ベイビーハンドクラップ③
年の差をとっさに計算しちゃうのは歳をとってきた証拠ですね。
破魔課課長室のドアをノックすると、「入れ」と声がかかった。
緊張して入室すると、書類が山積みになった重厚な樫の木の机の向こうで、パソコンのディスプレイを見ていた男がこちらを見た。
M字型に生え際の後退した、白髪の目立つ髪をオールバックにしている。細縁の眼鏡の奥の目は鋭く、射抜くように厳しい。右のまぶたからこめかみにかけて茶色く風化した傷が走る。
破魔課課長、真田実流。
38歳と若輩でありながら、過酷な破魔課をまとめる切れ者である。
「また遅刻か?」
「…はい。」
じろりと睨め付けられ、朔子は首をすくめる。
「…まあいい、仕事で返上しろ。」
「は、はいっ」
朔子はあわてて返事する。
「空座院と今日あったか?」
「さっき階段ですれ違いましたよ。」
「彼女から依頼があってな。最近ストーカーに悩まされているらしい。」
「…はぁ。」
気の抜けた返事をする。話が訳のわからない方向に行きそうだ。
もっともあれほどの美少女なのだから、いてもおかしくないとは思ったが。
「だからそのストーカーを突き止めろ。可能ならば撃退しろ。」
「え?」
訳の分からない命令につい朔子は聞き返す。
「そのストーカーって渡界者なんですか?」
「違う。」
「…えええ?」
「文句でもあるのか?」
じろりとにらまれ、再び朔子は首をすくめる。
「…ないです。分かりました。頑張ります。」
「後で報告書をあげろ。」
勿論返事するしか、なかった。
課室に一旦戻ってみると,室内に虎太郎がいなかった。
あいかわらず祐輔が机に向かったまま,今度は何かの本を読んでいた。新聞はきちんと折りたたまれ,机の隅に置かれている。
「こたちゃんは?」
質問しても,やはり顔を上げない。
「トイレ。」
「…あそ。」
朔子は入り口近くのボードの自分の名前の下に『調査中』の札を下げ、ブルゾンを手に取る。
「行ってくる。」
手元の本に視線を落としたままだったが、祐輔は朔子に尋ねた。
「課長、なんて?」
「依亜のストーカーしめろ、だって。」
封魔師の仕事じゃない、とぶつぶつ言いつつ朔子は出て行った。
入れ違いになるように、虎太郎が戻ってくる。
「今日も快便!」
「うるさい」
「何?便秘なのかよ祐輔。」
「違うっ」
自分の席に座り、虎太郎は何事もなかったかのようにまたサンドイッチを食べ出す。
「そーいやきーたか?」
食べながら話すなと苦言を呈したが、虎太朗は全く改める気はないらしい。
「だから、知ってる?」
「何をだ?」
気のない返事。
虎太郎は身を乗り出す。
「空座院サンにやばいヤツが横恋慕しちゃったらしいぜ。」
「やばいヤツ?」
「冥王」
「…殺人鬼か?」
「他にこんな名前の奴きーたことねーぞ。」
祐輔は虎太郎の目を見る。
「…小野、そいつを退けろって課長に命じられたぞ。」
正確に言うならば依亜のストーカーをしめろ,という命令なのだがあの様子ではストーカーの正体までは知らないようだった。
「はあ!?」
虎太郎はばんと机を叩く。
その勢いで、がらがらと書類と玩具の山が崩れて虎太郎の足を直撃した。
「痛い!?」
「…何してるんだ?」
つい、尋ねてしまった。単なる阿保である。
「ううう…災害がこんな形で…片づけろってことか!?」
「それはそれで正しいが。」
がしっと祐輔の両肩をつかみ、虎太郎はゆさゆさとゆする。
「てゆかなんで止めないんだよ!封魔師の仕事じゃねーし!あぶねーし!」
「止められると思うか?」
「…あ~そーかも。朔子ちゃん言っても聞かない~頑固だしぃぃ~」
「よく分かってるな、色々」
祐輔は心底感心した。
虎太郎は胸を張る。
「あったり前じゃん、俺,朔子ちゃんのこと好きだも~ん」
「まだまだ子供だろうが…」
虎太郎26。
朔子19。
祐輔28である。
だが虎太郎と祐輔は同期で、虎太郎もこの課きっての古株である。
「やだなあゆーすけ,そういうエロいこと考えてたわけ!?」
「どこがどうエロかったのか説明してみろ。」
胡散臭そうなまなざしで,祐輔は虎太郎の台詞に注文をつける。虎太郎はにやりと笑って「瞬時に年の差を意識しちゃうところ。」と答える。それなりに長い付き合いだが,それでも虎太郎の思考回路は祐輔には理解不能な部分がある,ということを今更ながらに思い出した。
「第一,“好き”にしても色んな種類があるのにさ。」
要するに人間として好き,と言いたかったのだろうと結論づけることにした。
それはそれで祐輔には理解できない話だったが,完全に理解しようとも思っていなかったため特にそれ以上突っ込んで聞く気はなかった。虎太郎もそれ以上戯れ言を続ける気はなかったのか,腕を組んで唸る。
「話ってそういうことだったのか!てっきり新人教育の話かと思ってた!」
新人教育。
確かに今年も入庁式が既に行われたはずだが…破魔課には新人封魔師の配属がない。そんなことは初めてだった。最も一年の研修期間を待たずに新入課員が全員消えている,という事態はさして珍しくないことではあったが。
「そういやそういう時期か…でもまだ1年目の小野にそういう話が来るか?ようやく研修期間が終わったところだろう。ここ数年俺とおまえが交互に教官だっただろう?」
「世代交代って奴?大体教官は男より女が良いじゃんか。毎日明るいよ。」
「…命かかってるのに、か?」
呆れつつ、先ほどの自分のつぶやきの返事に思い至る。
虎太郎は朔子の新人教育係だった。
朔子について把握していて当然だ。
「あーくそ,オッサンに文句言ってくる!」
返事も聞かず、虎太郎は部屋を飛び出していった。その反動でまたもや机の上で雪崩現象が起きる。
「片付けていけよ…」
祐輔はため息をついて、椅子に座り直す。
どうせ相手は殺人鬼とはいえ人間なのだから,危ないと言うほどのものでもないと思うのだが。
封魔師は,殺人鬼だ。
鬼を殺す,鬼なのだ。
祐輔はそれ以上の関心など一片も持たなかったのかコーヒーを飲み,そしてまた本を読み出した。