妃になりたい? どうせならオレの伴侶になればいい」

「そんなこと冗談でも言わないで。……美しいとおっしゃったの、この呪われた髪を。この髪は血の繋がったお父様ですら、どこか恐れていらっしゃったから。愛して下さったけれどどこか退いていらっしゃったわ」

「なるほど、お前の髪を褒めた順番はオレが二番目だったわけだ。つまらん」

「あなたが一番であろうがなかろうが、心惹かれたりしませんわ。

王子はこの髪を恋の色とおっしゃった。そんな風に言われたのは初めて。そんなお優しい方といっしょにいられたらどれだけ素敵かと夢見てしまうの」

 エメロウドはうっとりとしていた。反対に獅子の悪魔はつまらなそうにしっぽを振っていた。

「ふん。本音かわからん。オレは本音だが」

「そうね……。でもそうだとしても私は心が躍った。とても素敵なお方だわ。……ところでなんでさっきから王子と張り合おうとしているの?」

「男が別の男と張り合う理由など限られている。それがわからんお前はまだお子様だな」

 獅子の悪魔はにやりと笑った。

「まあ、失礼ねっ。いいわ、絶対今夜中にできるようになってみせるわ」

 エメロウドはキューを構えて自身の手球の中央に位置するところを狙った。真っ直ぐ前方へ撞く。キューの先は狙っていた場所に見事に当たり、同じ角度で跳ね返った。

「やったっ。ほら、できたわ」

「ああ、そうだな。おめでとう。それが狙って常にできるようにならなくてはな、未来の王妃殿」

「お、王妃なんてまだ早いわよ、ま、まだ王子が挨拶にもいらしてないんだから」

 そう言いながらもエメロウドは我慢できずににやけてしまった。頭の中に王子との甘い新婚生活が展開される。

「おい現実に帰ってこい。ちゃんと狙って出せるようにならなくては王妃なんて夢のまた夢だぞ」

「わ、わかっているわよ」

 次は右側にずれてキューが当たって右側にそれた。

(思い出せ、さっきの感覚を思い出すのよ)

 白い手球に向かってキューを矢のように飛び出させる。コンッと耳に気持ちいい音がした。前転のように回る。

「よしっ」

 せっかく思い出した感覚を忘れないようにするために、エメロウドは獅子の悪魔の視線など気にせずに撞き続けた。体が自然とその体勢をとれるようになり、肩の力もだいぶ抜けてきた。そして狙っているところがはっきりと見えるようになってきた。そこに向かって撞くと必ず入射角と反射角は同じだった。

「もう今日は休んだらいい。これから毎日練習はしておいたほうがいい。どれだけ腕が上がってもな」

「まだできるわ」

「今は気分が高ぶっているだけだ。これ以上はお前たちが言うところの肌によくないし、疲れているはずだ。人間の体は弱いらしいからな」

「そうね……そうするわ」

 エメロウドはキューと球を片付け始めた。そんな中獅子の悪魔が言った。

「それから今度からはオレがいるキューを使え。大会なんかのときにはオレの力で有利にしてやろう」

 にやついている獅子の悪魔にエメロウドはきっぱりと告げた。

「お断りですわ。そのような不正をして勝ち続けたとしても、王子はきっと私に振り向いてくれませんもの」

 獅子の悪魔は「くっくっ」と喉の奥で笑った。

「ますます気に入ったぞ、夏の髪の娘。そうだ、お前の名はなんという?」

「……エメロウド・ジョワ」

「エメロウド、か。名は体を表すというのは本当だな。オレの名はレオーブル。レオとでも呼べ。それじゃあ、おやすみ。エメロウド」

 獅子の悪魔、レオーブルはエメロウドの髪に再び口づけをすると消えた。途端に先程のように鳥肌が立ち、また寝間着の袖で髪を泥がついてしまったかのようにしっかり拭いた。

 食卓兼客間に置かれている柱時計は深夜の一時を指そうとしていた。エメロウドはもぞもぞと寝室のベッドに入った。そして数分とも経たぬうちに夢の世界へと旅立ってしまった。


