75話 「祈り」
銃口から放たれた銃弾は、宙を駆け抜け、瑞穂の首を掠める。
残念ながら一撃で仕留めることは叶わなかった。しかし、素人の私がまともに狙いを定めることもせず撃ったのだから、掠っただけでも上出来である。
「……そちらから仕掛けてくるとは。貴女も完全に無力ではないということですか」
それまでナギに気を取られていた瑞穂は、銃弾を受けてようやくこちらへ意識を向けたようだ。僅かに振り返り私を睨む。
銃弾が掠ったところからは血が流れていた。溢れ出すような大量出血ではないが、それでも見ていて痛々しい。赤い液体が真っ白な髪を濡らしている様子は、私には少し刺激が強かった。
少ししてから、彼女は、口元に笑みを浮かべる。
「面白いですね」
その言葉を発するとほぼ同時に、辺りに霧が立ち込めだした。みるみるうちに視界が悪くなっていく。
「……どうやら目的は達成されたようですね」
「目的、だと?」
武田は怪訝な顔で尋ねる。それに対し瑞穂は、ふふっと控えめに笑って言葉を返す。
「任務中の方々がどうなっていることか。ぜひ楽しみにしていて下さい」
彼女は意味深な言葉を最後に、すうっと姿を消した。あまりにあっさりと消えてしまったので少々戸惑う。
残されたのは、ただ暗闇だけであった。
——気づけば事務所の玄関にいた。
なんとか戻ってこれたようである。実際にどのくらいの時間が経過したのかは分からないが、とても長い夢を見ていた気分だ。
ドアはあのまま開いていた。しかし吹蓮の姿は見当たらない。水族館の時も目が覚めると彼女はいなかったので、今回も同じなのかもしれない。
だが、ほんの少しの疑問が心の片隅に残った。わざわざ事務所を訪ねて一体何をしたかったのだろう、と。もっとも、当人がいないので知りようもないのだが。
それから私は、まだ倒れている武田とナギに声をかける。何度か声をかけていると二人は意識を取り戻した。
「……終わったのか」
「どうもそうみたいっすね」
武田は暫しぼんやりしていたが、ナギはすぐに立ち上がる。
「あ。そういや、任務中の方々がどうのって言ってたっすけど、レイちゃんたちに何か起こったんすかね?」
私はたまたまポケットに入れていた携帯電話を取り出してみる。メールや電話を受けると光るライトが点滅していた。急いで開く。
すると、画面にはレイから電話がかかったことが表示されていた。何度もかかっているようだ。やはり何かあったのだろうか、と不安になる。
「取り敢えずかけてみます」
「そうっすね」
しばらく呼び出し音が続く。私は気長に待った。
どのくらい経っただろうか。ついに呼び出し音は終わる。
『……はい』
いつもより疲れたような声のレイが電話に出た。彼女の特徴でもある爽やかさはなく、声はどこか曇っている。
「レイさん。ごめんなさい、しばらく電話出れなくて」
『いいよ、気にしないで』
テンションがかなり低い。レイはわりと安定している質なので、こんなことは珍しい気がする。
『沙羅ちゃんは事務所?』
私は頷きながら「はい」と返す。
電話なので頷くことに意味はない。普通に話すような感覚で自然と動いていたのである。
『武田とかナギとかも事務所にいる?』
「揃ってます」
『じゃあちょっと応援頼みたいんだ。今ちょっとまずい状況だから……』
その瞬間、ガタンと音がした。
『沙羅? エリナよ』
どうやら、レイからエリナに代わったらしい。エリナが話したいことがあるようだ。
『武田はいる?』
「はい。代わりましょうか」
『えぇ。よろしく』
エリナにそう言われたので、私は武田へ視線をやる。彼はちょうどドアを閉めているところだった。事情を説明し、携帯電話を武田に渡す。
「武田です。何でしょうか」
彼は立ったまま私の携帯電話を耳に当て、話し始める。最近はこういうパターンが多いな、と何げなく思った。
だが、私の携帯電話を武田が使っているということが、どことなく嬉しかったりする。
「やっぱ何かあったんっすかね?」
「雰囲気が少し違ったので、もしかしたらそうかもしれません……」
レイとエリナは李湖を護る任務の途中のはずだ。もしかしたら李湖を狙う何者かが現れたのかもしれない——大丈夫だろうか。足首のこともあり、エリナは特に心配である。悪化していなければいいが。
「はい、分かりました。では」
武田は電話を切る。携帯電話を私に返してくれた。
「どんな感じっすか?」
「泊まっていた旅館で襲われているらしい。李湖というあの女、初めからそれが目的だったようだ」
「マジすか!? じゃあどうし……」
「私が迎えに行ってくる」
慌てるナギに対し、武田は冷静だ。二人の様子は対照的である。
「武田さん、一人で行かれるんですか?」
私は一応尋ねてみた。
すると彼は「ゆっくりしているといい」と返してくる。彼なりの気遣いなのだろうが、足手まといと言われている気がして、若干複雑な気持ちになった。
「ナギ、沙羅を頼む」
「オッケー! 何かあったら、ちゃんと護るっす!」
最後に武田は、腰を屈めて私の顔を覗き込む。
「沙羅、くれぐれも無理はしないように」
私を心配してくれているのか、彼はそう言った。表情は柔らかく、穏やかな声色だ。
「よし。では、また後ほど」
私は、事務所から出ていく黒い背中を、見えなくなるまで見つめ続けた。
——どうか彼が、無事に帰ってきますように。
そんなことを心の内側で密かに祈りながら。