89話 「消えない不安」
私が案内されたのは、二階の一室だった。事務所のリビングと同じくらいの広さはある、広々とした部屋だ。
直径一メートル程度のテーブルが一つ、背もたれのついた小さめの椅子が三つ。ちょこんと置いてある。そして、壁にはモニターが十個ほど設置されている。やや大きめのものが一つ、他はすべて小さめだ。
「おや、もう着いたのかい? 意外と早かったねぇ」
そこにいたのは——吹蓮だった。
宰次はさらりと「道が空いてましてな」と返す。彼の顔には驚きなど微塵もなく、それどころか微笑みが浮かんでいる。警戒している様子はない。ということは、彼は吹蓮と知り合いなのだろう。
鞄は没収され、携帯電話は手元にない。仮にエリミナーレが助けに来てくれるとしても、まだずっと先だろう。
これから私はどうなるのだろう。そう考えていると、急激に不安が込み上げてくる。不安と戦い続けるのは嫌なので、私は考えることを止めた。
「沙羅さん、こちらへどうぞ」
宰次の口調は優しく丁寧だ。しかし、行動は真逆である。私がもたついていると、彼は私の体を無理矢理引っ張り、力ずくで椅子に座らせる。かなり乱暴だった。
「しばらく大人しくしておいてもらえますかな? すぐに美味しい物を持ってきますから」
美味しい物、なんて呑気に言っている場合ではない。聞きたいことが山のようにある。だが宰次は、私が問いを述べる前に、そそくさと出ていってしまった。
吹蓮と二人きりになる。
「……どうしてここに吹蓮さんが」
私は椅子に座ったまま、勇気を出して吹蓮に目をやる。視線が合った。これ以上はないほど、ばっちりと。目が合い、彼女はほんの一瞬口元に笑みを浮かべたが、すぐに真顔に戻る。
「畠山宰次に呼び出されてねぇ」
しわがれた低い声だった。
「吹蓮さんにエリミナーレ殲滅を依頼した人。それは宰次さんなんですか?」
「……そうだねぇ。その通り、だよ」
「今日は答えてくれるんですね。昨日は言わなかったのに」
吹蓮がいつ何を仕掛けてくるかは予想できない。まだ知られていない術を使ってくる可能性もある。だから私は、こうして言葉を交わす間も、常に警戒を怠らないように心がけていた。私は素人だ、警戒していても無意味かもしれない。だが、油断しているよりはましなはずである。
「天月さんだけには言ってもいいらしくてねぇ」
「どうして私だけ……」
「なんでも、父親にお世話になっているかららしいよ。あたしゃよく知らんがね」
私だって知らない。
新日本銀行に勤めている平凡な社会人である父が、宰次と一体どのような関係だというのか。考えれば考えるほど分からなくなり、頭が混乱する。
……ひとまず、考えるのは止めよう。
そうこうしているうちに、宰次が部屋に戻ってきた。その手には、ドーナツのイラストが描かれた箱。中年男性である彼には似合わない、非常にポップな色合いの箱である。
「ドーナツです。沙羅さんはどれがお好きですかな? 色々ありますよ。ふふ」
彼は箱をテーブルに置き、速やかに開けた。
箱の中には色とりどりのドーナツ。茶に黒、黄や緑や水色——まるでお花畑のようである。とにかく色鮮やかで美味しそうだ。
お腹が空いてきているからか、食らいつきたい衝動が込み上げる。目の前にある甘いふかふかを食べれば、捕らわれているストレスもいくらか軽減されることだろう。
「沙羅さん、どれでもお好きな物をどうぞ」
宰次は微笑みつつドーナツを勧めてきた。
私は恐る恐る箱に手を伸ばし、黄色いドーナツを掴む。手に取ると、ますます美味しそうに見える。かぶり付きたくて仕方ない。けれど私は我慢して、先に尋ねる。
「もしかして、毒入りとかですか?」
すると宰次は、まさか、というように呆れ笑いした。首を左右に動かしている。
嘘かもしれない。本当は毒入りという可能性も十分にある。
けれども——そうだったらそうだったで、その時は諦めることにした。空腹時にドーナツを目にしながら食べずに我慢するなど、どう考えても不可能だ。甘いものやドーナツが極めて好きなわけではない。だが、今は無性に食べたい気分だ。食べてしまおう。
私は思いきってドーナツを口にした。舌に蜜の味が触れる。それから一気に口腔内が甘く染まった。脳が疲れているせいか、普段よりも甘さを強く感じる。美味しい。こんな風に語彙が乏しくなるほど良い味だ。
「お味はいかがですかな?」
「美味しいです」
純粋に美味しいと思った。これはもう、それ以外答えようがない。
「ふふ。お気に召したのなら何よりですな」
もしこれに毒が入っていて、これを食べたことによって死ぬなら、それで構わない。今はそんな風に思える。もちろん死にたくはないが。
「けばけばしい色だが、本当に美味しいならあたしも食べてみたいねぇ」
吹蓮もドーナツに興味を持っているようだ。おかしな術を使う人間離れした彼女だが、やはり心は人間だということか。
「では沙羅さん」
ドーナツを頬張り癒やされていると、宰次が口を開いた。
「美味しいドーナツを楽しみつつ、仲間が殺られるところをご鑑賞なさって下さいな」
静かでありながら鋭い彼の言葉によって、一気に現実へ引き戻された。甘い幸福に浸っている場合ではない、と思い出す。
「やっぱり、殺るつもりなんですか?」
「ふふ。それはもちろん」
彼の目は本気だった。
私はもうしばらく生きていられることだろう。しかし、敢えて生かされているのかもしれない。存在価値がなくなった瞬間始末されるということも大いに考えられる。
そんなことだから、不安はやはり消えない。