55話 「偽りの世界のあの日」
——気がつくと私は、アパートの一室に立っていた。
なぜこんなところにいるのだろう。私は水族館にいたはずなのに。
ところどころ欠けたフローリングに、やや黒ずんだ白い壁紙。目の前には木製の机がある。室内にはクッションや食べ物の空袋などが散乱し散らかっている。整理整頓ができていないことを除けば、どこにでもあるような平凡な部屋だ。
状況がまったく理解できず戸惑っていると、私から一番遠い南側の窓が古臭い音をたてて開く。そこから一人の青年が室内へと入ってくる。
その青年は明らかに武田だった。しかし髪は黒い。そのおかげで現在の武田ではないのだとすぐに分かった。彼は私を一瞥することすらなく、真っ直ぐに歩いていく。視線の先にはクローゼットがあった。
それを見た時、ようやく「そうか」と気づく。これは私が彼と初めて出会ったあの日の光景なのだと。ということはつまり、あのクローゼットの中には高校生だった私が入れられているのだろう。
きっとこれはあのお婆さんの術か何かに違いない。そうでなくては、現実でこのようなことが起こるはずがないのだから。
直後過去の武田はクローゼットを蹴り開け、中からかつての私が出てきた。二人は何やら話している。言葉は正しく聞き取れない。その先を既に知っている私は「早く逃げて」と強く思うが、過去の私はもたもたしている。
そこへ熊のような巨体が帰ってくる。もう二度と見たくない顔だ。
こちらへ向かって歩いてきたので一瞬焦ったが、男にも私の姿は見えていないみたいだった。男は持ってきたジュースの瓶を机の上に置く。そして二人に向かって何やら言い出す。私の存在には誰も気づかない。
襲いかかろうとした巨体は過去の武田に一度倒される。それを見た過去の私は、緊張が緩んだ表情になり口を動かす。まるで捕らわれていたことを忘れたかのような呑気な顔。私は「さっさと逃げないと」と言いたくて仕方がない。
なんせ、ここで速やかにこの場を離れれば、過去の武田が男に刺されることはないのだ。
しかしそんな思いが届くはずもなく、結局同じ運命を辿った。
「何なの……これは……」
半ば無意識に漏らしていた。
こんなものを改めて見せるとは悪質すぎる。
今思えば、あの時はまだ良かった。ついさっき出会ったばかりの者が刺されるのだから。それでも十分恐ろしかったけれど、今見るよりかはずっとましだったに違いない。
結末は分かっている。武田は死なないし私も助かる。
……それでも、辛いことには変わりがなかった。
「こんな悪質なこと! 止めて下さい!」
私はどこにいるかさえ分からぬお婆さん相手に叫んだ。いつまでもこのような光景を見続けていたら、そのうちおかしくなってしまう。一刻も早く止めてほしい。しかし返答はなかった。
過去の武田は包丁を突き刺された体勢のまま、過去の私に向けて「逃げろ」と叫ぶ。ここで過去の私は瓶を取りにくる——はずだったのに、彼女は走り出す。部屋の外へ向かって。
「え。どうしてっ!?」
私は思わず声をあげてしまう。ここまでまったく同じ展開だったのに、一番肝心なところで違う展開になるなんて。さすがに驚きを隠せない。
「待って! 逃げちゃ駄目っ!」
慌てて呼び止めようとするが、過去の私は振り返らない。私の声は欠片も聞こえないようだ。彼女はあっという間に部屋から出ていってしまった。
「そんな……」
過去の私がやらないのなら、誰が彼を助けるのか。
たとえ現実ではないとしても、過去の映像だとしても、武田が傷つくところを目にするのは嫌だ。
「……止めて。もう止めて!」
誰も彼を助けないし、私は彼を助けられない——それはあまりに辛すぎる。ただ見ていることしかできないなんて。
胸が締めつけられて、まともに呼吸をすることすらできなくなる。
「こんなの……こんなのって……!」
過去の武田は床に押し付けられる。抵抗する彼の背を、巨体は何度も刺した。
私の記憶にこのような光景はない。これは間違いなく偽物の映像だ。お婆さんが私を苦しめるために作り出したのだろうか? だとしたら、かなりの悪趣味である。
フローリングに赤い液体が広がっていく。思わず身震いしてしまうような状況だ。
酷い。酷すぎる。
ここまですると、もはや「偽物だから」で許されることではない。
「どうすれば……いいの……」
焦り、悔しさ、それに恐怖。様々な感情が複雑に混じり、わけが分からなくなって、涙が出そうになってくる。
目と耳を完全に塞いでしまいたい。なのに少しばかり気になってそれもできず、ただしゃがみこんで震えているしかなかった。
私は情けない人間だ。いつも肝心なところで動けなくなる。
もういっそ、ここから消えてしまいたい——。
そう思った瞬間。
「沙羅ちゃんっ!」
背後からレイの鋭い叫び声が聞こえた。私の後ろにあった扉から、レイが入ってきていたのだ。
「……レイさん?」
「沙羅ちゃん! 目を覚まして。これは嘘。だからこんなもの、見続ける必要はないよ!」
青く長い髪を揺らす凛々しいレイ。その手には銀の棒が握られている。
パンツスーツの似合う彼女は、真剣な表情のまま、過去の武田たちがいる方へ歩いていく。その瞳に迷いの色はない。足取りも淡々としている。
地面で揉み合う過去の武田と巨体の男がいるところまで歩き、数歩分手前で立ち止まった。そして銀の棒を掲げる。
「消えろっ!!」
レイは叫ぶと同時に、銀の棒を降り下ろす。
その瞬間、世界が白く染まった。