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「法師岡館跡」
航介は、アーニランを連れ出した。この館の地下に、ライオンが冬眠しているという秘密は伏せたままに。航介の予想では、数百年も伏臥したまま眠りこけている唐獅子が、この遺跡の下に埋もれているはずだ。館とは、小さな城のようなものである。軍事的に配置されたと考える人が多い。東北地方には多く見られる遺跡で、学術上重点的に調査されてきた。この法師岡館は、馬淵川を見下ろすような高さに築かれた。河口までは十三キロ・メートルほどにあり、この地峡を過ぎると、やがて沖積平野が広がって、流れが緩やかになる。
初めて訪れた館跡には、何もなかった。その場所は、森のなかにあるために眺望がきかず、教育委員会が設置した説明板がなければ、遺跡の存在さえ忘れてしまうほどの状態だった。説明板には、信長の頃の起源をにおわせた短い文章が書かれてあったが、どうやら根拠はなさそうだ。館跡の下の方からは、昨晩から降った雨のせいで増水した川の轟音が響いている。航介は、さすがに、この足下を掘り返そうとは思わなかった。建設機械を使っても相当の労力になるだろう。あたりを見回し、洞窟の入口でもないかと探したが、あるはずもなかった。近くに人家もある。ふらりと立ち寄った一見に、ご馳走が残っているはずもない。
航介とアーニランは、ホンダの四輪駆動車を狭い林道に置いて、手を繋いだまま、川の方へ下りてみることにした。五分ほど歩くと、法師岡橋に出る。ふだんは州ができている橋のたもとでは、濁った水が量を増して、橋脚には多くの流木が引っかかっていた。長さ三十メートルほどの橋の中央部では、デジタルカメラを手にした作業員が、川面の様子を窺がっている。停められていたパトランプ付きのライトバンには、「国土交通省青森河川国道事務所」と書かれてあった。館跡から川面までの比高は、十五メートルほどだ。長年の侵食で、この崖はどれほど削り取られたのだろうか。かなり急峻な様相を呈していた。航介は、その作業員へフランクに質問してみた。
「おつかれさまです。今朝は凄い水量ですよね。」
「山で、相当降ったんだろうね。」
「僕は、大学で地理学を専攻しているんですけど、この法師岡は地峡ですよね。」
作業員は、書き物をしながら受け答えた。
「そうだよ。この馬淵川の氾濫箇所は、二ヶ所ある。十五キロほど上流の『南部大橋』付近と、ここから少し下流の『櫛引橋』付近だ。」
航介が、場所の確認のために地形図を広げると、その作業員は、すこし驚いたような表情を見せた。南部大橋は、北流してきた馬淵川が北東流へと転換するポイント、そして櫛引橋は地峡から解放されて沖積平野に転換するポイントであり、さらに浅水川との合流部のようだ。
「地形図を読むと、この馬淵川は、いかにも氾濫をおこしやすそうな川ですね。」
「まあ、『櫛引橋』の方は、河川改修をしてきたからほとんど洪水もみられなくなったよ。昔なら、あそこからうねうねと蛇行していたからね。」
作業員は、はじめて航介の目を見て答えた。
「工藤さんですよね?歌会でお会いしました。」
航介は「ジオ俳句・ジオ短歌の会」で同席していた工藤をよく覚えていた。中途半端に禿げ散らかり、痩せ型で身長が低く、着ていた背広はどこか古くて、地味なネクタイの結び目は不細工だった。しがないただの中年オヤジという印象だ。正直、典型的な小役人という第一印象だった。
「法師岡では、よく釣れるらしいじゃないですか。」
「今日は無理だろうな。」
釣り好きらしい工藤は、濁った川面を見て言う。
「どうですか、ここで一首。」
工藤は、航介に求められて即興で詠んだ。
・倅をば 京にとらるる 高岩の 駅で破った ひめくり暦 (治三郎)
・彦法師 その気にさせる 十五あたり とまべち駅へ 馬淵を渡る (航介)
法師岡の最寄り駅である北高岩駅と、その次駅である苫米地駅を題材としての詠みくらべである。
「北高岩駅は、集落の中心部にあるのに、なぜ『北』をつけたんでしょうね。『高岩駅』だけでいいのに。」
「それもそうだな。まあ、『岩』や『石』がつく地名は、神聖視されていた場所らしいから気にするな。」
「神聖視ですか…。」
