53話 「放置はどうなの」
距離があるのでハッキリとは見えないが、目を凝らすとなんとか見えた。
女性一人と、それを取り囲む多勢の男性だ。無理矢理のナンパか、あるいはいちゃもんをつけ絡んでいるか、恐らくその辺りだろう。
いずれにせよ女性は嫌がっている。そして、嫌がっているにも関わらず、男性たちに囲まれていて逃げ出せない状況である。実に気の毒だ。
「助けに行きますか?」
私は武田に尋ねてみる。大きな騒ぎに発展する前に止めに入るべきと考えるかもしれないからだ。しかし彼は、「命が危なくなるまで様子見だ」と、実にあっさりした答えを返してきた。
続けてレイにも同じ質問をしてみる。武田とは意見が異なることも十分にあり得るからだ。だが彼女もやはり「もう少し様子を見よう」と答えた。
「放っていて本当に大丈夫ですか?」
念のためもう一度尋ねてみた。
みんな揃ってやけに淡白なのが不思議だ。休日だからだろうか?理由は分からない。しかし「助けに行った方がいいかも」と思っているのが私だけだということは理解できた。
「うん、あのくらいなら大丈夫だと思うよ。店員さんがどうにか収めるはずだしね」
「そういうものなんですか?」
「あたしたちみんな今日は遊びに来たわけだし、いちいち出ていくこともないんじゃないかな。沙羅ちゃんは良い子だね」
そう言ってレイは笑う。やや男性的な雰囲気のある凛々しい顔に浮かぶ笑みは爽やかで、「かっこいい」という言葉がよく似合う。
だが、困っている女性を放置するというのは、なんとなく腑に落ちなかった。
一人でいたら男性に囲まれた。そのような状況にいる女性は、きっととても不安なはずだ。体は震えるだろうし、怖くて仕方ないだろう。
いくら普通な人間の男性とはいえ、一人ぼっちの女性からすれば十分な脅威である。しかも一対多で明らかに不利な状態だ。
「沙羅ちゃん、巻き込まれないように気をつけてね」
「はい。気をつけます」
それだけは本当に気をつけなくてはならないと思う。私はすぐに巻き込まれる質なので、離れていても何かの拍子に絡まれる可能性が高い。なるべく目立たないようにしておかなくては。
それから十分ほどが経過しただろうか。女性一人とそれを囲む男性数名は、いまだに揉めていた。
おかげで店内は殺伐とした空気になり、辺りは静まり返ってしまっている。手早く会計を済ませ、速やかに店から出ていく者も多くいた。私たちが入店した時の楽しい雰囲気は、もはや微塵も見受けられない。
「まだ続いてる。結構しつこいね」
レイが困り顔で呟く。
確かにかなりのしつこさだ。十分以上続けているのだから、周囲の客にかなりの迷惑をかけている。男性たちはそのことに気がついていないのだろうか。だとしたら好き放題暴れている小学生と大差ない。体は大人でも精神は子どもレベルということである。
……もっとも、年相応の精神レベルに達していない私が、偉そうに言えたことではないが。
「揉め事は余所でしてもらいたいものだな、まったく」
武田は疲れたように溜め息を漏らしている。
「せっかく楽しい水族館なのに、なんだかもったいないですよね。それに、みんなが遊びに来ているところで揉め事なんて。あの男の人たち、もう少し周りに気を遣うべきです」
何があったか知らないが、周囲への配慮を欠かさないでほしい。そんな風に思い話していると、武田がいきなり立ち上がる。
「止めてこよう」
ついさっきまで他人事のような態度をとっていた武田だが、急にやる気になったようだ。
「レイ、沙羅をよろしく頼む」
「えっ! 行くの!?」
レイはポカンと口を空け、数回パチパチとまばたきする。
「どうやら沙羅は放っておくのが嫌らしい。なので止めてくる。それに何か問題があるだろうか」
「まぁいいけど……騒ぎを大きくしすぎないでよ」
