97話 「いつもより早い朝」
翌朝、いつもより早く目が覚めた。私は朝に強くないので、大抵遅めに起きて慌ただしく準備をするのだが、今日は珍しく時間に余裕がある。だから、寝惚け眼を擦りつつ洗面所へ向かった。
その途中、リビングの前で私は足を止める。扉越しにレイとエリナの声が聞こえてきたからだ。
「以前仰っていた真の目的とは、あの宰次という男への復讐なのですか」
「……えぇ。何か問題でも?」
「エリナさんはエリミナーレを、個人的な復讐のために利用するおつもりなのですか?さすがにそれは納得できません」
何やら難しそうな話をしている。真剣な空気で入っていけそうにない。私は扉の前に立ち、暫し二人の会話を聞くことにした。
「私は新日本の平和を守るためにエリミナーレに入りました。だから、六宮やこの国に暮らす人たちを守るためなら、命だって惜しくはない」
扉越しでもレイの声ははっきりと聞こえる。
「けれど、貴女個人の復讐のために命をかけようとは思えません」
「レイ。それはエリミナーレを辞めたいということかしら」
「いえ、違います。復讐はエリミナーレの職務範囲ではない。だから止めてほしい。私はただ、そうお願いしたいのです」
数秒、間があった。
存在がバレたかと一瞬焦ったが、何も言われないので、どうやらそうではないらしい。私は安堵の溜め息を小さく漏らす。
「……それは無理なお願いね」
エリナの声は冷たいものだった。
「エリミナーレのリーダーは私。だから仕事内容を決めるのも私よ」
彼女から発される言葉は静かだ。しかし、突き放すような強さを持っている。
「待って下さい! リーダーなら何でも許されるというわけではないでしょう!」
「そうね。でもこれは職務範囲から大きく外れてはいない」
レイが口調を強めても、エリナはまったく動じない。落ち着いている。
「宰次の行動が間接的に治安を乱していたのは事実だわ。それに、彼によって何人もの民間人が罪を背負うことになったのよ。李湖だってそう」
確かに、間違いではない。
宰次が吹蓮にエリミナーレ殲滅を依頼したのがすべての始まりだ。それによって、無関係な人まで巻き込まれた。
「つまり、宰次を倒すことは国のためにもなるの。分かってくれると嬉しいのだけれど」
エリナの声が途切れたちょうどその時。
背後に人の気配を感じて振り返ると、武田が立っていた。まだ着替えていないらしく、ポロシャツを着ている。露出した右腕には包帯が巻いてあった。
彼は私の顔を見ると、穏やかな目つきになる。
「沙羅、今日は珍しく早いな。そこで何をしている?」
痛いところを突く質問だ。慎重に答えなくては。
「エリナさんとレイさんが何か話してられるみたいなので、少し気になって」
「なるほど。そうだったのか」
即興で考えた返答に対し、武田は納得したように頷く。盗み聞きしていたのだと思われたらと心配していたが、どうやらそれは杞憂だったようだ。
私は速やかに話を変えるべく尋ねる。
「武田さん、その腕……肘以外も悪いんですか?」
痛めたのは肘と聞いていたが、包帯が巻かれている範囲はもっと広い。腕を痛めたという方が相応しい気すらする。
「いや、痛めたのは肘だけだ。他は掠り傷程度だな」
「掠り傷でも十分傷じゃ……」
「そうか。なら言い方を変えよう。肘以外は踏まれた跡だけだ」
言い方の問題ではない気がする。ただ、私のことを思って言い変えてくれたのだということは理解できた。少々変わっているが、彼なりの気遣いなのだろう。
「沙羅。昨日は本当にすまなかった」
私を見下ろす彼の視線は、穏やかだがどこか気まずそうな色を帯びている。
「武田さん?」
様子がおかしい。そう思い、名を呼んでみる。
——刹那、武田が強く抱き締めてきた。
あまりの衝撃にあらゆる思考が吹き飛ぶ。脳内は真っ白。
「無事で良かった……本当に」
彼は私を抱き締めたまま囁くように言う。
体に絡む彼の両腕には柔らかさはなく、しかし温かい。なぜだろう、優しさを感じる。
「沙羅が宰次に何かされているかもと思うと、落ち着いていられなかった。あまりに心配で」
「あ、あの……」
廊下には私と武田だけ。リビングにはレイやエリナがいるが、話し込んでいるのでしばらく出てきそうにはない。誰かが起きてきそうな気配もまったく感じられない。
二人きりの状況でこれはさすがにまずい気がする。武田に限って間違いは起こらないだろうが、ある意味まずい。というのも、先ほどから心拍数が跳ね上がっているのだ。
「あんな気持ちになったのは初めてだった。沙羅、お前を失うことを、私は心から恐れた」
このままでは、負荷に耐えきれなくなった心臓が、破裂してしまいそうだ。今までも胸の鼓動が速まることは多々あったが、ここまでというのは初めてかもしれない。
「だからもう二度とお前を拐わせたりはしない。今ここで誓おう。私はお前を護る。それが——」
「そ、それが?」
「良き友として私にできることだ」
……おぉ。良き友。
やはり仲間や友の域を出ないのか。女性として見てはくれないのか。そんな風に、心の中で不満を呟いてしまった。
少し時間が経つにつれ、抱き締められるのが苦しくなってきた。彼の腕の力は予想外に強かったのだ。圧迫され、呼吸がしづらい。
だから勇気を出して言うことにした。
「武田さん、あの」
「どうした?」
「ちょっと苦しくなってきました」
本当はちょっとではない。結構な息苦しさだ。だが「結構苦しい」とは言えないので、控えめに言ったのである。
すると武田は、焦ったように腕を離した。一歩二歩後ずさり、慌てた様子で口を開く。
「す、すまん! つい勢いで意味不明なことをしてしまった!」
随分慌てている。落ち着きのない言動は彼らしくない。しかし、慌てる武田はどこか可愛くも感じられる。
「いきなり抱き締めるなど、完全にセクハラだ。すまない、どうかしていた……」
「いっ、いえ! 気にしないで下さい!」
私は嬉しかった。だからセクハラではない。
「だが嫌だっただろう? 二人きりという断りづらい状況で、しかも力ずくで……本当にすまない。私のこと、嫌いになってしまったか?」
しつこい武田を見ていると、少しばかり面倒臭く感じてしまった。そのせいで、思わず口調を強めてしまう。
「いいんです! 謝らないで下さい!」
「だが……」
「嫌とかじゃないです! むしろ嬉しいですからっ!」
言ってしまってから後悔した。最近はこんなのばかりだ。つい感情のままに言葉を発してしまう。
そんな私の発言に、武田は困惑した顔をしていた。