「『石見』なんかは典型的なんだが、鉱物の産出が理由なのかもしれないな。あそこには有名な銀山もあったし、たたら製鉄でも聞こえていた。」
航介とアーニランは顔を見合わせる。
「日本っていう国は、実は鉱山が多かったんですよね。江戸から明治にかけて、輸出品といえば、銀や銅がほとんどだったわけでしょう。」
「マルコ・ポーロの『黄金の国』も嘘とは言えないね。」
航介は、中学生の時に出会った中年の女教師の暴言を思い出した。
「むかし、『私は、世界の美術館を歩き回っている』なんて吹聴している美術教師がいたんです。そいつが言うには、『蛮国日本が、黄金の国なわけがない。貧乏くさい茅葺き屋根に太陽が反射するのを見たマルコ・ポーロが錯覚したのだろう』。当時中学生の僕でも、平泉に金色堂があることを知っていますよ。東大寺の大仏だって金ピカだったわけでしょう。いや、それだけじゃない。多くの武士は、鍛錬された日本刀を差していたわけですよ。日本は黄金の国ですよ。まともな授業もできないくせに、長期休暇になると高額なボーナスを手にして優雅に海外旅行をしまくる田舎教師に、マジでムカつきますよ。公務員が、俸給を貰っている自分の祖国を『蛮国』って言ったんですよ。絶対にありえない。」
急に感情をむき出しにした航介に、国家公務員の工藤は、苦笑いをするしかなかった。
「まあまあ。どうだい、昼メシでも。」
遅めのブランチをとっていた二人だったが、空気を読んで航介は、こう言った。
「ゴチになります!」
近くのドライブ・インに入るのだろうと思っていたが、航介とアーニランは、工藤の自宅に招かれた。
工藤の自宅は、漁港をみおろす高台の上にあった。ここを館鼻といった。館鼻地区の鼻先は、馬淵川と新井田川が合流する大河口だったが、高度成長期に漁港と工業港の混在地区へ河川改修されていた。通された居間からは、遠く八甲田連峰まで望むことができた。真冬は空気が澄んでいる。日本海で成長した雪雲が、奥羽山脈を越えることで乾性に変質する様子がよくわかった。千里眼をもつ航介には、この館鼻から糠部地方全体を把握することができた。さらに、心眼を働かせてみると、一戸から九戸までに瞬く地上の星を感じとることもできた。
「よぐ、おんでやぁんした。」
久しぶりに聴いた古い南部弁を話す小さな老婆が、台所から食事を持ってきた。工藤の母親らしい。齢八十すぎというところか。
「いやいや、おばあさん。お構いなく。」
老婆は、田舎むすび、胡瓜にもろみ味噌漬、そして真っ黒なダシのうどんを丸盆の上に載せている。
「いやぁ懐かしいですね。これは糠塚きうりでしたっけ。ちょっと苦みがあるのがいいんですよね。この胡瓜に『なんばんみそ』は最高ですよ。」
「市野沢くんは関西だって言ってたね。このうどんは口に合わないだろう。」
「なにをおっしゃいますか。僕にとってのかけうどんは、この色ですよ。煮干しダシでね。」
航介はひとくちすすり、少し大袈裟に「おばあさん、ホントに美味しいですよ」と言った。
新井田川上流には石灰鉱山があるために水の硬度が高く、昆布を主にダシをとると灰汁がよく出てしまう。たとえ、前浜で昆布が採れていても魚介系のダシにするのは、台所の昔からの知恵なのだった。
「うどん定食」を食べ終えて、お茶をすすっている時だった。旧河口に、いつのまにか新しい神社が建っていることに気づいた。
「あそこに、神社ってありましたっけ?」
「御前神社だよ。最近、館鼻から移ったんだ。」
「たしか、あそこは湊駅だった所ですよね。貨物駅の跡地利用に神社ですか…。」
貨物専用駅として国鉄のドル箱ともいわれていた湊駅は、トラック輸送へのモーダルシフト政策により、昭和六〇年(一九八五)に廃止された。途中まで高架式で通されていたこの路線は、高架完成後、あまり利用されずに廃線となり、その一部を市道として再整備した。しかし、駅舎部分は撤去となり、空き地に御前神社が「誘致」されたらしい。
「ウチにも金を集めに来たらしいよ。ナァ、婆さん。」
航介は、寄進を奉ることは善男善女のおこないで素晴らしいことだとは思っていたが、神社や仏閣の移転新築はまともではないと思った。その場所にあってこそのお宮であり、お寺ではないか。かつて、明智光秀が言ったことを思い出した。
