ベイビーハンドクラップ⑦
手当はまだ続きますが、素人のまねごとなので参考にはなりません。
流血が当たり前の職場環境のせいか、破魔課には、シャワールームがある。
たまに徹夜明けの目覚ましとしても使用されるが、祐輔は数えるほどしか世話になったことはない。
シャワールームにパイプ椅子を置き、朔子を座らせてから課室にとって返し、救急箱を手に祐輔はまた引き返してきた。
改めて明るい場所で傷口を確認し、祐輔は眉をひそめる。
肉が裂かれたような鋭利な傷口は,血管を傷つけるだけでなく別の部位も損傷させてしまっているように見える。こんな大怪我を負いながら正気を保っていられることの方がおかしかった。
「私、接近戦しかできないから怪我なんて珍しくないよ。」
言い訳のように朔子は唇をとがらせる。祐輔は無言で傷口を消毒して包帯を巻いてゆく。
何を言っても無駄ならば,何も言わないだけだ。
「痛ぁ…」
「もう少し考えてはたらけ。無謀さと勇気は別物だ」
「わかってます!…うあう」
液が浸みたのか朔子はぎゅっと目をつぶる。
痛覚はあるんだなと内心祐輔は安心した。
そう考えればますます,怒りに似た感情もわいてくる。
「…少し我慢しろよ。」
出血の酷い別の傷口に向けて,シャワーで血を流す。
血と水は混ざり合い、排水溝に流れてゆく。タイルに、水滴が散る。
痛みを堪えているのか,朔子の肩に力が入っていた。
服を着たままシャワーを使ってしまったことを今更悔やみつつ,尋ねた。
「…着替えあるのか?」
「一応ロッカーに…。」
流石に着替えまでは手伝えない。
水滴を拭いてから包帯を巻いていく。
殆ど医療行為は素人に近い処置しかできないが,朔子は抵抗もせずおとなしくなされるがままになっている。
抵抗らしい抵抗といえば大怪我を負っているのだということを認めないことくらいだ。
無謀さに呆れると言うより馬鹿馬鹿しさの方が強い。
つい祐輔は,普段なら絶対に口にしないような言葉をかける。
「おまえ、向いてないぞ封魔師に。死ぬ前にかんがえなおしたらどうだ?」
「しんぱいしてくれてるの?」
からかうような響きに、祐輔はむっとする。
「勝手に死なれると俺の仕事が増える。」
「私は死なないっていったでしょ?」
朔子は嗤う。
何故笑えるのか、祐輔には理解できない。
「封魔師でいることは私が生きている証。空っぽな私が生きる理由。」
水のおと。
ごぽりと音を立てて排水溝に水が吸い込まれてゆく。
「渡界者を滅ぼすまでは、死なない。」
「……」
祐輔の位置からは、朔子の表情は見えなかった。
タイルに散る水滴が血をすすいでいく。
「…人間相手にここまで負けているのに…か?」
「いいの。…しばらくは動き回れないくらいは、痛い目にあっただろうし。」
「だから、甘いんだろう。」
背中から視線を外し、祐輔はタイルを見つめる。
「殺すまで、終わらないぞ。」
「人間だった。」
薄明かりをうけて、水は黄金色に反射して流れる。祐輔はシャワーの蛇口に手をかけた。
「人間を殺すのは、封魔師の仕事じゃない。」
同じ台詞を聞いた気がすると思った。あれは虎太郎だっただろうか。
だが含まれる意味が違う。
「人間と渡界者…大差ないだろう。」
「どうして?渡界者は,人間を殺すよ。人間を食べる。人間は人間を食べない。」
「人間は雑食だ。人間も人を殺す。」
「渡界者のような残酷な手口で人を殺す?」
「新聞読んでるか?毎日のように紙面を彩っているのは,人間による人間殺しだ。」
冷ややかに,現実を突きつける。
「人間も渡界者も,食料の為に争う。違いがあるとは思えないが。」
「人間は雑食なんでしょう?だったら,選択肢がある…」
「食料生産の増加は算術数的にしか増加しないが,人工は幾何学数的に増加する。だから貧困と悪徳が発生している。」
「難しいこと,知ってるのね。」
「俺の言葉じゃない。」
「だれ?」
「マルサス。『人工論』で世界の行く先を予言した。自分は嫌でも他人ならいいと思うのが人間だ。自業自得さは,救いようもない。」
「だったらきっと,食欲こそが罪なのね。」
蛇口を閉め、祐輔は救急箱を手に取る。
「本能に近い部分を否定してどうする。お前も俺も,生きるには食べるしかない。どっちにしろ,命を食べなければ生き物は生きていけない。」
当たり前のことだ。
ライオンが草食動物を捕食するように。
鯨がイカを補食するように。
人間も他の命を食べなければ生きていけない。
だから渡界者が人間を食べることも摂理に反しているとは思えない。
無論,もし自分が渡界者に襲われたとして,それでおとなしく食料になる気は全くないが。
渡界者の捕食行為だけを非難する根拠などどこにもないのだと,祐輔は言ってやりたかった。
その区別は,傲慢ですらある。
人間だけが例外だと,何故言えるのか。
「ありがとう」
シャワールームを出て行く祐輔に、もう一度朔子はつぶやいた。それが何に対する謝罪なのか気にかけることもなく,祐輔はシャワールームの扉を閉めた。
お互いに、視線を合わせることはなかった。