武田は一度しっかり頷くと、速やかに揉め事が起こっている席の方へ向かう。
ピンと伸びた背筋と、漆黒のスーツ。お互いの魅力を引き立てあっていると感じた。彼はその高い身体能力のわりには細身だ。がっちりした体格ではない。
しかしそれでも後ろ姿は逞しい。私はつい見惚れてしまった。
「沙羅ちゃん、頑張ってるね」
武田が去った後の席に軽く腰掛けたレイが爽やかな笑顔で褒めてくれた。
彼女が顔を動かすたび、後頭部で一つに束ねられた青い長髪が揺れる。女性らしさを感じさせるサラリとした髪はとても魅力的だ。正直羨ましい。
私の髪も極めて質が悪いわけではないし、今までずっとたいして気にはしていなかった。毛質について誰かに指摘されたり悪く言われたことはない。だから気にするきっかけなんてなかったのだ。
しかし、シャンプーのCMに出てくるようなレイの髪を目にすると、少々羨ましくなってきた。
「武田ともだいぶ親しくなってきたみたいだし、もうひと頑張りってところかな? これからも応援しているよ」
レイはいつも気の利いた発言をしてくれるので、私は彼女が近くにいてくれてとても助かっている。けれどそれを直接言葉にすることは、恥ずかしさに邪魔されてなかなかできない。
「……最近の沙羅は前向き」
椅子に軽く腰掛けるレイの真横に立っていたモルテリアが、独り言のような小さな声で言った。モルテリアは見た感じ心ここにあらずのようだが、案外ちゃんと話を聞いていたりする。
「モル?」
「……今の沙羅はいいと思う。楽しそう……」
口数の少ないモルテリアに言われると自然と信じてしまう。彼女が嘘やお世辞を言えるような人間ではないと信頼しているからかもしれない。
私は「ありがとうございます」と言って、再び武田へ視線を戻した。
「急に話しかけてごめんねぇ」
揉め事を解決しに向かった武田の背中に見惚れていると、突然声をかけられる。
振り返るとそこには一人のお婆さんが立っていた。七十は優に超えているであろう。しかし非常に奇抜な格好で、完全にこの場に馴染めていない。
身長は私より数センチ小さい程度だと思うが、腰が豪快に曲がっているせいでかなり小さい。顔も体も痩せていて、手などは骨と皮しかないような貧層さである。
しかし、その痩せ細った体つきとは対照的に、華やかさのある服装だった。鮮やかな色の糸で刺繍された赤紫の長いローブ、黒いレース生地で作られた地面に触れそうな丈のスカート。普通のお婆さんだとは到底思えないような服装である。
「何か御用でしょうか」
すかさずレイが応じる。爽やかな声と表情——相手がどんなに意地の悪い人間でも文句のつけようがないだろう。
しかしお婆さんは不愉快そうな顔をした。
「あたしゃ、そっちのお嬢さんに話しかけたんだよ。でしゃばってくんな」
先ほどとは異なり、厳しい声色で放つ。少し怖いお婆さんだったようだ。
「お前さんが天月さんであってるかねぇ?」
「は、はい」
自己紹介もしていないのに私の名前を知っているなんて、一体何者なのだろう。気味悪く思いながらも一応頷く。
「良かった良かった。ちょっと頼みたいことがあったんだよ」
「私にですか?」
「ちょっと手洗いについてきてほしくてねぇ。頼めるかい?」
まさかの頼みだった。歩けるのだから、お手洗いくらい自力で行けるだろうに。しかもなぜ無関係な私なのか。まったく理解不能だ。
「頼めるかい?」
断りたい気持ちは山々だが、断ると先ほどのレイのように睨まれそうなので、私は仕方なく「はい」と答えた。するとお婆さんは機嫌よさそうに歪な笑みを浮かべ、「助かるわぁ。ありがとうね」などと返してくる。レイに助けを求めたくて仕方ないが、この状況では無理だ。
それにしても、意味不明なお婆さんに絡まれるとは……別の意味恐ろしい。