第一章 ベイビーハンドクラップ①
プロローグに近いです。
水の音が耳に響く。熱いシャワーは感覚を目覚めさせるように朔子の四肢を濡らし、排水溝に流れてゆく。
きゅっと音を立てて蛇口をひねり、シャワーを止めると彼女は浴室から出た。手早くバスタオルで体を拭く。浴室から漏れる光だけがワンルームマンションの狭い室内の唯一の光源だった。かすかな明かりに照らされて浮かび上がる彼女の裸体は、どこか幼さを残し、女性でも少女でもない。室内は特に家具もなく、パイプのベッドとテーブル、椅子、ナイトテーブルのみがその部屋の数少ない家具だ。
彼女は何も纏わないまま、ナイトテーブルに歩み寄る。写真立てと、コップとミニサボテンの鉢。読みかけの本。ナイトテーブルの上に置かれたそれらだけがこの部屋にある装飾品と呼べるものの全てであった。家具と同じく,極端なほどになにもない。
写真立てを片手に取り、髪をタオルで拭きながらそれを見つめる。明かりのない部屋でそれが見えているとは思えないが、じっと見つめる。
内容ならば覚えている。網膜よりも,記憶の中で強く。
「も…一年か。」
かすかな、つぶやき。そこには感慨よりも疲労のような寂寥感が漂っていた。その一年を何よりも濃密に過ごしたが故の,倦怠感。
しかしそれ以上物思いに耽ることはやめ,テーブルに写真立てを戻して作りつけのクローゼットに向かう。出勤の時間が迫っている。
真夏のことだったという。
一瞬の出来事だったともいわれる。
青い天空が突如深紅に染まり,季節外れの大雪が吹き荒れた,その日。
今から52年前。
月が二つに増えた。
否。
上空に巨大な穴が空いた。
その日から世界は姿を一変させる。常識も、日常も、構造も、何もかも。
何より、景色が。
世界を激変させたその異変は月の形をしていた。
赤い月の形をした血のような深い穴。
程なくして人間はそれが単なる天体ではないことに気付くことになる。
纏う色彩と同じ残劇が地上に生まれ落ち,選択の余地もなく災厄と向き合うこととなる。
天候の変動も,天空に景色の変化も,それは些細な変化に過ぎなかった。
世界が薄皮一枚でかろうじで覆われ,守られていた脆弱な代物であることを自覚することとなる。
やがて人々は出現した沈まない月…昼も夜もなく、頭上にのしかかる赤い月をこう呼ぶことになる。
大扉、と。
あらゆる災厄と悲劇,嘆きを生み出す扉だと。
ふぁぁぁあ。
「ま、おおっきな欠伸。まだまだ寝るには早い時間よ」
空は明るい赤に染め上げられ、西の空にはまだ太陽が見えた。
夜でもない、昼でもない曖昧な時間帯。
「うっさい…てあんたなんでこんなとこにいんのよ!?」
朔子はハタと我に返り隣を見る。
奇妙な二人だった。一方は黒いワンピースに身を包み、襟元まできっちりボタンを留め、襟口には星のブローチをつけている。丸眼鏡をかけ、髪は二本の三つ編みにして両肩に垂らしている。一方は白いレースをいくつも重ねたドレス姿。胸元は深い切り込みが入り、スカートはミニだ。長い髪は羽根のように肩口や背に流れ、服装とも相まって、さながら天使のように愛らしい少女。歳も背も同じような二人であったが、黒と白、両極端に存在するかのようだった。
二人が立っているのは高いビルの前の階段。
盛んに人が出入りしている。どちらかというと浮いているのは白い少女の方。ビルに入っていく人間のほとんどが黒い服装。皆一様にブローチを襟に付けている。細かな意匠は違っても,同心円で囲んだ基本のモチーフに違いはない。
それもそのはず、このビルまるまる一つが朔子の職場、時元庁なのだ。それも部外者は立ち入り厳禁が基本の本庁ビルだ。全く部外者の彼女がいていいはずがない。
時元庁は国家安全保障を担う各機関の中でも最も歴史が浅く,最もこの国で重要視される特殊機関だ。それ以上に,一般人が近付く理由がない。忌み嫌われることはあっても,気軽に見学しようなどと言う暇人がいるはずもない。
「ん?真田にね、ちょっと用事があって。」
首をかしげ,僅かな微笑みを頬にのせて依亜は答える。
この笑顔に,大抵の人間は「そんなこともあるのか」と彼女の言葉を頭から信じてしまう。美人な上に,嫌味のない態度。それでいて,可愛らしい仕草。
同世代の同性と接する機会が殆どなかった朔子にも,それが得な性格であることは分かる。
自分にはない資質だから,尚更。
「真田…て課長?」
「他に誰がいんの」
「ますますここにいる意味がわかんないんだけど…」
真田は朔子の上司だ。朔子は眉をひそめる。
世間話をさせるために…というわけではなかろう。彼女の上司は忙しいし,プライベートと仕事を混合させることは決してない人間だ。
「依亜、あんたうちの課に堂々と顔出していい訳?」
「失礼ね、私は一般市民なのよ。あいつに苦情言いに来ただけ。」
依亜…空座院依亜はきっぱり言い切ったが、朔子は疑わしそうにそんな彼女を見つめている。だがそれ以上は追求せずに、ひらっと片手を振る。
「あそ。んじゃね。」
一切の興味と関心をもたない,ひどく平坦な感情の発露も意に介さず,笑って依亜も手を振った。
「じゃ、今度遊びに行きましょ。」
「やだ。」
即答だったが気を害するわけでもなく、また依亜は笑った。
「けちね。」
「休日は寝たいもの。」
言い訳ではなく本心だった。
それは理解しているのかそれ以上追求はせずに肩をすくめ、依亜は階段を下っていった。
その後ろ姿を見送ることもなく,朔子は階段を上りビルのエントランスホールに入る。
エントランスホールは様々な人間が忙しそうに横切る場所だ。建物の正面玄関であることに加え,この場所を通らなければ各階を行き来するエレベーターホールには行けない造りになっていることが最大の理由だろう。行き交う人々は少しずつデザインの異なる格好ではあるが,黒という統一された色彩は一つの組織であることを物語っている。制服なのだろう。
「こんにちは、朔子。」
受付の女性が朔子に声をかけてきた。朔子よりもっと若く…幼く見えるがその実年齢が全く分からない、受付嬢のリィリィだ。
朔子は挨拶を返してから、ホールの中央にあるエレベータの三番に乗り、カードのようなものを内部のスリットに通す。箱は滑らかに動き出した。朔子の所属する課、5階への直通便で、他のエレベーターはこの階に止まらない。微かな振動に身を預けながら朔子が考えたのは職場のロッカーにあと何着,制服の予備が入っていただろうかということだった。結局考えることを放棄して直接自分で確認した方が早いと決着がついた頃にはエレベーターは目的の階に止まっていた。
朔子は箱を降りると、モスグリーンの落ち着いた色彩で統一された廊下を歩き『破魔課』の表札が出た部屋に入った。
時元庁破魔課。
それが大野朔子の職場であり、彼女はこの課に属する国家認定一級封魔師である。