98話 「陰鬱な味」
その日の昼前、私はレイに誘われて街の見回りに出掛けることとなった。
こんな時だ、本当はあまり事務所から出たくない。しかし、彼女が何か話したそうだったので、一緒に行くことを決めた。
レイがいれば一人よりかは安全だろう。きっと大丈夫。そう自分に言い聞かせ、時折込み上げてくる不安を振り払う。
レイと二人で六宮の街を歩くのは久々だな、と私は少しだけ楽しみにしていた。だが、武田が「自分も同行する」と言い出したため、結局三人になってしまった。なのでレイと二人ではない。
左にはレイ、右には武田。私は二人に挟まれた状態で歩いている。少々息苦しい感じはするが、襲われた時のための位置なので仕方ない。
「武田さん、本当に大丈夫なんですか? 昨日の今日で見回りに参加するなんて」
私は右を歩く武田に話しかけてみた。
「あぁ、問題ない。歩くくらいならどうもないんだ」
彼は私やレイと同じように、一定のペースで淡々と歩いている。全治二週間とはいえ、それなりの傷を負っているとは到底思えない。事情を知らない人が今の彼を目にしたとすれば、まさか怪我人だとは夢にも思わないはずだ。
「銃創は大丈夫なの?」
困っている人がいないか周囲を見渡しながら、レイは尋ねた。武田は速やかに返答する。
「弾丸は貫通していたのでな、ややこしくならずに済んだんだ。運が良かった」
他人事のように話す武田を眺めていると、段々不思議な気持ちになってきた。
足を撃たれ、肘を痛めつけられ、背中なども蹴られたりして。にもかかわらず翌日の見回りに参加するというのは、かなり普通でない気がする。一般人に容易くできることではない。
「無理は禁物ですよ、武田さん。痛くなったらすぐに言って下さいね」
「そうしよう。沙羅は優しいな、本当に」
「優しくなんてありませんよ。当然のことを言っただけです」
「いや、当然のことではない。エリナさんは一度もそんな風には言わなかった」
「エリナさんは厳しいですもんね」
穏やかな日が降り注ぐ中、私たち三人は、たわいない会話をしながら歩く。車道の端を、陸橋を、そして商店街を。困っている人がいないか目を配りつつ、極力ゆっくりと歩いた。
見回りをある程度終えた時には、既に正午を回っていた。ちょうどお昼時である。私たちは休憩も兼ねて昼食をとろうと、六宮駅へ向かった。なぜ六宮駅かというと、その付近には飲食店が集中しているからである。
「沙羅ちゃん何食べたい?」
歩いているとレイが急に尋ねてきた。
私は少し考える。
中華、和食、イタリアン、お好み焼き——選択肢が豊富すぎて、どれを選ぶか迷ってしまう。本心を言うなら、レイが決めてくれる方がありがたい。私はこういうことを決めるのが苦手なのだ。
「えっと……」
なかなか決められずいると、唐突に武田が口を開く。
「お好み焼きが良いかと思うが」
彼が意見を言うなんて意外だ。そう思い驚いていると、彼は続ける。
「沙羅は焼きそばが好きだっただろう。お好み焼き屋なら焼きそばもあるはずだ」
「確かに! 沙羅ちゃん、どうする?」
「はい。ではそれで」
レイは爽やかな笑みをこぼしながら、明るい声で「決まりだね!」と言った。一見元気そうに見える。しかし、どうも無理している感が否めない。
昔から彼女を知っているわけでもないのに、変わらないな、なんて思う。
エリミナーレへ入った最初の日、歓迎会の準備の買い物をしていた時のことをふと思い出した。あの日の彼女の、ほんの些細なことで崩れ消えてしまいそうな儚さ。今でも鮮明に思い出せる。
「……沙羅ちゃん?」
「あっ。すみません、つい考え事を」
ほんやりしてしまっていたようだ。レイと武田が、心配したような顔をして、それぞれ言ってくれる。
「どうしたの? 大丈夫?」
「もしや、体調が悪いのか?」
ただの考え事で二人を心配させてしまってはあまりに申し訳ない。だから私は、意識的に笑顔を作り、「大丈夫です」と返した。
それでなくとも精神的に大変な時だ。二人にはなるべく余計な負担をかけたくない。
私たち三人は、お好み焼き屋に入った。こんな真っ昼間からお好み焼き屋へ入るのは初めてかもしれない。
店員に案内されたのは、向かい合うようなソファ席だ。恐らく四人用の席である。そこを三人で使うのだから、スペースは結構裕福に使える。隣に武田が、前にレイが、それぞれ座った。
「席が空いていて良かったですね」
「あぁ。そうだな」
武田は短い返答を返した後、ふぅ、と軽めの溜め息をつく。だいぶ歩き続けたので、少々疲れたのかもしれない。そんな顔つきをしている。
「武田さん、体は大丈夫ですか?」
念のため尋ねてみると、彼はゆっくりと一度頷く。
「問題ない。だが、少し疲れた気はするな。やはり昨日の今日では普段通りとはいかないか……」
その時ちょうど店員が水を運んできてくれた。冷たい水だ。彼は早速、水をほんの少し口に含む。
「どこか痛いんですか?」
「いや。平気だ、案ずるな」
「本当に大丈夫ですか?」
「……少しだけ痛む」
武田は、非常に言いにくそうな顔をしながらも、小さな声でそう言った。それから少しして「足が」と付け加えた。
「だが、私はこの程度で弱ったりしない。撃たれたのも初めてではないしな。だから沙羅、そんな不安げな顔をするな」
そう話す彼は微笑んでいる。けれど、その微笑みは、あからさまに歪なものだった。隠し事をしているような顔だ。多分、実際は少しの痛みではないのだろう。
「でも心配です」
心配でないわけがない。それでなくとも結構な怪我をしているというのに、一週間後にはまた戦いが待っている。
「一週間後、宰次さんたちとまた戦うんですよね。……私は、武田さんにはもう戦ってほしくないです」
すると武田は、戸惑ったように首を傾げた。
「沙羅、なぜそんなことを言う?」
レイは黙って見守ってくれている。私の思いを汲んでくれているのだろう。
「完治していない体で戦ったら、また悪化するかもしれない。そんなのは嫌です」
しかし、武田には私の気持ちは届いていないようだった。
「すまんが沙羅、その願いは叶えてやれない。宰次との戦いは避けられるものではない」
初めから分かっていた。彼がそう言うことは。彼が戦いを選ぶことも。
だが、私が言えば戦いから降りてくれるかも、と甘い幻想を抱いていたことは事実だ。ほんの少しの可能性を期待せずにはいられなかったのである。
「沙羅、心配しすぎるのは良くない。過度のストレスは体に悪影響を及ぼしてしまうものだ。あまり考えすぎるな」
武田は優しく微笑んでくれる。けれども、私が彼が傷つくことを恐れているということは、理解できていないみたいだ。
その後はたわいない会話に戻った。
私が注文したのはソース焼きそば。焼きそばの王道だ。そして、私の好物である。
ソース焼きそばは予想通りの美味しさだ。温かくて、濃厚で、麺の歯触りも柔らかくて——だが、どこか悲しい味をしていた。