86話 「忍び寄る牙」
宰次さん——それを聞き、私はふと思い出す。昨日、事務所の本棚を整理していた時のことを。
ピンクのファイルに入っていた紙に、確か、「畠山宰次」という名が書いてあった。長時間じっくり見たわけではないので顔までは記憶していない。だが、その名前だけは間違いなく覚えている。
昨日見たばかりで今日出会う。こんな偶然があるのだろうか。
「なぜ君がここにいるのか。実に気になるところですな」
ダブルボタンのかっちりしたスーツを着ている宰次は、そんなことを言いながら、こちらへゆっくりと歩み寄ってくる。
「ただ調べものに来ていただけです」
武田は身を固めつつ、淡々とした声色で言い返す。
すると宰次は、その顔を武田の顔へ近づけた。かなり至近距離まで接近している。彼は武田よりも背が低い。なので下から覗き込むような形だ。
「調べもの? 一体何の調べものを?」
「たいしたことではありません。敢えて説明するほどの価値もないことです」
武田は愛想なく返した。
直後、宰次は突然、武田の片手を掴む。手首を強くひねり、そのまま武田の体を本棚に押し付けた。
そして、再び顔面を近づけ、柔らかな声色で言う。
「たいしたことでなくとも説明していただきたいのですよ」
「お断りします」
「では、説明できないことをしていたと見なすとしますな」
宰次は柔らかな表情だが、告げる口調はキッパリしていた。
武田は眉をぴくりと動かす。しかし視線は決して逸らさない。それからしばらく、二人は視線を合わせていた。半ば睨み合うように。
「私は嘘つきに見えますか」
武田は本棚に押しつけられたまま低い声で言い放つ。感情のこもっていない、静寂のような声だった。先ほどまでとは大違いである。恐らく無意識なのだろうが、ここまで声質を変えられるというのは凄いと思う。
「……ふふ。無駄な疑いのようですな」
宰次は呟くように言い、武田から離れた。
それからくるりと身を返す。彼の視線が私に注がれる。畠山宰次——非常に不思議な男だ。
「それで君、お名前は?」
唐突に尋ねられ、私はついきょとんとしてしまう。先ほどまでの緊迫した空気とは打って変わって、のんびりした空気が流れ始める。
「天月沙羅です」
「沙羅さん、か。素敵な名前ですな」
「ありがとうございます」
いきなり握手を求められた。漠然とした不安を感じる。しかし、一方的に拒否するのもどうかと思うので、私は仕方なく手を差し出す。
それにしても、このような流れになるとは予想していなかった。
「初めまして、僕は畠山宰次。こう見えても新日本警察の人間です。よろしく」
「あ、はい。よろしくお願いします……」
握手を交わしつつ挨拶している時、ふと気になって武田を一瞥する。ほんの一瞬視界に入った彼は、信じられないくらい不愉快そうな顔をしていた。驚いて思わず言葉を発しそうになったほどの分かりやすい表情である。
武田がこれほど不愉快そうな顔をするのは珍しい。感情が顔に出るのも人間らしさが感じられるので、時には良いと思う。ただ、このタイミングでというのは、正直意外だった。
「沙羅さん、ここの喫茶店はパンが美味しいのですよ。せっかくですし、ちょっぴりお茶でもいかがですかな?」
宰次は妙に積極的だ。
しかし、自然な笑顔で接してくれるから、嫌な感じはほとんどない。むしろ好印象なくらいだ——あのピンクのファイルを見てさえいなければ。
もちろん今だって、彼に悪いイメージを抱いてはいない。笑顔もあり、口調も丁寧。そんな彼を嫌う理由は何もない。ただ、あのピンクのファイルに宰次だけの紙が入っていたことが、今私の心に暗い影を落としている。本当にこの男性を信頼して良いのだろうか、と思ってしまうのだ。
それと気になるところはもう一つ。武田の宰次に対する態度が明らかに普通ではなかったことである。
宰次が書庫に現れてからのことしか私には分からない。過去のことなどは知らないからだ。ただ、武田が宰次を見る視線には、常に何か闇のようなものが付きまとっていた。
「沙羅さん?」
「……あっ」
思考が勝手に広がっていってしまうのは私の悪い癖だ。また悪い癖が出てしまっていた。初対面の相手にこれは少しまずい。
「すみません。何でしたっけ」
「喫茶店でお茶をするのはどうですかな? 武田くんも一緒に、三人で」
「えっと……武田さん。どうします?」
武田に委ねることにした。
こんな人に絡まれていては調べものが進まない。今日は調べものをしにわざわざ図書館まで来たのだ、邪魔されたくはない。それが私の正直なところだ。
だが、武田がどう考えているかは分からない。私は彼の選択に従うことに決めた。
「どうですかな? 武田くん」
宰次はやや白髪混じりの髪を、整えるようにわざとらしく触っている。
「ぜひ三人で」
「それはお断りします。付き合う時間はありません」
誘いをきっぱりと断る武田。やはり彼も、喫茶店でお茶をするのは嫌なようだ。同じ意見で安心する。
「……では仕方ありませんな」
直後。
宰次が片腕を乱暴に掴んできた。悲鳴をあげる暇もない。そのうちにもう片方の腕も握られる。
強制的に、両腕を背中側に回された。
「こ、これは!?」
「……すみませんね」
いつの間にか宰次の顔から笑みが消えていた。真顔だ。今の彼の顔には穏やかさなど微塵も存在しない。
「沙羅に触るな!」
声を荒げ、一歩踏み出しかける武田。
——しかし。
次の瞬間、彼はその足をぴたりと止めた。
それはなぜか? 答えは簡単だ。私のこめかみに、銃口が押し当てられていたからである。その銃口は、宰次が持つ拳銃のものだった。
「武田くん。そこから一歩でも動いたらどうなるか……分かってますな?」
「……くっ」
武田は動かないことを選んだ。彼の整った顔には、いつになく悔しさが滲んでいる。
私は何度か抵抗を試みた。身をよじり、なかなか上手くいかずとも諦めず、逃れようと頑張る。こんな弱い女でも、エリミナーレの一員だ——そう自分を鼓舞しながら。
けれども、心だけでどうにかなる問題ではない。素人同然の私ではどうしようもなかった。
宰次は勝ち誇ったように、ふふ、と笑みをこぼす。
「彼女はしばらく借りますよ。もし助けたければ、ここへ来ることですな」
怒りに満ちた目をする武田に向かって、一枚の紙切れを投げる宰次。
「ふざけるな!」
「まさか。僕は至って真剣。真面目そのもの」
宰次は最後にそれだけ言い放った。そして、銃口を私のこめかみに密着させたまま、書庫の外へと歩き出す。
綱引きの時のように、進行方向とは逆の方に体重を乗せたりしてみる。しかし、私の体重では軽すぎた。ずるずると引きずられてしまう。
徐々に武田の姿が遠ざかっていく——まさか、こんなことになるなんて。