ベイビーハンドクラップ②
今まであちこちの職場で働いてきましたけど、時間帯によってあいさつは変わらないところが多かった気がします。
大扉の出現は世界を一変させた。
突如その穴から、異形のものたちが出現し始めたのだ。伝説の中だけの存在であるはずのその姿形。古来より悪魔とも鬼とも精霊とも呼ばれてきた彼らの存在の実在を,人間社会は受け容れざるをえなかった。
世界の在り方そのものの認識を変えざるをえなかった。
彼らはここであり、ここでない場所…異世界からこの世界へ渡ってきた者達であった。本来巡り会うことのない隣同士の世界の住人が何故突如退去してこの世界へとやって来たのか…理由は未だに定かではない。しかしその『穴』から人間以外の知的生命体が流入してきたのは確かだった。
彼らは侵略戦争を仕掛けてはこなかったが、しかし人間にとっては有害だった。彼らの食料が不幸にも…彼らの本来あるべき世界では違うものなのかも知れないが…人間、だった。
彼らは強かった。
人間とは根本的に相容れない生物であった。彼らの前では人間はあまりにも非力であった。故に人々は彼らを『渡界者』と呼ぶ。
時には悪魔、と
何度かの不幸な邂逅と幸運な邂逅を重ね、人々は何とか渡界者と共存のための取り決めを定めた。人間に危害を加えた渡界者について人間はその渡界者を処刑できる、と。
だが渡界者に挑むことが人間に出来るのか。
物理法則を越えた力をふるう彼らの捕食行為を人間が留められることができるのか。
警察も軍も,既存の武力はあまりにも無力だった。
だが混乱の最中設立された時元庁には、いた。
人間とはかけ離れた生命力、力を持つ渡界者を殺すことのできるものたちが。
封魔師。
それが彼らの肩書きである。
国家に正式に容認された、唯一渡界者を殺しても罪には問われない人間。
渡界者を殺すという特殊能力を有する者たち。
法外な高額の報酬を約束されると共に死と隣り合わせの,命の保証のない職業。
人間でありながら殺人鬼であるという矛盾を抱えながら,封魔師は誕生した。その職の特殊性のため,わずか平均寿命が二十代半ばという極限の状況の中で。
彼ら封魔師を統制し時元庁は成立する。
人類と渡界者の狭間。
そこを分かつものとして。
朔子が破魔課室にはいると、他の人間が机に向かって新聞をひろげていた。一面には「冥王からの挑戦状、再び」という文字が躍っていた。スポーツ新聞にでも載っていそうな煽り文句だったが、都心では今この話でどのマスメディアももちきりだった。メディアに全くふれることなく生活している朔子でも知っている。連続殺人鬼だ。その見出しだとまた犠牲者が出たのだろう。
読んでいるのは黒いスーツに臙脂色のタイ、耳が隠れるほどの中途半端な長さの髪の男。中肉中背で、これといった特徴はない。とはいえ朔子と同じ封魔師、しかもこの課きっての古株、今年で六年目の勤務になる男、永尾祐輔だ。
「おはよ。」
「もうすぐ夜だぞ。」
新聞から顔を上げないまま、祐輔は素っ気なく答える。いつものことだが愛想がない。
「仕方ないでしょ。不規則な生活だし、さっき私は起きたの。」
これまたいつものように文句を付けつつ、朔子は壁際に並ぶ書棚から分厚いファイルを取り出し、部屋の中央に固まって並ぶ机の上に置き、椅子を引いて座る。机は6個あり、祐輔は朔子の斜め前の机に座っている。封魔師に執務用として与えられる机で、何となく持ち主の性格がにじんでいる。朔子の机はものが全くない。自宅と同じようなものだ。かろうじでペン立てと、誰かから土産にもらったツキノワグマの置物がある。祐輔の机の上は本が並びきちんと片付いている。他の机はおおむね倒壊しそうなほど物が積み上げられている。中には特撮ヒーローのフィギュアも混ざっていて、訳が分からない。
朔子はファイルから用紙を引き抜くと、ボールペンを手に取り、書き込み始める。
「遅刻、も仕方ないのか?」
「う。」
小さく、うめく。祐輔は顔を上げない。
朔子がこの男を苦手な理由の一つ。
