65話 「意外と知らないその名前」
護衛任務の依頼人である、庵堂李湖。彼女は、お世辞にも年相応とは言い難い言動を平気でする、極めて変わった人物だった。
「それでそれでー、護衛は李湖が選んでいいんでしたっけー?」
李湖は室内に漂う空気など微塵も気にしない。彼女の中に遠慮などという概念は存在しないようだ。
ここまで自由だとある意味幸せだろうな、と不意に思う。自分がやたらと考えてしまう質なだけに、自由に振る舞える人を羨ましく思うことは多い。
「えぇ。二人選んでもらって構いません」
エリナはさらりと返した。
「ありがとうございまーす! ……うーん。でもでも、エリミナーレってこれで全員?」
李湖の何げない一言で、空気が急激に冷え込む。
「あら。それはどういう意味でしょう」
エリナの作り笑顔に、ほんの少し怒りの色がさす。我慢の限界は近そうだ。
「だってぇ、頼りになりそうな人いないじゃないですかっ。ほとんど女だしー」
正直、もう帰ってほしくなってきた。
いくら仕事とはいえ、こんな人には付き合いきれない。そう思っているのは私だけではないはずだ。
だが、みんなは私が思っているよりも、ずっと大人だった。まだ耐えている。表情を崩さない。
「ならキャンセルしても構いませんよ。もちろんキャンセル料はなしで……」
取り止めを提案するエリナを無視し、李湖はこちらへ歩いてくる。頭上に乗っかった頭くらいの大きさのシニヨンが非常に目立つ。
意図が分からず戸惑っていると、彼女は武田にいきなり抱きついた。第三者が見れば異様だと感じてしまうほどに、体を密着させている。初対面の異性にこんなことをするとは、実に大胆な女だ。
武田は顔を強張らせる。
「可能なら離していただきたい」
「嫌でーす」
サラッと流された武田は、助けを請うような目で私を見てくる。女性に抱き締められる嬉しさなど微塵もなさそうだ。
「お兄さん名前はー?」
「……武田」
「フルネームでお願いしますぅ」
促された武田は黙り込んでしまう。どうやらフルネームは言いたくないらしい。そういえば私も聞いたことがないな、と思った。
「えぇー。もしかして、自分のお名前言えないとかですかぁ? こんな大きいのにー」
……大きさは関係ないと思う。
だが、武田が姓しか名乗らないというのは、よくよく考えてみるとおかしなことだ。エリナもレイもナギも、もちろん私も、みんなフルネームを公開している。にも関わらず、武田だけは武田。違和感は大いにある。
今まで敢えて気にすることはなかったが、一度気になり始めると気になって仕方ない。
「このチームやっぱりちょっとぉ……」
「武田康晃。やすあき、よ」
エリナが冷ややかな声でキッパリと告げた。
突然のエリナの発言に、レイやナギも驚いた顔をしている。武田の名を知らなかったのは、どうやら私だけではないらしい。
「これで文句はないでしょう」
エリナはかなり苛立っているようだ。顔つきを見れば容易く分かる。
「そうですねー。じゃあ」
武田を抱き締めたままの李湖は、嘘丸出しの笑みを浮かべている。
「李湖、康晃くんが良いなぁ」
「なぜ私……」
「だってー、この中で唯一強そうじゃないですかぁ。他の人は頼りにならなさそうだしー」
またしても助けを求めるような目で見てくる武田。さすがに気の毒に思い、一応言ってみることに決めた。
「李湖さん。彼は怪我しているので護衛は適さないかと……」
すると彼女は急に顔を接近させてくる。化粧が濃い顔面を至近距離で見せられ、思わず身震いしてしまった。
「なぁーーによ、アンタ」
「えっ?」
李湖の表情が突然黒いものに変わる。
「隣に立って彼女気取りですかー? 恥ずかしくないの? 色々貧相なくせにー」
李湖の凄まじい変わり様に愕然とした——刹那、武田が彼女の頬を物凄い勢いで叩いた。パァンと乾いた音が鳴り、静寂が訪れる。
転倒したまま地面に座り込む李湖。その顔は引きつっていた。
「……ひっ、酷いーっ!! 女を叩くなんてぇ!! ありえない!!」
数秒して騒ぎ出す李湖。
これは厄介なことになりそうだ、と内心焦る。
「なんてことしてくれるんですかーっ!」
「何事にも限度というものがある」
品のない叫び方をする李湖に対し、淡々とした声色で返す武田。細い目が冷たく鋭い眼光を放っている。
「同性だからといじめるのは、良くない」
だからといって頬をビンタすることもないと思うが……それが彼のやり方なのかもしれない。ただ、依頼人にも遠慮しないというのは衝撃だった。
「そうっすよ! これは珍しく武田さんが正しいっす!」
ナギがいきなり乱入してくる。余計にややこしくなりそうで、なんだか不安だ。
「自分より可愛いからって沙羅ちゃんをいじめるとか、酷すぎるっすよ! ないない!」
できれば私に関係する方向へ話を進めないでほしい。
私はややこしい女性に絡まれるのが一番苦手なのだ。それはもう、誘拐より嫌なくらいである。
「妬んで嫌み言うとかないわ。最悪の女っす!」
そろそろ止めてほしい。本当に。
李湖からの憎しみに満ちた視線が、徐々に痛くなってきた。まるで全身に針を刺されているかのようだ。
「康晃くんったら、酷すぎーっ!」
「その呼び方も止めろ」
「えー、いいじゃないですかぁ。このくら……ひっ!」
武田はひと睨みで李湖を畏縮させた。
名前呼びされたことか、あるいは、彼女が私に嫌みを言ったことか——武田をここまで怒らせた原因が何かは分からない。しかし武田が激怒していることだけは確かだ。目の色が日頃と明らかに異なっている。
今回の仕事もなかなか苦労しそうだな、と私は心の中で溜め息をついた。