 エメロウドは自身の寝室の扉をノックする音で目が覚めた。

「エメロウド様、おはようございます」

 声の主はプロプールだった。エメロウドは上半身だけを起こした。

「おはよう、プロプール。入ってちょうだい」

 エメロウドが入室を許可すると、プロプールが「失礼します」と頭を下げた。

「今何時かしら?」

「朝の十時でございます」

「そう」

 それは貴族にとってそれほど遅くない時間だった。

「今日はどのご衣装にされますか?」

「そうね……白地に黒のレースのものがあったでしょう? それにするわ」

「かしこまりました。お風呂の準備はできてございます」

「ありがとう」

 エメロウドは浴室へむかった。猫足に真っ白なバスタブに体を沈める。

(昨日の悪魔、夢ではないわよね。だって中指や親指がひりひりするもの)

 二度も髪に口づけされたことを思い出したエメロウドは、今すぐ浴槽に頭を撞っ込んで洗い流したくなった。

 湯浴みを終えプロプールの手で指定したドレスを着せてもらうと髪を整える。

「失礼します」

「ありがとう。よろしくね」

(私の髪に触れてくれる使用人がいるだなんて)

 多くの人からすれば当たり前なそんなことが、今のエメロウドには嬉しかった。豚の毛のブラシで絡まっていた毛が梳かされる。

「本日はどのような髪型にされますか?」

「上のほうでまとめてちょうだい」

「かしこまりました」

 プロプールは慣れた手つきでエメロウドの長い髪の毛をまとめ上げた。

 朝食であるポリッジ、野菜と鹿肉のパイ、果物の砂糖漬けが並んだ。

「おいしいわ。厨房のほうにそう伝えてちょうだい」

 フィンガーボールで指を洗いながらエメロウドは言った。

「かしこまりました」

 食事を終えるとエメロウドはプロプールに頼んで小鳥の餌を持ってきてもらった。エメロウドはさっそく庭に出て餌台の上に餌を撒き、寝室の大きな窓を開けて静かにしていた。すると数羽の鳥がすぐにやってきた。鳴きながら餌をつついている。

「どこの小鳥もかわいいわね。……あら?」

 そのとき小鳥以外の動物が庭を横切った。

「まあ、リスだわ。ここはリスも来るのね。明日のリス用の餌ももらっておこうかしら」

 餌を両手で食べているリスの様子を想像すると、エメロウドは楽しみで仕方なかった。

「……王子も一緒にこの風景を見ることができればいいのに。王子は動物がお好きかしら? それとも全く別のものがいいかしら? 落ち着いたらこちらに伺うっておっしゃっていたけれど、一体いつかしら?」

 その日のことを考えるとエメロウドは胸の鼓動が速まるのを抑えきれなかった。

 午後になるとエメロウドはようやくキャロムビリヤードの練習をしはじめた。しかし昨晩に比べて動きにくいことに気がついた。

「そうだわ、昨日の夜は寝間着だったから身軽だったけれど今はドレス。こちらのほうが動きにくいに決まっているじゃない。ドレスはこれ以上ボリュームのないものにできないし」

 ドレスの見た目も女の美しさだ。地味すぎるのもドレスそのもののボリュームがないのも貴族の女として失格だ。

「このドレスできちんと撞けるようになるしかない」

 エメロウドは手球を置いてぐっと姿勢を低くしてキューを構えた。しかしキューの先端であるタップにではなく、その下の先角という部分に当たってしまった。

「あっ、キューミスだわ。ファウルしちゃうだなんて。練習中でまだよかったわ。……でもなんでこのファウルになってしまったのかしら」

 エメロウドはコルセットの圧迫感と戦いながら回転をかける撞き方の練習をひたすら繰り返した。時折休憩しながら撞いていくと徐々に慣れていったのか、少しずつ反射角をコントロールできるようになってきた。

 夜になり夕食をとり終わるとエメロウドは、ドレスのまま過ごすことにした。プロプールにその旨を伝え、退出させる。エメロウドがビリヤード部屋に入るとすでにレオーブルが待っていた。