他人のことなど一切興味ない,といった顔をしながらそれでいてなんでもお見通しな言動だ。ただ単に,経験の差なのかもしれなかったが。
「起きられなかったんだもん…」
つい,言い訳めいた言葉が口から出る。
だが責めるわけでもなく,今日は珍しく祐輔が質問を重ねてきた。
「昨日は定刻通り上がりだったろ?」
「あんたはね…私は長引く件があってオーバーよ。」
疲れたように朔子はため息をつく。破魔課はシフトにより24時間体勢で出動要請に応える。大抵二人組で勤務に入るが、担当する仕事により勤務時間をオーバーする。定刻通り終わる方が珍しかったりするが。
「手こずったのか?」
「んん…。…ちょっとだけ。」
報告書を書く手を止めないで朔子は答える。二人ともお互いに対して関心を払っていないように、自分の作業に専念している。
ここで交わされる会話も,記号のやりとりのようなものだ。きっとすぐ,忘れてしまう。
少なくとも朔子はそうだ。
「何だったんだ?」
「潜伏型で、通り魔みたいな奴。しぶとくて嫌だ、あいつら。」
渡界者、と一言に言っても様々な形態や趣向を持つ。人間と渡界者の間で取り決めが為されたとはいえ,人間に害をなすものは一部の渡界者とはいえある程度存在する。
当分失職の可能性はないだろうと職員の間では話されている。
「おっはよーん」
ドアが開き、一人の男が入ってきた。白っぽい逆立てた金の髪から覗くのは猫科の獣を思わせる耳。がっしりとした体つきで祐輔と同じ服装だが、着崩れて祐輔とは違う印象がある。
「…犯人はおまえか。」
祐輔は顔を覗かせた男を見てうんざりしたように言った。ようやく新聞から顔を上げたわけだが、室内に入ってきた男は手に抱えていた紙袋を祐輔の頭上に振らせる。
「オイ!」
「犯人ってなんだよ。何もしてないぞ俺。」
「おはよ、こたちゃん」
「おっはよー朔子ちゃん、昨日はお疲れ様だっけ?」
朔子のおはよう発言はこいつが元ネタだな、と祐輔は確信した。
「虎太郎…おまえ、次のシフトだろ?出勤時間間違ってないか?」
獣の耳を持つ男…小島虎太郎は朔子の教官だった。
封魔師の採用試験は国家認定封魔師の資格取得と直結しており、そのまま現場に配属される。しかし一年間は二級資格という扱いになり現職の封魔師が教官となり、見習いをさせる。その研修期間中に命を落とす人間も多い。運良く生き残れば一級資格に自動的に切り替わり,一人前と見なされる。
一人前の殺人機械として,国家に認定される。
一年間の教官役を務めた虎太郎は朔子に多大な影響を与えているはず,だ。しかし悪い影響まで及ぼす必要はないだろうと祐輔は思うが、口にはしなかった。
「それがさー、真田サンが入れって…朔子ちゃん、課長室行ってくれる?話があるんだってさ。」
「…うぇぇぇ」
心底嫌そうな顔をしたが、朔子は立ち上がると部屋を出て行った。
虎太郎は朔子の隣…おもちゃが埋もれている机に座ると、祐輔から紙袋をひったくって中身を取り出す。
「ったくオッサンも人使い荒いよなー。朔子ちゃんになにやらすつもりかね?昨日の今日なのにさ。」
紙袋から取り出したサンドイッチを頬張りつつ、話す。
祐輔は新聞の横のマグカップを手に取り縁に口を付ける。
「そんなことくらいで駄目になるくらいならさっさとこんな職場辞めた方がいいぞ。」
「だって怪我してんだよ、朔子ちゃん!」
何でお前がそんなことを知ってるんだと尋ねると,同期は胸を張った。
「俺,朔子ちゃんのパパだし。」
「…言ってろ。」
「あ,ていうか祐輔の方こそ怪我してることに驚かないって事は」
「だから言ってるんだろ。」
朔子を一度も直視していないはずの祐輔が、何故彼女が怪我をしていることが分かるのか。
そもそも朔子は本当に負傷しているのか。
しかし虎太郎は問いはせず、「祐輔のオニ。」と言い切った。
「言いたきゃ言え。」
祐輔は別に傷付いた風もなく素っ気ない。
「運が悪ければ死んで、実力がなかったら死ぬだけだからな、俺らは。」