57話 「案ずることはない」
しばらく休んでいると体調は元通りになってきたので、私は武田と、もう少しだけ水族館を楽しむことにした。既に様々な魚たちを観察してきたが、グッズショップはまだ見ることができていない。せっかく水族館へ来たのだから何か買って帰りたいものだ。
レイやモルテリアと合流して四人で回っても良かったのだが、レイが「遠慮しとくよ」と言ったので別れることになった。これはあくまで私の想像だが、レイは私と武田が二人になれるよう配慮してくれたのだと思う。彼女はそういう人間である。
今日は色々あったが、それももはや過ぎたこと。今はただ純粋に水族館を満喫しよう、と自分の心にそっと命じた。
それから私はグッズショップに行く。武田が察することのないようこっそりと、ピンバッジを買った。アニメ調のカニがついた可愛らしいピンバッジ。こっそり二つ買っておいた。片方武田にあげてみようと思ったのだ。
そして、帰り道——。
日は既に暮れ始め、空は夕日で赤く染まっている。つい先日まで夕暮れ時には冷たい風が吹いていたのだが、今日は比較的暖かい。風がないからか。
「そういえば武田さん、あの男の人の群れは大丈夫だったんですか?」
軽食店で女性が囲まれていた件について尋ねてみる。お婆さんの一件ですっかり記憶から消えてしまっていたのを、唐突に思い出したのだ。
「あぁ、問題ない。不思議なことに私が近づいた瞬間逃げていった」
「本当に不思議ですね。でも、何もなくて良かったです」
心から自然に出た言葉だった。
彼に傷ついてほしくない、と今は強く思う。彼にはずっと元気でいてほしい。
「武田さん……あまり無理しないで下さいね」
「なぜそのようなことを聞く?」
武田は怪訝な顔で首を傾げる。私の意図が分からず困惑しているようだ。
確かに、いきなり「無理しないで」などと言われても、困惑するだけだろう。事情を説明しない限り、私の意図が伝わることはない。それは確実である。
だから私は、ついさっきみたばかりの恐ろしい夢について、彼に話すことにした。お婆さんの術か何かだと思う、という私の推測も含めて伝える。
「……なるほど。そういうことだったのか」
武田は立ち止まり、納得したように頷く。理解してくれたようだ。
「まさか私の存在が沙羅を傷つけていたとは。すまなかった」
「い、いえ!」
私は慌てて返す。
彼自身は悪くない。それなのに謝らせてしまうなんて申し訳ない気分だ。
「そういうことじゃないんです。ただ、少し伝えておいた方がいいかなと思って」
せっかく手に入れた敵の情報だ、共有しておいた方が良いだろう。
「あくまで報告です。だから、武田さんが悪いとかではなくて……」
私の言葉を途中で遮る武田。
「沙羅、私だからと気を遣うことはない」
彼は私が気を遣っていることに気がついているらしい。恋愛感情には疎いのに、そんなところにだけは気がつくようだ。
「もっと気楽に接してもらって構わない。私としても、その方がありがたい」
気楽とは真逆のような人である武田がそんなことを言うものだから、何だか妙におかしくて、つい笑みをこぼしてしまいそうになる。言葉があまりに似合っていなかったからだ。
だが、それが彼の願いなら、叶えてあげたいと思うのも事実。今ほど力まずに接することが彼のためになるならば、気楽に接するよう努めるのも一つかもしれない。
しかし、彼と接する時に力んでしまう原因は、遠慮だけではない。むしろ私が恥ずかしがりだからという部分の方が大きい気がする。そういう意味では、すぐに改善するのは無理だ。
「は、はいっ! なるべく頑張ります!」
言ったそばから力んでしまい、上ずった声を出してしまった。これはかなり恥ずかしい。穴があったら入りたいどころか、穴がなくても自分で掘って入りたいくらいである。
しかし武田は特に触れなかった。
「勝手を言ってすまないな。そうしてくれると非常に助かる」
彼はそう言って僅かに口角を持ち上げる。私を見下ろす彼の瞳は、穏やかな色を湛えていた。
黒いスーツで身を固めていて、けれど時折笑みを浮かべ、ちょっとした隙を見せる。そんな彼の背を追うのが、いつの間にか凄く好きになっていた。
彼のすぐ後ろを歩けている今この瞬間が、私にとっては何よりの幸福だ。
先ほど買ったカニのピンバッジ——渡すなら今しかない。
「……武田さん!」
私は勇気を出して、彼の名を呼ぶ。すると彼は振り返った。
「なに? どうかしたのか」
「これ!」
私は先ほど買ったカニのピンバッジを袋ごと差し出す。別々の袋にしておいてもらって良かった。
「沙羅? いきなりどうした」
「これあげます!」
武田は困惑したような顔つきでこちらを見てくる。どう反応していいか分からない、といった表情だ。
いきなりプレゼントはやり過ぎだろうか……。
「さっきショップで買ったんです。要らなかったら捨ててもらっても構いません。もし良かったら、どうぞ!」
「私でいいのか?」
「武田さんに似合いそうな物だったので。どうぞ」
「そうか。では言葉に甘えて」
言いながら彼は片手を差し出す。
——しかし。
「沙羅っ!」
武田は突如叫んだ。
そして半ば回転するように私を抱き締める。直後、武田の体越しに、ガンッと強い衝撃が伝わってきた。
「……っ。沙羅、無事か」
状況を飲み込めない私に、武田が問いかけてくる。そんな彼の顔には苦痛の色が浮かんでいた。
その時になって、私は武田の向こう側に人影を発見する。バットを持った男性だ。
「これは!?」
「……分からん」
武田は私から離れると、バットを持った男性の方へ体を向ける。よく見ると、男性は一人ではなかった。複数人いる。
「まさか庇うとは。これはさすがに驚いたな。自らバットに殴られにくるとは思わなかったよ」
リーダー格と思われる、一番最初からいた男性が、武田に向かって話し出す。
「アンタら、エリミなんちゃらの人間だよな?」
「……エリミナーレ、だ」
武田は私を庇うように立ちながら、目の前の男性たちを鋭く睨む。威嚇している動物のような迫力が、背後の私にまでひしひしと伝わってくる。
「俺ら、そのエリミなんちゃらの人間を潰すよう頼まれてるんだよね。だから、大人しく死んでくれる?」
何をいきなり。そう思っていたら、武田がキッパリ「断る」と返した。
「生意気なこと言うね。今の一撃、効いてるくせに」
あの瞬間、武田は確かに苦痛の色を浮かべていた。私を庇い、背中を殴られたのだろうか。
私のせいで——急激に不安が込み上げてくる。
「そんな……」
バットで殴られるなんて、想像するだけでも痛々しい。私のせいで彼がそんな目に遭うのは嫌だ。強く思うほど、涙が溢れてくる。
「私のせいで……」
「沙羅!」
武田は男性たちを見据えたまま、背後の私に向けて叫ぶ。いつになく厳しい声色だ。
「泣くな!!」
おかげで正気に戻り、涙がぴたりと止まった。
「は、はい。でも、武田さん……」
「案ずることはない。この程度で伸びる身なら、エリミナーレなどとうに辞めている」
今度はどこか柔らかさのある声だった。
——そうだ、武田は強い。
彼はそこらの人間では太刀打ちできないほどの力を持っているではないか。それを一番知っているのは私だ。その私が彼の勝利を疑うなど、あってはならないことである。私が信じずして誰が信じるのか。
だから私は、彼を信じようと強く決心した。