「ちょっと、プロプールに見つかったらどうするのよ」

「あの使用人か。もうとっくに下がらせているだろう?」

「そうだけれど、万が一ってこともあるでしょう。これからは私がいいって言うまで出てこないでちょうだい」

「はいはい」

 レオーブルは仕方ないといった態度で返事をした。

「まずは練習の成果を見せてもらおうか。昼間から撞いていたようだからな」

「見ていましたの?」

 エメロウドはレオーブルを睨んだ。しかしレオーブルは動じていないのは一目でわかった。

「見ずともあれだけ撞いている音がすればわかる。独り言もな」

 レオーブルはにやりとしていた。エメロウドは咳払いをして話題をそらした。

「だいぶ安定してきたと思いますわ」

 エメロウドはさっそく手球を撞いた。見事に同じ角度で反射する。

「ほら、ちゃんと一回目で出来たわ」

「そうだな。じゃあ次は成功率を上げるぞ。十回撞いて何度成功できるかやってみたらいい。……ところで今日はなぜドレスなんだ? オレの為か?」

 レオーブルは不思議そうに尋ねた。

「馬鹿言わないで。キャロムビリヤードをするときは、だいたいこの格好だということを思い出したの。この格好でできなかったら意味がないのよ」

「なるほど。女は大変だな。だが似合っているぞ」

「それはどうも。悪魔とはいえ男性がうらやましくなるくらいには大変よ。コルセットも苦しいの」

 そう言い終えるとレオーブルの言った通り、十回連続で撞きはじめた。成功するとレオーブルが「一……二……」とわざわざ声に出して成功した回数を数えた。

「十回中四回か。服装のことを考えても昨晩よりましか。理想は最低でも八回成功だな」

 レオーブルに言われエメロウドは十回撞いては一区切りをして、また十回連続球を撞いた。ひたすら同じことを繰り返すが気をつけなければいけないことは毎回違った。この夜も遅くまで卵のように白い球を撞き続けた。そして一人で着替えをしてから眠った。

 黒の屋敷に引っ越してきて三日目。ついにエメロウドが待ち望んだその日がやってきた。

「エメロウド様、本日午後四時に王子がご挨拶にいらっしゃいます」

 朝食と湯浴みを終えてからプロプールが言った。

「まあ、王子にお会いできるのね。とびっきりかわいらしい髪型にしてちょうだい、プロプール」

「かしこまりました」

 エメロウドは鼻歌を歌いたい気分だった。王子に会えると思うとキャロムビリヤードの練習にも身が入らなかった。エメロウドは午後四時が待ち遠しくて仕方なかった。

 

 午後四時を知らせる時計の鐘の音がした。エメロウドの心は最高に跳ね上がった。食卓兼客間に座って王子の訪問を待つ。

「エメロウド様、サージェ王子がいらっしゃいました」

「どうぞ、お入りください」

 エメロウドは椅子から立ち上がった。プロプールが扉を開けると、そこには会いたくて会いたくてたまらなかったその人が立っていた。プロプールは一礼すると部屋を出た。

「ごきげんよう、エメロウド」

「ご、ごきげんよう。サージェ王子」

 エメロウドは屈んで挨拶をした。そして席を勧めた。王子は優雅に腰を下ろした。

「ここの生活に不便はありませんか?」

「はい。餌台も置かせてくださったおかげで、小鳥やリスも来るようになりましたわ」

「ほう、小鳥が。いいですね、かわいらしいんでしょうね」

「ええ、もちろん。実家の周りにいたときにもかわいい鳥はいましたが、この辺りの小鳥は色が鮮やかですわね。青やオレンジがきれいで……」

 自分独りが話してしまっていることに気がついたエメロウドは急に恥ずかしくなった。

「す、すみません。一人でぺらぺらと……」

「いいえ、エメロウドのことがわかるのは嬉しいことです。僕もなかなか時間がとれなくて皆と話をするタイミングがありませんから」

 王子の微笑みがエメロウドの心をとろけさせる。そのとき王子から思わぬ提案がされた。

「よかったらキャロムビリヤードをしませんか?」

「え……」

(どうしよう、まだ下手くそで王子に嫌われるかもしれない)