「洪水になったら、寺がある所に逃げろ」
地理をよく理解した人が、インテリとされたのだ。地震のときには、寺にさえいればその災難を逃れることができるらしい。よく地盤を調べたからだろう。
「おばあさん、むかしの津波の時どんでしたか?」
航介は、昭和三五年(一九六〇)に大きな浸水被害をだしたチリ地震津波の様子を聞いてみた。
「イサバの所だっきゃ、こごまで水があがったもんェ。川の底も見えでらったべしィ。」
老婆の胸のあたりまで、海水があがってきたらしい。イサバというのは魚河岸のことで、あの御前神社がある所だ。おそらく、次の津波の時は神様も水浸しになるのだろう。この防災意識の低さは何なのか。
「御前神社は、櫛引八幡宮と関係ありましたよね。『御浜入』でしたっけ。そんな由緒あるお宮さんを、川の向こうへ移転させるとは理解できませんね。」
「言われてみれば、たしかにそうだな。」
「館鼻には、もともとお宮さんが三つありましたよね。この御前神社、川口神社、そして大祐神社。僕は、これらのお宮は三位一体だと思っているんです。」
航介は、比売神に付記されている「宗像三女神」をさがしていた。日本書紀で、仲哀天皇を誅したとされる「住吉神」をさがしていた。航介は、これらは同種同系どころか、全くおなじ神だと考えていた。神というと語弊がある。正確には、あの星のことだ。
ちょうどその時、そばにいたアーニランが、かわいらしいクシャミをした。三度ほど。
航介がフェリー上で、初めてアーニランと逢ったときである。「ハーフっぽい顔立ちだな」という第一印象を裏切ることなく、彼女の名前はユニークだった。
「船長だったパパが、つけてくれたの。」
彼女の父親は、愛娘に生きる導べを遺していた。
「オリオンの三つ星、アルニラムからとったんだって。」
アルニラム。現在ではε星の固有名となっているが、古くは三つ星全てをまとめた名前だった。アラビア語の「真珠の糸」に由来する。
「この三つ星は、一年中、真東から昇って真西に沈むの。船に乗る人にとっては、大切な星なの。」
オリオン座δ星ミンタカは、天の赤道に近いために、地球からそう見えるのである。冬の王者と呼ばれるオリオン座は、冬至のころの正子(午前〇時)に南中し、夏至のころには正午に南中するという特別な星座である。無の世界を航海する者たちにとって、この星座は、実に心強い存在だったことだろう。
「それだけアーニランを愛していたということだよ。亡くなったパパさんは、たぶん不動の北極星となって、アーニランが顔を出すことを待っているはずだよ。」
航介は、オリオン座について自分が知っているだけ、寂しそうなアーニランに話してやった。中国の比喩「参商の如し」について。赤いベテルギウスが平家星、白いリゲルが源氏星と呼ばれてきた理由。そして、子供たちの英雄、ウルトラマンが生まれた星のこと。
最後に、ある漢字の成り立ちについて紹介した。
「このフェリーは、重油を燃やしてエネルギーにしてる。だけど江戸時代まで、長距離を航行する船舶は、海上の強い風を頼りにしていた。大坂と列島各地を結んだ北前船もだ。」
「帆船ね。」
「その『帆』の字。旁の部分に注目して。『凡』って、形がオリオン座に似ていると思わない?三つ星もついてるよ。『丶』って。」
航介は、必ずしもオリオン座の視覚的心象だけで、口にしたわけではなかった。
「帆は風をうけるためのもの。この『風』の字をよく見てみな。」
アーニランはしばらく考えていた。
「『凡』の字があるぅ!」
「『凡』に『虫』が入って『風』。この『虫』とは、爬虫類一般のことを指すといわれているが、龍が的確かもしれない。」
「どうして?」
「風は、想像上の動物がおこすものとされていたんだ。動物というよりも、神の遣いとしたほうがいいのかな。ちなみに、想像上の鳥であるオスの鳳凰は『鳳』と書く。『凡』に『鳥』が入って『鳳』。意味深だよね。」
航介は、龍や鳳凰といった神の遣いが風を吹かすと考えていたあの頃の識者と同じ感性を持っていたのだった。
「オリオン座が南中したとき、その船は、神から恵まれた大いなる風を帆に受けて、全速力で航行しているんだ。東へ向けてね。」
「東へ?」