 エメロウドの表情の曇りに気がついた王子が彼女に尋ねた。

「どうかしましたか?」

「あ、いえ、その……まことにお恥ずかしい話なのですが、私はキャロムビリヤードが苦手で……。王子の前でみっともない姿を見せることになるかと思うとお恥ずかしくて」

 エメロウドは思わず俯いてしまった。そんなエメロウドに王子は蜜のような甘い声で再度誘った。

「ならば僕が教えましょう」

「えっ? あ、その、よ、よろしいのですか?」

「ええ。今はとにかく楽しみましょう。エメロウド」

 エメロウドはこの屋敷中で一気に花が咲いたかのように舞い上がった。しかしその昂ぶりをなんとか抑えこんだ。

「さあ、ビリヤード部屋に行きましょう」

 エメロウドは王子と共にビリヤード部屋に入った。エメロウドはいつもより部屋が明るく感じられた。王子は壁に立てかけているキューを手にとった。

「エメロウドはどのキューを使うんですか?」

「あ、ほ、細いものを……。でもまだ……中央を撞いたときの入射角と反射角を覚えるところまでしかできていなくて……」

 エメロウドは顔から火が出そうだった。

「そうですか。でしたら僕が押し球を教えましょう。さあ、構えてください」

 エメロウドがキューを構えると、王子が覆いかぶさるように体を重ね合わせてきた。エメロウドの心臓が大きく跳ね上がった。

「まずは力を抜いて」

 王子の声がエメロウドの耳のすぐ側で聞こえる。エメロウドは心臓の音が速く鳴っているのがわかった。

「それから球をよく見ること。少しでもずれてしまうと球は別の方向に行ってしまうから」

 春の日差しのように温かい大きな手が、エメロウドの小さな手を包む。

「まずはブリッジを高くして。高い位置を狙うから。上を撞けば押し玉に、下を撞けば引き球になる。……もう少しブリッジを高くしよう」

 王子はエメロウドの左手の指をほどき、新たに結ばせた。一瞬手が繋げたようで、エメロウドは思わずうるんだ目で王子を見た。王子は球を見ていた。

(王子が真剣に教えて下さろうとしているのに私ったら)

 エメロウドは心の中で自分を叱った。

「このとき、肘はぶれないように気をつけて。狙った場所を確実に撞くこと」

 王子はエメロウドの手を握ったままキューを動かした。球は一直線に進んだ。王子が離れるとエメロウドは彼の温度が名残惜しかった。なるべく力を抜いてキューを撞く。奥に当たって球は真っ直ぐ戻ってきた。

「あ、あの。ひ、引き球はどのようにすればいいのでしょうか?」

 王子は、チョークを塗り終えてキューを構えたエメロウドにまた重なった。

「下のほうを撞けばいいのです。でも下を撞きすぎるとキューミスになってしまうので気をつけて。台と水平にストロークすること。あとスピードも重要です。キューを出すのが短いと回転も遅くなる。慣れるまではタップ一つ分くらい下にしたほうがいいでしょう。

 でも大切なのは実践でどれくらい引くかコントロールできるようになること。手球と得点になる球の距離、角度、撞いたときのスピード、どこに撞いたかによって手球の動きが決まります。

 練習するときは手球と得点になる球を一直線上に置いて、同じ場所で撞いていけばいいでしょう。撞いた場所、スピードで手球がどれくらい戻ってきたか覚えておくといいでしょう」

「は、はいっ」

 ビリヤード部屋から出てきた王子は時計を見た。

「そろそろ戻らなくては。二カ月後に一回目の試合があります。エメロウド、あなたがどれくらい上達したか、楽しみにしていますね」

 王子は輝かしい笑顔を浮かべた。エメロウドはぽうっとした様子で「はい、王子」と返事するだけで精一杯だった。

 王子が去ると、エメロウドはベッドに腰かけてぽーっとしていた。思い出すのは王子の厚い胸板、たくましい腕、骨ばった指だった。

「王子……とても温かいお方だったわ」

 今のエメロウドには二カ月後の試合のことなど考えられるはずがなかった。




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