「その船が西に航行していれば、オリオン座は沈みにくくなる。オリオン座は、南中した次の瞬間から、同じ速さで天のマストを倒していくんだ。」
航介は、半年前のこの時点では、まだ気づいていなかった。あのライオンも東向きだということを。
「宗像三女神も、御前神社の祭神である住吉神も、オリオン座の三つ星だと思っているんですよ。」
航介は、鼻をすするアーニランを見ながら、私見を語りはじめた。海上でアーニランへ教えたこと、そしてアーニランから教わってきたことを。
「船乗りにとって大切な『案内星』を、神として祀りあげるということは、日本人の宗教観からすれば、とても自然なことだと思います。」
「私は、前の勤務地が博多だったんだ。宇佐神宮はよく行ったし、宗像大社にも行ったことがある。」
「宇佐から宗像までは、どのくらいあります?」
「百キロぐらいかな。八戸と青森ぐらいだ。」
「うーん、ちょっと遠すぎますね。僕は、この館鼻の三つの神社が、宗像大社の三つのお宮に相当すると思っていたんですよ。」
工藤はすこし考えて、
「市野沢くん、それで合っているはずだよ。宗像大社も海を望んでいる。あそこは、朝鮮半島からの船着き場だった。館鼻もそうだったかもしれない。」
「朝鮮半島?」
「館鼻の『ハナ』音は、ハングルで岬のことをいうらしい。だから、館鼻にあった三つの神社の中央を、わざわざ『ミサキ神社』としたのだろう。当て字を使って。」
航介は、工藤から「朝鮮半島」という言葉が発せられて、急に違和感を覚えるようになった。愛する故郷の神に、朝鮮半島が関わっているというのか。
航介は、韓国・朝鮮人が苦手だった。反日で国家をまとめようとする彼らの統治哲学。竹島への侵略。そして対馬への野心。いわゆる拉致問題だけが、彼らとの対立点ではないのだ。そのうえ、力の強い者になびく事大主義や国内の地域差別、家系重視や学歴偏重、そのすべてが航介にとってネガティブな文化だった。親や教師から、やってはいけないことだと教わってきたことばかりだった。
「その根拠ってあります?」
いつもとは逆に、航介が、意地悪く工藤に問う。
「八幡信仰は、今でこそ『ハチマン』と音読みするが、本来は『やはた』ないし『やわた』と訓読みするんだ。ところが、これらを古いハングルで読むと、ある地名となる。」
航介には、まったく想像がつかなかった。
「『ヤェ・パタ』で日本海のことだ。『パタ』とは、海。」
「『日本』は、『大八州』の『や』ですか?」
「最近、頭のおかしな韓国の運動家が、日本海を『東海』にする運動をしているが、もともと彼らの祖先があの内海を『日本海』と呼んでいたんだ。実に、バカバカしい話だろう。」
航介は、国土交通省の役人が、まともな感覚でいたことに救われた気がした。あの美術教師だったら、なんと言ったことだろう。
「たしかに、神功皇后の三韓征伐のエピソードをみても、八幡信仰と朝鮮半島は不可分なようですね。なぜですか?」
「市野沢くん。神功皇后は、どこに遠征した?」
「新羅です。」
「そのとおり。しかし、宇佐八幡自体が元々新羅系渡来人の崇拝対象なんだよ。彼らは、機織りだったり鍛冶職人だった。当時の先進的な職業集団だ。宇佐八幡に祀られていたはずの神功皇后が、氏子の故郷を攻め入るというのは明らかにおかしい。」
「言われてみれば、たしかに。」
「この国名を『シイラ』と読むと、ハングルで鉄のことだ。新羅は鉄の生産が、盛んだったようだ。」
「シラギとは読まないわけですか?」
「私は、単語の最後に『ギ』がくるとき、『~の方』という意味が含まれていたと考えている。『シラギ』と呼んでいたのは、隣国の人だとおもうよ。」
工藤は、末尾に「ギ」がくる単語を探させた。
「ウナギは?」
早々と、アーニランが質問する。
「ウナギは、暖かい南洋で産卵して川をのぼってくる。川沿いに住む人が『海の方』と呼んだ。」
「ウナギは川魚じゃないんですか?」
「あの稚魚は、グァム沖から黒潮にのってくる。」
航介にとって、ウナギは池や沼に隠れていそうなイメージだった。あの形態から、泥臭さが連想されて、好んで口にしてこなかった。
「唯一の食わず嫌いが、ウナギっすね。キモイです。」
「ウナギは新羅明神の化身とされているから、それで結構じゃないか。そのまま禁忌としておきなさい。」




